6 受け継がれる願い
彼の知らないうちに、辺境伯家の別邸の部屋は引き払われ、子爵の邸宅の客間が彼の部屋になっていた。当初は社交の場に出る予定もなく、訓練場で剣を振る日々だったが、子爵の計らいによって社交の場に招かれることが増えた。強引ではあるが、抜け目なく、子爵は彼の騎士としての社交界デビューを成功させた。都での滞在はあっという間に過ぎ、手厚い見送りを受け、彼は領地へ戻った。
領主館には、ヴィオラの箱以外にもいくつかの箱が届いていた。そのひとつには数冊の真新しい本が詰められていた。劇場で人気の物語ではなく、英雄の叙述詩ばかりなのは子爵の趣味なのだろう。他の大きな箱には、訓練場で使われる木製の盾と、刃の潰した鉄剣。年少の従士たちが使う、サイズの調整が可能な防具一式。防具からは新しい革の匂いがした。
そして、ヴィオラの箱を開いた時、あの花の香りが鼻腔をくすぐった。彼女は、今もここに生きていると感じた。箱には、使い込まれた本が何冊か入っていた。どれも丁重に扱われていたことはわかるが、ところどころに傷がつき、何度もページを繰られた様子が伺える。彼女が幼かった頃に夢中になって本を読んでいた姿がありありと目に浮かぶ。
一番上に置かれていた本を手にとってぱらぱらと捲っていると、紫色の小さな花の押し花が、栞のように差し込まれていた。彼はその押し花を慎重に手のひらに載せた。あの日から、無意識のうちに探し続けていた花。この村にも咲いている場所があるのだろうか。今度、村の誰かに聞いてみよう、そう思った。彼は、押し花を両手で挟み、空の小箱に仕舞い込んだ。
翌日、彼は村人たちと協力して武具棚をつくり、領主館の別棟にある広間の壁に並べた。このような村に貴族を招くことなどない。彼は広間を領民の会合や子どもたちの学び舎として使うことにした。場違いな豪奢な飾りを背景に、無骨な武具棚が並ぶ。「このほうが落ち着くな」彼がそうつぶやくと、領民たちは大声で笑い、彼も笑った。
その晩、手伝ってくれた村人たちを広間に招き、皆で食事を囲んだ。「貴族様と食事をしたことなんてない」と、初めは戸惑っていた。しかし、騎士団で鍛えられた大声で乾杯の音頭をとって木製のジョッキを掲げると、村人たちも嬉々としてそれに続いた。
会話が弾み、食事が終わる頃、広間を学び舎とすること、手の空いているときに子どもたちを預けてほしいこと、村の皆にもこれを伝えてほしいことを切り出した。その場にいた村人のうちの何人かは訝しげな顔をした。これまでの領主は、税の徴収や徴兵以外で領民に干渉することはなかった。突然の申し出に、意図を測りかねている様子だった。
広間に並んでいた皿を片付け、村人たちは帰っていった。一人、領主館に残った彼は、子爵から贈られた武具を広間に運び込む。箱から武具を取り出し、棚に並べていく。彼は訓練用の刃を潰した剣を手に取ると、しばらく無言で剣を振っていた。
彼は私室に戻り、ヴィオラの箱を開けた。やはり花の香りがした。気のせいではなかった。
箱から本を取り出して書架に並べていると、そのうちの一冊から封蝋された手紙がはらりと床に落ちた。宛名には、彼の名が記されていた。