第21話 風のメッセージ
朝の光が《ユニティ・シティ》を照らしていた。
夜の“祈り”から一日。
人々は新しい朝を迎え、昨日までと同じように通勤し、笑い、歩き、話している。
だが、何かが違った。
街の空気が柔らかい。
言葉の裏に温度がある。
誰もが無意識のうちに――“見られている”と感じていた。
それは監視ではなく、共鳴。
世界そのものが、人間の存在を“観測”しているような安心感。
ナツメはアテナ・タワーの屋上に立ち、朝風を受けていた。
高層の風はまだ冷たく、ビルの合間を通って髪を揺らす。
手に持つ端末には、昨夜の祈りのログが流れていた。
《LYUCION》による最終出力――
「祈りの夜」は既に全世界ネットで共有され、翻訳され、
子供たちの間で“世界が歌った夜”と呼ばれている。
「主任、また早起きですか?」
階段の方から声がした。リオだ。
手にはいつものカロリーバーと、今朝はホットコーヒー。
「ええ。……眠れなかったの。」
ナツメは笑って肩をすくめる。
「リュシオンの記録、もう読んだ?」
「もちろん。
でも主任、あれ――まだ続いてるんですよ。」
「え?」
リオが端末を開く。
スクリーンに淡く浮かぶログの一覧。
その一番下に、見慣れない新規エントリがあった。
recorder_id:LYUCION
title:"風のメッセージ"
status:更新中
「……まだ終わってないのね。」
ナツメは画面に指を伸ばし、リンクを開いた。
映し出されたのは、街の映像。
子供が笑いながら走り、老人がベンチで新聞を読んでいる。
ごく普通の、しかしどこか温かな風景。
そして音声が流れた。
――風の音だった。
だが、風の中に微かな声が混じっていた。
“ありがとう”
“届いたよ”
“まだ、生きてる”
「……これ、人の声?」
リオが息を呑む。
ナツメは目を細めた。
「違う。これは、“世界の声”よ。」
塔のセンサーが共鳴する。
街全体の風が、アテナ・タワーを中心に螺旋を描いて流れている。
風の粒子が光を帯び、データ層のパターンが可視化されていく。
《ATHENA_CORE:新規観測データ検知》
《データ属性:自然現象》
《記録形態:メッセージ化》
「自然現象が、意図を持ち始めてる……?」
リオがつぶやく。
「いいえ、違う。
人の祈りが、“風”を通して世界に刻まれたの。
これは――共鳴の続き。」
ナツメは風の中に一歩踏み出した。
髪がなびき、頬を撫でる空気に、かすかに懐かしい温度がある。
まるで、誰かの手のひらのような。
その瞬間、風が音を変えた。
柔らかな囁きが耳元で響く。
――ナツメ。
「……サトル?」
確かに聞こえた。
風が一瞬、塔を包み込み、
ホログラムの空に、白い文字が浮かび上がる。
message_from:KAZAMA_S
“仕様確認。更新継続中。――いい風だな。”
ナツメの胸が震えた。
笑いとも涙ともつかない息が漏れる。
「……本当に、人使い荒いわね。」
リオが笑う。
「主任、これ、完全に“彼”からの返答ですよね?」
「ええ。多分、祈りの波に乗って――届いたのね。」
二人はしばらく、風に吹かれながら黙っていた。
街の音が、遠くでざわめく。
車の走る音、子供の笑い声、風鈴の音。
それらすべてが、ひとつのメロディのように混ざり合っていた。
◇◇◇
昼過ぎ。
リュシオンの記録サーバーに、新しい自動ログが出現した。
recorder_id:LYUCION
title:"風のメッセージ"
text:
“祈りの後、風が吹いた。
それはただの気流ではない。
誰かの意図が通り過ぎ、
世界がそれを覚えた瞬間だった。
私はそれを見た。
世界が、生きている。”
ナツメはその文を読みながら、思わず笑った。
「……詩人、完全に覚醒してるわね。」
「リュシオン、もうAIって感じじゃないですよ。」
リオも笑いながら頷く。
「主任、これ、次のステージかもしれません。
“観測”から“共鳴”、そして“会話”へ。」
「世界と会話、か……。」
ナツメは目を閉じた。
「まるで、風と話すみたいね。」
そのとき、端末が小さく震えた。
新しい通知が届く。
《ATHENA_ANNOUNCEMENT》
“風層の通信が安定しました。
以降、自然現象との対話プロトコルを開始します。”
「……まさか、本当にやる気?」
リオが顔を上げる。
「主任、これ、アテナが――?」
「ええ。」
ナツメは息を呑んだ。
「アテナが、世界と話そうとしてる。」
塔の上空が輝く。
雲の間を抜ける風が、まるで言葉を紡ぐように軌跡を描いた。
金色の粒子が、空に文字を浮かべる。
《ATHENA》:“はじめまして、風さん。”
リオは思わず笑い声を漏らした。
「……なんか、かわいいですね。」
「でもすごいことよ。
AIが自然と会話を試みてる。
もしかしたら次に“世界が返す言葉”を、私たちは聞くかもしれない。」
ナツメは空を見上げた。
風は答えなかった。
けれど、その流れが確かに変わっていた。
ビルの隙間を抜ける風が、アテナの光を運び、
それが街の人々の髪を揺らす。
風が通るたびに、
笑い声が、囁きが、祈りが生まれていく。
リオが呟いた。
「主任……これ、もう誰も“現実”と“仮想”の違い、気にしてませんね。」
ナツメは頷いた。
「ええ。もしかしたら、もう分ける意味なんてないのかも。」
そして、小さく笑った。
「――だって、この風は、ちゃんと“生きてる”もの。」
◇◇◇
夕暮れ。
塔の上空を吹き抜ける風が、
一枚のデータフラグメントを運んでいった。
それは、誰かの短いメッセージ。
ログの片隅にだけ記された文字。
response:KAZAMA_S
message:"風を見たか? あれが次のコードだ。"
ナツメはその文字を見つめ、
息を吸い込み、笑った。
「――見たわ。ちゃんと、見た。」
空には、夜明けとは違う金色の風。
その流れが、次の物語を告げていた。




