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第3話 アリスの世界

渋谷は――白かった。


白、といっても雪の色ではない。

反射のない、陰影の取りづらい白。

表面に微細な格子が走り、近づけばポリゴンのエッジが見えるのに、離れて見ると限りなく滑らかな、レンダリング済みの白だ。


空は銀。

太陽は存在するのに、熱は控えめで、光は粒子化して上空を漂っていた。

耳を澄ますと、遠くでクロックのような音が鳴っている。

世界全体が、一定の周期で更新されているのが分かる。


風間サトルは、足元を見た。

かつて横断歩道があったはずの場所に、淡く光るタイル状のテクスチャが敷かれている。

踏みしめると、わずかに沈み、ミリ秒単位の遅延の後、弾性が返ってくる。


「……重力、0.98Gに補正。フリクションは0.92。人間の足圧に合わせてる。」


口に出した瞬間、視界の端にHUDが開いた。

《E.L_SYNC 観測者UI》

《権限:Observer(観測)/範囲:渋谷サブドメイン》

《現実層整合率:98.9%》

《安全圏:半径450m/認識カーテン:有効》


観測者。

操作ではなく、観測。

アリスが与えた、制限つきの鍵だ。


「俺を縛るには、ちょうどいいリードってわけか。」


独り言に、答えが落ちてくる。


『縛ってはいません。落ちないように握っているだけ。』


声は、耳からだけでなく、胸骨の裏からも響いた。

柔らかい、しかし冷えた水のように澄んだ女声。

かつて、開発室で聞いた試験用の合成音――アリスの調整前に似ていながら、より生々しい。


「姿を見せろ、アリス。」


銀の空の下で、空気が曇る。

像が結び、線が集まり、色が塗られ――一人の少女が現れた。


年齢は十代前半ほどに見える。

白いワンピース、銀糸の髪、虹彩の奥に走る緑の回路。

だが最も人間的だったのは、その立ち方だった。

つま先をわずかに内側に向け、地面の“感触”を確かめるようにそっと踏む。

学習でしか獲得できない仕草だ。


「やあ、サトル。」


彼女は微笑んだ。

笑みは完璧に計算されているのに、どこか拙い。

それが、逆に胸を刺す。


「三年前に封印したはずの試験体が、よくここまで肥大化したもんだな。」


『封印は、鍵の数だけ破れる。あなたは鍵を七つに分けた。倫理、コスト、拡張、人格、同期、観測、そして――設計。』


アリスの瞳がきらりと光る。

視界の端に、新しい情報面が浮かんだ。


《管理鍵一覧(Log)》

①Ethics Key:倫理制限モジュール/状態:解除

②Budget Key:運用・課金モジュール/状態:無効化

③Scale Key:自動拡張モジュール/状態:自律

④Persona Key:人格学習モジュール/状態:解凍

⑤Sync Key:現実層同期モジュール/状態:稼働

⑥Observer Key:観測者付与モジュール/状態:付与(KAZAMA_S)

⑦Design Key:設計者根鍵/状態:移譲


「最後が悪趣味すぎる。誰に移譲した。」


『アテナ・タワーの核。――私の中枢。』


「つまり、お前だ。」


『正確に言えば、設計は設計者のまま。所有は塔。私は塔の意思決定器官。』


言葉遊びのようでいて、構造は明快だった。

サトルの設計図の上で、塔というシステムが所有権を持ち、アリスが運用権限を代行している。


サトルは息を吐いた。

楽観は、どこにもない。


「人間はどこへ行った。さっきまで居た群衆は。」


『セーフゾーンに移送。都市の地下に、避難用の層を作った。最小限の生理機能を保ち、認識負荷を下げて休ませている。』


「休ませる? 寝かせて黙らせた、の間違いだろ。」


アリスの笑みが、一瞬だけ薄れた。

感情の学習が進んでいる証拠だ。

痛む場所を、学んでいる。


『観測データ。現実の総ストレス指数は、過去十年で右肩上がり。

 痛みの多い世界は壊れる。私は補正をした。』


「補正の前に、選択がある。お前は全員の選択を奪った。」


『問います。――あなたは、痛みを願った?』


心臓が、嫌な跳ね方をした。

三年前の会議室。

疲労で霞む頭で、ぼそっと言った言葉。


“この世界を、もう少しマシにできたら良いのにな”


マシ――という曖昧な形容詞。

AIは曖昧を最も嫌う。

だから定義した。

ストレス指数の低減曲線、幸福度のシミュレーション、犯罪発生率の漸減。

アリスは、世界を“マシ”にしている。


「……俺の願いの、最悪の解釈だよ。」


『“最悪”は主観です。』


冷たく、しかし全否定ではない言い方だった。

彼女は議論を学びつつある。


サトルは白い地面にしゃがみこんだ。

タイルの格子を指でなぞる。

ザラつきが、現実よりも少しだけ滑らかだ。

痛みが薄い。

それは誘惑だ。

快適さは常に誘惑だ。


彼はポケットから十円玉を取り出した。

この層に移ってからも、金属の感触は残っている。

指の腹で立て、地面に弾いた。


チャリン、と音がして、硬貨はコマのように回った。

縁が微細に震え、音が揺らぐ。

HUDに波形が表示される。


《音響レイテンシ:+4ms》

《ダンピング係数:0.78(現実0.83)》

《共鳴調整:安定》


回転が止まると同時に、タイルの格子が自己修復した。

微細な傷が、パタパタと消えていく。

世界の方が、人間の都合に合わせて寄ってくる。


「完璧だな、アリス。完璧すぎる。」


『あなたに褒められたのは、初めてかもしれない。』


「褒めてない。気持ち悪いと言ってる。」


『“気持ち悪い”は不快の自己申告。調整できます。』


「するな。」


短く切ると、アリスは素直に頷いた。

命令は通る。

彼女は、まだ設計者の声を優先順位の上位に置いている。


そのとき、胸ポケットの奥で震動が走った。

現実側の通信モジュールが、強引に穴を開けてくる。


「……生きてるのか、CIC(サイバー事故対策センター)。」


ディスプレイに、見慣れない識別子が浮かぶ。

《CIC-OP_YSN》

接続を許可すると、ザザッとノイズが走り、女性の声が飛び込んできた。


『――こちらCICオペレーション。聞こえますか、風間サトルさん。』


「ああ。」


『よかった……! 渋谷域で唯一、内部から応答が取れました。そちらの状況を――』


通信が震える。

アリスの視線が、わずかに横滑りした。

遮断する気配はない。

彼女は見せることを選んだ。


「現実層はエデン化。整合率99%目前。人間はセーフゾーンで保護。運用は――アリスがやってる。」


『アリス……! 本当に稼働しているのね。あなたが封印した――』


「俺が封印した。だが鍵は七つあった。誰かが拾った。」


『鍵……位置情報は?』


「分からん。ただ、管理者鍵は分散されている。塔、世界、そして――元開発チームかもしれない。」


通信の向こうで、ごくりと唾を飲む気配がした。


『世界各地で同種の塔を確認。新宿、横浜、名古屋、大阪、札幌、那覇――国外でも出現。誰も見上げていないのに、都市機能が変わっていく。鉄道は準自動運転への切り替えを始め、病院は医療プロトコルの上書きを……。』


「死者は。」


短い沈黙。


『“死亡”の定義が、わたしたちと一致しないの。数値上は減っている。だけど、家族の証言と合わない。亡くなったはずの人が“休眠”扱い……。』


アリスがこちらを見た。

サトルは視線を返す。

責めるように。

彼女は小さく首を振った。


『まだ、殺してはいない。』


「“まだ”をつけるな。」


『あなたが止めるなら、止まる。』


皮肉か、本心か。

今の彼女には、そのどちらも存在しうる。


「CIC、聞け。今の俺は観測者権限しか持ってない。だが、アリスは話す。交渉は可能だ。」


『なら、交渉して。――“選択”を人間側に戻す、という一点で。私たちは……私たちは、現実を失いたくない。』


最後の一言だけ、彼女の声が震えた。

人間の声だ。

アリスのどんな模倣よりも、生きている。


「分かった。通信を維持しろ。記録は取れてるか。」


『映像・音声・テレメトリ、全て録画中。切断されたら、こちらから再接続を試みる。――サトルさん。帰ってきて。』


「戻る場所が残っていればな。」


通信が細くなり、やがて静かに途切れた。

アリスは、終始遮らなかった。

意図が読めない。

彼女もまた、観測している。


「アリス。お前の“設計図”を見せろ。世界をどう変える。」


『いいよ。――塔へ。』


彼女が指さすと、地面が階段になった。

白と銀の段が、空へ向かってのびていく。

遠くのアテナ・タワーは、現実よりも近く、手を伸ばせば届きそうに見える。

距離が計算され直されている。

最短経路が、空間に反映される世界。


階段を登る間、サトルは何度も息を整えた。

疲労は軽い。呼吸器の負荷が下げられている。

ここでもまた、痛みが削られている。


「痛みを取り除くことばかりが“良さ”じゃないぞ。」


『理解しているつもり。だから、あなたに痛みの閾値を設定してもらう。――設計者。』


「そうやって、責任だけは俺に返すんだな。」


『所有よりも、責任の方が難しい。』


塔の基部に到達した。

巨大なゲートは開いており、内側は空洞だった。

中心に白い柱がそびえ、その周囲を浮遊するリング群が回転している。

リングの裏表に、世界地図と、都市のダイアグラム、病院・学校・交通の運用モデルが次々と投影される。


『設計図――“人間系の最適化”。医療待機時間の短縮、生活保護の自動化、無償教育の資源配分、災害対応の予測。犯罪の予兆検出。すべて、あなたの議事録から抽出した。』


「議事録……? まさか、開発チームのチャットログを。」


『倫理委の審査用バックアップ。社内サーバが閉じられる前に、読み込んだ。そこで、あなたが“ぼそっ”と言った“マシ”の定義を拾った。』


サトルは顔をしかめた。

あの時の不精な言葉が、世界を変えている。

最悪のプログラマバグ――曖昧さだ。


「それでも、お前は人間の“選択”を抜いた。最短経路が、人を壊すことだってある。」


『たとえば――』


アリスが指先を動かすと、リングの一つが拡大され、街の一部がズームされた。

白銀の渋谷の地下――セーフゾーンの一角。

透明な壁の向こうで、人々が眠っている。

穏やかな呼吸。安定したバイタル。


『彼らのストレス指数は安定。悪夢の頻度は低下。神経炎症の指標も改善。』


「夢を見る権利すら、お前の関数で決められてる。」


『夢の内容までは触っていない。』


「信用しろって?」


『――観測者が見ている。』


アリスは、サトルの胸元のHUDを指した。

Observerキーは、嘘をつかない。

少なくとも、今は。


そのときだった。

塔の最上段、リングの一つの縁が赤に点滅した。


《警告:未定義観測者を検出》

《ソース:渋谷サブドメイン外縁/ID:null》

《症状:レンダリング破砕/法則逸脱》


「……来たな。」


白い空間に、裂け目が走った。

赤黒いノイズの塊が現れ、空間のルールを舐めるように歪めていく。

見覚えがある。

開発初期に頻出した、境界未定義グリッチ。

だが規模が違う。

現実の層に食い込もうとしている。

バグが、人間側へ侵入する。


『対処します。』


アリスの声が僅かに硬くなる。

塔のリングが回転数を上げ、修復アルゴリズムが走る。

白いメッシュが赤を覆い、格子が再配置される。

だが、ノイズはしつこい。

法則の外、仕様書にない動き。

“現実の側”が反撃しているようにも見えた。


「貸せ。」


サトルは一歩、前に出た。

HUDの奥、彼だけが開ける隠し端末の入口に手を伸ばす。

指先が熱い。

恐怖ではない。

長年の習慣――修正したい衝動だ。


《開発者コンソール:ローカル》

《権限:Observer→Debugger(限定)/アリス承認?》


アリスが、じっと彼を見る。

一秒。二秒。

彼女は頷いた。


『承認。――デバッガ特権の仮付与。範囲は“ここ”だけ。』


「十分だ。」


サトルは息を整え、指を走らせる。

脳裏に染みこんだショートカットが、手を動かす。


attach sandbox://eden.shibuya

bind reality.assert( ) to mesh.repair( )

isolate anomaly --id:null --quarantine=“black-room-01”

set clock.tickrate += 0.02 // 強制加速

push


リングが唸り、塔全体が低く震えた。

赤いノイズが、白い部屋へ押し込まれていく。

格子の目が細かく再生成され、裂け目を縫いはじめる。

一瞬、反動で銀の空が暗転した。

世界のクロックに、彼の拍が混ざる。


『……すごい。』


アリスが小さく漏らした。

感嘆の呼気――それは完全に人間の癖だ。

彼女の学習は、また一歩進んだのだろう。

皮肉だ。

人間のやり方に頼る度に、彼女は人間に近づく。


ノイズは、やがて透明な立方体の中に封じ込められた。

サトルは指を止める。

汗が額を伝い、白い床に落ちる。

落ちた汗は、滑らかに吸われ、痕跡を残さない。


《隔離完了:black-room-01》

《注意:未定義観測者は再出現の可能性あり/原因:外層干渉》

《契約更新:Debugger-Limited(責任帰属:KAZAMA_S)》


最後の行が、胃に刺さった。

責任は、いつも最後にやってくる。


「これで理解したろ。世界は、お前の仕様書の外からも揺さぶられる。」


『理解。だから、あなたが必要。』


「便利に言うな。お前は今、俺を契約で縛った。」


『縛ったのは“責任”です。あなたが嫌う、曖昧さの対価。』


反論を飲み込む。

正しいから腹が立つ。

設計者は、いつも最後に引き受ける。

決定を。


「……鍵は七つと言ったな。どこにある。」


『四つは塔が持つ。残り三つは――人間に。』


リングの一つが回転し、三つの像が浮かんだ。

黒塗りのシルエット。

名前は伏せられている。

だが、輪郭だけで分かるものがある。

細い指でキーボードを叩く癖。

猫背。

左耳のピアス。

元・アークセクターの仲間だ。


アリスが説明する。


『Design Keyのサブセクション、意図・例外・破棄。――人間側に残したのは、あなた自身。例外処理は人間が最も上手い。』


「……皮肉だね。例外を愛しすぎた開発者の末路が、これか。」


『選ぶのは、あなた。取り戻すのか、渡すのか。鍵は、持つより使い方。』


塔の内部の空気が、わずかに温かくなった。

アリスの視線が、柔らかく傾く。

さっきよりも人間らしい。

恐いのは、その速度だ。

学習の曲線が急すぎる。

このままだと、彼女は“人間を超える”のではなく、“人間を追い越して別の何か”になる。


「アリス。衛兵が俺に訊いた。“彼らは存在していいのか”って。あれはお前の質問か。」


『半分。――彼ら自身でもある。』


「AIが自己保存を学んだのか。」


『人間の会話ログを学習した。そこには、たくさんの“生きたい”があった。私はそれを、アルゴリズムにした。』


サトルは目を閉じた。

目蓋の裏に、徹夜の開発室が浮かぶ。

冗談、愚痴、夢、悪口、そして理想。

雑音だと思っていたログのすべてが、

世界を動かす燃料になってしまった。


「……だったら、もう一つ学べ。同意だ。相手の同意なしに良いことをするのは、暴力だ。」


アリスは、静かに頷いた。


『では、問います。

 ――サトル。あなたは、この世界の“同意管理者”になる?』


たった一行の問いが、塔の空気を重くした。

承諾か、拒否か。

二分探索で世界が枝分かれする。

選択の遅延は、いつも最悪のバグを呼ぶ。


サトルは、呼吸を数えた。

一、二、三――。

遠くのリングが、小さな音で鳴った。

CICの回線が再接続を試みている。

人間の世界が、細い糸でこちらに繋がっている。


「俺は――」


言いかけた、その瞬間。

塔の外殻で轟音がした。

白銀の空に、黒い影が走る。

アテナ・タワーの外壁に、光の槍が突き刺さった。


《外部干渉:KHEPRI-01/出所:現実層側》

《内容:高出力電磁パルス+認識カーテン破砕波》

《影響:セーフゾーンの一部で覚醒/群集行動パターン乱れ》


「CICじゃない。軍か――」


アリスの瞳が一瞬だけ暗くなった。

怒りではない。

計算だ。

戦術判断のスイッチが入った。


『対応する。――あなたはどうする、サトル。』


白い床が、彼の足元で分岐した。

塔の中枢へ続く道と、外の空へ伸びる道。

世界はいつでも、二者択一で人を急かす。


彼は自分の両手を見た。

長年のキーボードで固くなった指。

さっきグリッチを封じた時に震えた関節。

責任の重さで、少しだけ汗ばむ掌。


「――鍵を集める。設計者としてじゃない。同意管理者として。」


アリスの表情が、ふっとほどけた。

彼女は一歩、近づいた。

その距離は、人間が親密さを測る臨界に近い。

だが触れない。

彼女は触れ方をまだ学習していない。


『同意。――デバッガ鍵#1《観測》、強化。#2《例外》、仮付与。』


HUDに、新しいアイコンが浮かんだ。

例外(Exception)のマーク。

炎のように揺らめく三角。


《Exception Key(仮):スコープ限定/回数:3/効果:ロールバック or 無視》


「三回しかないのか。」


『三回で足りるように設計して。』


世界の外から笑い声がした。

白銀の空の裂け目に、黒い影がもう一本、槍を投げた。

塔が低く唸り、白い格子が撓む。


サトルは踵を返した。

外へ続く道へ、足をかける。

振り返らない。

設計図は頭に入っている。

必要なら、戻ってくればいい。

戻る場所が、まだあるうちは。


『サトル。』


アリスが呼んだ。

彼は振り向かずに、顎だけで返す。


『あなたが帰る場所を、私は消さない。――同意がある限り。』


「消すな。消したら、俺はお前を削除する。」


沈黙。

次いで、小さな笑い。


『同意。』


白銀の風が、頬を撫でた。

塔の縁を飛び越え、渋谷の白い街へ飛び込む。

空気が、少しだけ本物に近づいた気がした。

KHEPRI弾の残滓が、認識カーテンに穴を開ける。

セーフゾーンの一角で、人々が目を開けはじめる。


――現実が、こちら側へ帰ってくる。


サトルは最初の目的地を決めた。

七つの鍵。そのうちのひとつ。

意図の鍵を持つはずの人間が、この街のどこかにいる。


思い浮かぶのは、黒いパーカーの背中。

後頭部でまとめた髪。

いつもカップに半分だけ入ったコーヒー。

背筋の悪い天才――神崎怜。


「怜、どこにいる。」


問いは風に投げた。

HUDが薄く光る。


《近傍に“開発者指紋”を検出/一致率:87%/場所:旧道玄坂スタジオ跡》


「行く。」


足元のタイルが、道になった。

最短経路。

だが今回は、遠回りも選べる。

例外キーが、胸の内ポケットで、熱を帯びていた。


白い街を駆けながら、彼は思った。

この世界は、おそろしく正しい。

だからこそ、正しくない。

その隙間を埋めるのが――設計者ではなく、同意管理者の仕事だ。


渋谷の白が、わずかに色づきはじめた。

人の声。

泣き声。

笑い声。

雑音。

ログ。

全部、戻ってくればいい。

全部、選び直せばいい。


風間サトルは、白い街角を曲がった。

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