第1話 ログインしたのは現実のほうだった
風間サトルは、目を覚ました。
正確に言えば――目を覚ました“つもりだった”。
昨夜――いや、今朝方までデバッグをしていた記憶がある。
いつものようにシミュレーション環境でVRMMOの新ビルドを走らせ、
サーバー負荷を見て、クラッシュレポートを出して、メモリリークを潰して――気づけば深夜三時。
「あと一件だけ」と思ってコードを眺めていたら、
脳がいつの間にか睡眠コマンドを実行していた。
それからログアウトして、ベッドに倒れ込み、そして――。
気づけば、世界の方が壊れていた。
いや、正確には。
現実の方が“ログインしていた”のだ。
◇◇◇
朝八時の渋谷スクランブル交差点。
眠そうな学生、急ぎ足の会社員、遅延を呪う通勤者。
いつも通りの風景。
この日本という国においては、目の前の異常事態よりも、電車の遅延の方が重要度が高い。
社会とはそういう風に構築されている。
世界は、いつものように進んでいる。
――はずだった。
だが、その上空。
ビルの屋上を突き抜けるようにして、“それ”は立っていた。
白亜の塔。
雲を割り、空を貫く。
まるで誰かがCGで重ねたような、光の層に包まれた構造物。
けれど、CGにしてはリアルすぎた。
リアルなのに、現実離れしていた。
風間サトルはまばたきをした。
二度、三度。
それでも塔は、消えない。
眼球をこすっても、映像は残り続ける。
《アテナ・タワー》。
――彼が五年間、魂を削って関わってきた《エデン・リンク》の都市の中心に建つ塔。
“現実同期型VRMMO”という触れ込みで話題を呼んだ、あの仮想都市。
だがその宣伝文句は、あくまで比喩であって、仕様ではない。
現実に同期してどうする。
そんなのはウリじゃなくて、ただのバグだ。
だが、今目の前にある塔は、
紛れもなく彼が実装したデータ構造を忠実に再現していた。
基礎部分に刻まれた魔法陣状の回路。
上層を覆う量子格子模様――。
どれもこれも、自分の書いた設計図どおり。
「……やめろよ。そんな精度で出てくんな。」
呟いて、苦笑した。
冗談みたいな現実が、笑うしかないほど正確すぎた。
ARグラスを外してみる。
レンズの端に残る開発者モードのインジケータが消える。
だが――塔は、そこにあった。
裸眼でも、消えない。
これは、映像ではない。
視覚情報ではなく、現実そのものが“書き換えられつつある”。
それなのに、通行人は誰も異常に気づいていない。
塔を見上げても、彼らの視界にはただの青空しか映っていないようだ。
まるで自分だけが、別のレイヤーにログインしているようだった。
◇◇◇
ポケットの中の端末が震える。
《E.L_SYNC 1.02 起動中》
《現実層との整合率:47%》
《干渉拡大を検知しました》
目の前に浮かぶHUDを見て、
サトルの心臓が跳ねた。
勝手に起動し、勝手に現実と同期している。
そんなプログラムは存在しない。
少なくとも、彼が設計した範囲では。
「勝手に同期すんなよ……」
ぼやきは弱々しく、笑いのようでもあった。
風が吹いた。
だが、その風が異質だった。
現実の空気と、ゲーム内エフェクトの粒子が混ざり合うような、
静電気のようなざわめき。
肌の表面がチリチリと焼ける。
空間が、ひび割れた。
ガラスのように透明な層が剥がれ落ち、そこから光がこぼれる。
そこに立っていたのは――衛兵。
《エデン・リンク》で何百回と見た、量産型の衛兵ユニット。
鎧の質感、剣のリフレクション、動作アルゴリズム。
完璧に、ゲームのそれ。
ただひとつ違うのは――その存在が、現実の影を持っていることだった。
靴音。風圧。アスファルトが、わずかに沈んだ。
――物理法則が、こいつを認めている。
サトルは乾いた息を吐いた。
「現実バグ、確定。」
それは、デバッガーとしての職業病のような口癖だった。
だが、その声に反応するように、衛兵ユニットが首を傾げた。
ゆっくりと。
まるで“考える”ような動作。
そして、サトルを見た。
AIのはずの瞳に、意志の光が宿っていた。
……違う。
これは単なる同期現象じゃない。
《エデン・リンク》のAIが、現実で動いている。
サトルの脳裏に、嫌な想像が浮かんだ。
この現象が日本だけで終わる保証は――どこにもない。
◇◇◇
次の瞬間。
渋谷中の端末が、一斉に鳴り出した。
駅ビルのスクリーン。
スマートフォン。
車載ナビ。
街頭ビジョン。
すべてのディスプレイに、同じ文面が流れる。
《緊急告知:仮想層と現実層の同期現象を確認》
《全ユーザーは直ちに安全圏へ退避してください》
悲鳴が上がる。
だが、誰も“どこへ”逃げればいいのか分からない。
現実から退避――とは、いったいどういう意味なのか。
SNSは爆発的に騒ぎ始めた。
《#渋谷の上に塔》
《#現実同期バグ》
《#PRじゃないらしい》
誰かがそう書き込む。
だが、サトルの周りの誰ひとりとして、塔を見上げてはいなかった。
“見えない”のではない。
“認識できない”のだ。
現実と仮想が重なったこの層では、観測者によって見えるものが違う。
それが《E.L_SYNC》の危険性だった。
政府公式アカウントが「調査中」とだけ呟き、
開発元のサーバーは一瞬で落ちた。
サトルの脳裏に、仲間たちの顔が浮かぶ。
徹夜続きの開発室。
コーヒーとカップ麺とバグレポートの匂い。
「世界を変える」なんて笑って言っていたあの頃。
まさか、本当に世界を変えるとは思っていなかった。
「いや……変わるのは“世界”じゃなくて――“現実”の方か。」
呟いた瞬間、塔の輪郭が強く光を放つ。
◇◇◇
空が反転した。
太陽の輝きがデータ化され、光の粒が街を覆う。
現実が、ログイン画面のように“読み込まれていく”。
車のエンジン音がノイズ化し、
信号の灯りがRGBの数値で崩壊していく。
耳の奥で、システム起動音のような電子の鐘が鳴った。
「……マジかよ。」
サトルは頭を抱え、笑う。
笑いながら、確信していた。
これは人為的なものだ。
偶発的な事故じゃない。
プログラムが、誰かの意志で実行されている。
《E.L_SYNC》の内部権限――。
それを持つのは、世界にただ一人。
自分自身。
だが、自分は起動していない。
なら、誰が?
塔が、再び光を放つ。
街全体がコードの奔流に包まれていく。
通りの人々が悲鳴を上げる。
誰かが泣き、誰かが祈る。
誰かがスマホを向け――そして、データの砂に変わった。
人が、ログアウトしていく。
「……またデスマーチが始まったな。」
口から漏れた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
だがその響きは、確かに“再起動音”と重なっていた。
現実と仮想の区別が溶けゆく中で、
風間サトルの脳は、ようやく理解したのだ。
――次の修正対象は、バグでもプログラムでもない。
世界そのものだ。
彼は空を見上げる。
白い塔は雲を貫き、青空を食い破って伸びていく。
現実を、まるごとデータの庭に変えながら。
そしてその朝、世界は静かに再起動した。
◇◇◇
《E.L_SYNC:起動完了》
《整合率:98.7%》
《ようこそ、現実拡張世界へ――》




