5 将来の夢
秋の収穫祭が終わり、辺境伯の都へ向かう道中、道端に花はほとんどなかったが、彼の心は穏やかだった。新しい領地での日々が、失われた時間に新たな意味を与えてくれたからだ。
各地での収穫祭が終わると、領主たちは領地を離れ、辺境伯家の都で過ごすことが慣例となっていた。これは各地の生産物を辺境伯家に持ち寄っていた風習の名残りであったが、今ではその伝統は単なる形式上の儀礼になっている。この期間に催される様々なパーティーでは、貴族間の交流が図られ、情報交換の場になっていた。裕福な貴族は辺境伯の都に邸宅を構え、多数の使用人を雇っていた。しかし、小さな領地しか持たない者は、辺境伯家の別邸に用意された部屋に滞在するのが常だった。彼もその中の一人だった。
辺境伯家に到着した彼は、別邸の部屋に通された。特に用事もなかったため、彼は墓地へ向かった。老騎士の墓には、いつものように杯が置かれていた。生前、身寄りのない老騎士は『墓は要らぬ。戦死者たちと共に葬ってくれ』と語っていたが、辺境伯の計らいで、彼の妻の隣に墓が建てられたのだ。彼は杯を蒸留酒で満たし、しばらくの間、静かに祈りを捧げた。杯の酒が風に揺れた。
ヴィオラの墓はどこにあるのかわからなかった。この墓地ではなく、別の街区にあるのかもしれない。彼女の墓には、花を捧げよう。できれば、あの紫色の花を。
墓地から立ち去った彼は、かつて通っていた訓練場へ向かい、剣を振り始めた。剣を振るときは、そのことだけを考えられる。剣先に変化がないか、足運びに問題はないか、相手の動きを想像して、剣を叩き込めているかどうか。息が上がってきて汗が垂れてくる。しばらく汗を流していると、遠くから声をかけられた。振り返ると、そこにいたのはホーエンヴァルト子爵だった。
「こんなところにいたか。お前が着いたと聞いてな」
夕食に招かれた彼は、急いで着替え、子爵の邸宅へと向かった。子爵は、温かく彼を迎え入れ、前の領主による混乱を切り抜けたことを労いつつ、「言うまでもないが、辺境伯家の秘密は、墓まで持って行ってほしい」と釘を刺した。騎士が手紙を読んですぐに燃やしたことを告げると、子爵は感心したように頷き、「お前に任せて正解だった」と誇らしげに言った。
コンラートの様子や村の状況に話が移ると、騎士は村での生活を率直に語った。コンラートが非常に優秀で、彼なしには統治は務まらないこと。領民たちとは徐々に関係を築き、交流を深めていること。そして、子どもたちに剣を教えていること。子どもたちのために何かできることがないかを思案している、そう打ち明けると、子爵は静かに頷いた。
「そうか。道理で良い表情をしている」
子爵は「今のお前にならこの話をしても大丈夫だろう」とつぶやいてから話し始めた。
「お前の他にヴィオラを嫁にやるつもりなど毛頭なかった」
子爵はまっすぐな視線で彼を見て話した。普段の奥知れぬ深さのある眼差しではなく、まっすぐな、慈愛に溢れた目だった。紫色の小さな花を摘み、微笑んだ彼女のように。ああ、やはり彼女と子爵は親子なのだと、彼は思った。
「あれの本心など、言葉を聞かずとも、顔をみればわかる。望まぬ婚姻など、させるものか。だから、教会の奉仕に行くと言い出したとき、戦が終わるまでおとなしく待てば良いと言って、反対したのだ。誰が何を言おうと気にする必要はない」
そう言いながらも、子爵の声は僅かに震えた。軽く咳払いをして、続けた。
「だが、あれは、どうしても奉仕に行きたいと言ってきかなかった。ヴィオラがこの世を去った時、我が子爵家を守るために、教会の奉仕に行くなどと言わせてしまったと後悔した。貴族の娘として、厳しく育ててきたせいだ、と」
貴族の婚姻は政治的な思惑によって当主が決めてしまうものだ。妙齢に達した子が結婚していないと、口さがない者たちがあらぬ風説を語り始め、家の評判に傷がつきかねない。教会への奉仕であれば正当な理由とされ、それについて語ることは忌避される。貴族として育てられた彼女なりの配慮だろう、と子爵は思っていたのだ。
「あれは、教会で子どもたちに読み書きや算術を教えていたようだ。思い返すと、なのだが、随分前に、教師になりたいと言っていたのだ。ならば家庭教師を探している家を紹介してやると言ったら、身分を問わず、誰もが知識を得る機会を持つべきだなどと言っておった。それで教会に行くことにしたらしい」
騎士は今まさに、子どもたちのために何かをしたいと悩んでいた。かつて、彼女は子どもたちに勉強を教えていた。すでにそれを実行していた。自分もこの子どもたちに何かを残せるのだろうか。剣だけではない、この先を生き抜くための何かを。自分がこれからすべきことが見えてきた。
子爵は「暫し待て」と彼に言って部屋を出ていき、使用人を連れて戻ってきた。使用人は木箱を抱えていた。
「遺品だ。これはお前に託すことにした。教会で使っていた本が入っている。子どもたちのために使ってくれるなら、あれも喜ぶだろう」
騎士は、子爵に深々と礼を言い、箱を受け取った。ずっしりと重い。それは、彼女の想いが詰まった箱だった。
彼の領地まで箱を届けるよう手配するようにと、子爵は使用人に言付けた。使用人が静かに部屋から立ち去ると、子爵は長く息を吐き出した。子爵のこのような姿を見るのは初めてのことだった。
武勇に優れる辺境伯家。その直臣筆頭。常に周囲に気を配り、深みのある目で相手の本心を鋭く見抜き、冷静沈着、完全無欠な人物。それがホーエンヴァルト子爵という男だ。心のどこかで、彼は子爵を、自分と同じ人間と思っていなかったのかもしれない。しかし、今は、一人の人間として、ヴィオラの父親として、腹を割って彼に話そうとしている。そのことが、たまらなく嬉しかった。