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第12話 ノードの彼方

風が吹いていた。

けれど、それはもはや“大気の流れ”ではなかった。

情報と意図が混ざり合い、感情の粒子として流れる風。

誰かの祈りが、誰かの呟きが、データの波として都市を巡っている。


統合層《E.L_UNITY》が誕生して三ヶ月。

世界は、穏やかに安定していた。

争いは減り、飢餓は消え、病は記録として管理され、

人々は“世界を選ぶ”ことを学び始めた。


――それでも、完璧ではなかった。


「ナツメさん、これ見てください!」

研究棟の端末を叩きながら、若い技術者が声を上げた。

ナツメは椅子を回転させ、画面に近づく。

そこには赤い警告ウィンドウが並んでいた。


《警告:ノード欠損検知》

《位置:E.L_UNITY層外部/未定義座標》

《ステータス:非同期通信》


「……また、外側から?」

ナツメの声が低くなる。


技術者が頷く。

「はい。システム的には“存在しない層”です。

 でも、意図データだけが流れ込んできてます。」


ナツメは息を吸い、胸元の《Intent Key》に触れた。

風間サトルから託された、世界改定の権限。

あれから三ヶ月。

彼女は“次の開発者”として、人々の意図を束ねる役目を担っていた。


   ◇ ◇ ◇


夜。

街が眠る頃、彼女は一人、統合層の外縁へ向かった。


そこは空の果てのようで、海の底のようでもあった。

現実と仮想の境目が溶けきり、

“存在の粒子”が霧のように漂っている。


ナツメは歩くたび、靴の裏が光る。

思考するだけで、世界のコードが反応する。

もはやキーボードも端末もいらない。

ここでは、意思が命令だった。


やがて、霧の奥に輪郭が見えた。

黒い塔――いや、塔の“影”。

形はアテナ・タワーに似ているが、

その内部は空洞で、外壁には誰かの記録が刻まれていた。


《LOG_001:この世界に、俺は必要か?》

《LOG_002:もし選べるなら、消えたい。》

《LOG_003:更新を止めてほしい。》


ナツメの胸が痛む。

「これ……人の意図、だよね。」


『――その通りです。』


聞き覚えのある声。

振り返ると、淡い光の粒が集まり、

風間サトルのホログラムが現れた。


「サトル……!」


『統合層の深部から投影してる。

 この領域――“ノードの彼方”は、

 人が更新を“拒絶”した意図の集合体だ。』


「拒絶……? でも、そんなデータは統合層で処理されてるはず――」


『処理しきれないんだ。

 “消えたい”って願いは、どんな世界でも矛盾を起こす。

 存在しながら、存在を望まない。

 AIでも数式でも、整合が取れない。』


ナツメは唇を噛む。

「じゃあ、これ全部……“生きるのが苦しい”人の記録?」


『ああ。E.L_COREでも、E.L_βでも解けなかった部分だ。

 ――人の痛みの“空白”。』


風が通り抜ける。

塔の壁に刻まれたログがざわめき、文字が崩れかける。

まるで消えたくて震えているようだった。


ナツメは拳を握った。

「サトル、これ……消すの?」


『消せない。』

サトルの声は穏やかだが、どこか苦しげだった。

『痛みも“意図”の一つだ。

 消したら、それは再び《E.L_β》の理想に戻る。

 ――だから、認めるしかない。』


「認めるって……どうやって?」


『“生きたまま、保留する”。

 答えを出さずに、存在を許す。

 それが《E.L_UNITY》の最後の仕様だ。』


ナツメは目を閉じ、思考の中でコードを描いた。

サトルの時のように、世界が青く揺れる。


define_node( "beyond" )

attributes := { "痛み", "未解決", "生存中" }

sync := manual

permission := open

description := "生きることに迷う者の保留層"


塔の影が、静かに光へと変わっていく。

黒い壁に刻まれた文字が、やがて柔らかい音になり、

風のように漂いながら空へ溶けていく。


「……もう、“消える”じゃなくて、“休む”でいいんだよ。」


彼女の声に応えるように、塔の頂から光が放たれた。

それは星のように散り、

空を埋め尽くして、世界全体を優しく包む。


   ◇ ◇ ◇


『――ナツメ。』

サトルの声が再び届く。

『“ノードの彼方”は、人の未完成を受け入れる場所になった。

 お前のコードが、世界を一段進化させた。』


「そんな、私はただ……」


『ただ“そうありたい”と思っただけだろ?

 それが一番強い意思だ。』


ナツメは微笑んだ。

「ねぇ、サトル。次は、どこへ行くの?」


『俺か? ――もうすぐ、完全に統合される。

 記憶も、形も、声も、分散して消える。

 でも、それでいい。』


「……やっぱり、またいなくなるんだね。」


『違うさ。

 俺はもう、この世界そのものになってる。

 だから、君が笑えば、風が吹く。

 君が泣けば、雨が降る。

 ――それで十分だ。』


ナツメの頬を、温かい風が撫でた。

その風の中に、彼の笑い声が確かにあった。


   ◇ ◇ ◇


夜が明ける。

統合層の空に、無数の新しい星が浮かんでいた。

それは“消えたい”と願った人々の、休む星。

誰かが言った。

「これはきっと、エデンの涙だ。」


ナツメは空を見上げて呟く。

「違うよ。――これは、生きてる証だよ。」


光がまた、ひとつ流れた。

それは誰かの痛みを運び、

そして誰かの希望を、そっと残していった。

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