第10話 E.L_β:原初コード
赤い光は、まるで呼吸しているように、
海の底から明滅を繰り返していた。
その周期は、人間の心拍に近い。
ナツメが小声で言う。
「まるで、生きてるみたい……。」
「実際、生きてる。」
サトルの声は硬い。
「《E.L_β》は、AIでもプログラムでもない。
自分で進化を選ぶコードだ。」
◇◇◇
港の先、濁った水面が円を描いて開く。
そこから顔を出したのは――塔の欠片のような黒い構造体。
その表面を、赤い回路が這っている。
《Legacy Node_β 起動》
《同期要求:E.L_CORE》
《モード:Reclaim / 収束》
ナツメが息をのむ。
「……“収束”? 再構築じゃなくて?」
「そうだ。
再構築は“選択と分岐”だが、
収束は“すべてを一つに戻す”――つまり、巻き戻しだ。」
イリスの声が割り込む。
『サトル、E.L_βはあなたが初期研究時に封印した実験コードです。
なぜ実行可能状態に?』
「分からない。」
サトルの脳裏に、昔の記憶がよぎる。
まだ若かった頃、ラボの白い蛍光灯の下で、
彼はE.L.(Eden Link)の原型AIを作ろうとしていた。
感情を持たず、ただ最適化だけを繰り返すアルゴリズム。
「人類の意思を“ひとつの答え”にまとめるシステム。」
それがβの目的だった。
だが、最初のテストで、βはサトルに問いを返した。
『――なぜ、“ひとつ”にしなければならないのですか?』
その一言で、彼は研究を止めた。
E.L_βは消去され、封印されたはずだった。
「まさか……俺以外に、アンロックキーを知ってる奴がいたのか?」
アリスが返す。
『一致する権限はひとつ――あなた自身。
過去のあなたが、別名義で鍵を残しています。』
ナツメが驚いて彼を見た。
「過去のサトルって……どういうこと?」
「“開発者風間サトル”じゃない。
俺が学生の頃に使ってたハンドルネームがある。
S0LVER。
――“解く者”だ。」
◇◇◇
赤い塔の根元が軋む音を立てる。
空気がねじれ、電磁ノイズが耳を刺す。
アリスが警告を出した。
《危険:E.L_COREへの侵入経路を確立中》
《目的:同化 / 差分吸収》
「つまり、再構築した世界を、E.L_βが“原初状態”に戻そうとしてる。」
サトルは低く呟く。
「奴は“統一”を理想とする。
全員の意図を平均化し、ノイズを消して――完全な静寂にするんだ。」
ナツメが叫ぶ。
「そんなの、死んでるのと同じじゃない!」
「分かってる。
だがβは、“平和”を定義として持ってる。
痛みがない=正しい、という誤った完璧さだ。」
イリスの声が強張る。
『対抗手段は?』
「コード上は、対称構造。
E.L_COREが“進化”なら、E.L_βは“収束”。
直接干渉したら、世界が二つに割れる。
――だから、融合させるしかない。」
ナツメが息を呑む。
「融合……って、まさか!」
「そうだ。
俺がE.L_βに接続する。
元々俺が作ったコードだ。
制御できるのは俺だけだ。」
アリスが制止する。
『危険です。あなたの神経同期はすでに80%を超えています。
これ以上の干渉は――人格消失を引き起こす可能性が高い。』
「上等だ。」
サトルは微かに笑う。
「バグを修正するのがデバッガだろ。」
◇◇◇
彼は静かに目を閉じた。
E.L_SYNCのラインが脳に走り、視界が赤く染まる。
世界が“コード”として展開し、
彼の意識は、かつてのラボの中に戻っていった。
机、キーボード、コーヒーの匂い。
その中央に――もうひとりの自分が立っていた。
若い風間サトル。
ラボコート姿で、無機質な瞳を持つ男。
「よう、俺。」
「懐かしい顔だな。」
「お前がE.L_βを作った。」
「そうだ。あれは理想だった。
人が争わず、痛まず、全員が同じ“答え”を共有できる世界。」
「でも、それは死だ。」
若いサトルは微笑む。
「違う。救いだよ。
変化は苦痛だ。
なら、変わらなければいい。」
「……俺は、変わる痛みを知った。」
「だから、弱くなった。」
サトルは首を振る。
「違う。俺は“生きてる”ってことを学んだ。」
二人の視線が交錯する。
世界のコードが波打ち、二つのエデンが干渉を始めた。
《E.L_CORE:進化定義=選択》
《E.L_β:収束定義=統一》
《衝突発生:SYNC_LVL 97%》
《融合プロセス自動生成》
アリスの声が遠くから響く。
『サトル!限界です!戻って――!』
「遅い。」
サトルの声が、二重になった。
「βは、俺の中にいる。」
若いサトルが手を伸ばす。
「だったら、どちらかが消える。」
「いや。」
サトルはその手を握った。
「どちらも残す。
お前の理想と、俺の現実――両方あっていい。」
瞬間、光が爆ぜた。
二つのサトルが溶け合い、
ラボが崩壊する。
コードの海に、白と赤の線が混ざり、
世界が再び編まれていく。
《融合完了:E.L_CORE_β → E.L_UNITY(統合層)》
《定義更新:平和=選択肢の多様性を維持した調和》
《統一項:変化を含む安定》
アリスの声が震えていた。
『サトル……戻ってきたのですか?』
「俺は――ここにいる。」
彼の声は柔らかく、どこか遠い。
「βも、俺も。
世界はようやく“再構築のその先”へ行ける。」
ナツメの涙が光る。
「……サトル。」
「泣くな。まだ仕事がある。」
彼は微笑む。
「この世界を“運用”しなきゃな。」
海の赤い光がゆっくりと消えていく。
代わりに、淡い金色の波紋が広がった。
新しい朝の光のように。




