8 推薦
それから数年の歳月が流れた。
朝、領主館の庭には、村の子どもたちの元気な声が響いていた。領地での生活は、彼にとってかけがえのないものとなっていた。朝は村の少年たちと剣を振り、昼は領主館の広間を学び舎として、子どもたちに読み書きを教えた。都に行ったときに新しい本を買ってきてほしいとねだられて、任せておけと返事をすると、コンラートが静かに首を振った。「そのような高価なものを買う余裕が、あると思われますか」眉一つ動かさず、いつもの調子で冷静に釘を刺してきた。都での茶会で付き合いができた貴族から、一昔前に流行していた物語の本を譲り受けて持ち帰ったとき、子どもたちは大喜びしていた。
村人たちとも打ち解けてきた。朝の鍛錬には、いつしか大人も参加するようになった。「この村の領主は先の戦争の英雄であり、都では名を知らぬ者のいない豪傑」と、この村を出入りする商人が吹聴して回っていた。それを真に受けた村人たちは大騒ぎして、早朝の畑仕事を切り上げてまで鍛錬に参加する若者が現れた。そして、夜には、村人たちと火を囲み、尽きることのない話に耳を傾ける日々が続いた。
しかし、一年に一度、彼は辺境伯の都へ赴かなければならない。領地の報告と、辺境伯への挨拶のためだ。そして都に着くと、彼の部屋はいつも子爵の邸宅に用意されていた。
「来たか」
都での晩餐の後、書斎に招かれた彼は、暖炉の前でグラスを傾ける子爵と向き合った。
「お前の領地は、最近評判が良いようだ。辺境伯も、わずか数年で村が発展するとはと、感心しておられた。この都にいて田舎の小さな村の評判が聞こえるなど滅多にないことだ」
それは、領民たちの努力によるものです、と月並みな返答をした。とはいえ、褒められるほどの大きな変化はない。畑の面積と収穫高、領民の人口がそれぞれ僅かに増えたくらいだ。そして、考えてみると確かに、この都で僻地の村の名前が出ることなどあるのだろうか。その良い評判を誰が流しているのか。心当たりがあった。彼が思案顔をして子爵をみると、子爵は小気味良さそうに笑った。
「謙遜するな。だが、お前を辺境伯家の騎士団長に推す声が上がっている。どうだ、一度、考えてみないか」
騎士団長。それは、彼がかつて目指した栄誉の頂点だった。だが、今の彼には、それ以上に大切なものができた。彼女の夢の続き。領地の未来。彼の心は動かなかった。領地の統治は軌道に乗り始めたばかりであり、ヴィオラから受け継いだ夢の実現に近づくには、まだ時間が必要だった。
彼は、今は領地を離れるわけには参りませんが、いずれご期待に沿えるよう努めます、と答えると、子爵は満足げに頷き、「いい加減に身を固めろ。良い縁談がある」と話を続けた。なるほど、この話に繋げるために子爵が評判を流していたのか。彼は得心がいった。
ヴィオラへの想いを抱えたまま、足を踏み出すことはできなかった。この身は国と領民に捧げたとして彼が固辞すると、その気持ちを察したのだろうか、子爵は「どこまでもまっすぐな男だ」と苦笑しながら肩をすくめた。しかし、その目は、どこまでも優しかった。
何かを思い出したように、子爵が話題を変えた。
「学び舎は順調か?こうして領地を離れている間に、それを任せる者はいるのか?」
統治はコンラートに任せきりだが、それ以上の役割は与えられない。彼は首を振り、そのような者はいないと答えると、子爵は、ある人物を教師として雇ってほしいと切り出した。
教師を目指す者がいて、職を斡旋してほしいと頼まれているが、その者は未だ若く、教師として十分に働けるかわからない。紹介先が見つからず困っていたという。子爵は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「助けると思って、しばらく預かってやってくれないか」
子爵の言葉に、彼は頷く黙っていた。そして、静かに頷いた。それは、彼女の夢を実現させるための、ひとつの選択だった。