4 転機
騎士は、日の出前に目を覚まし、領主館の庭で剣を振ることが日課だった。空気を切り裂く剣の音だけが、静寂を破る。その研ぎ澄まされた動きは、たとえ剣術の心得のない者でも、彼が名のある騎士であると一目でわかるほどだった。日が昇り、馬の世話を終えると、彼は村の中を歩く。見かけた村人と挨拶を交わすが、どこかよそよそしさを感じた。寂しさを感じながらも、彼は毎日、村を歩き続けた。いつか、村人たちと打ち解けられる日が来ると信じて。
やがて転機が訪れた。森の近くで仲間が狼に襲われたと叫びながら、中年の男が領主館に駆け込んできた。男の顔は蒼白で、言葉にならない叫びを繰り返していた。騎士は即座に革鎧を身にまとい、槍を手に持った。迷いはなかった。村の若者たちを集め、彼らを引き連れて狼狩りに出た。襲われた者は深手を負っていたものの大事に至らず、助け出すことができた。その後、狼は見つからなかったが、この出来事がきっかけになり、村人たちが徐々に心を許してくれるようになった。
それ以来、騎士は領地の見廻りと称して範囲を広げて村を散策するようになり、なかなか戻って来ないとコンラートがぼやいていた。
コンラートといえば、この村に来てから二カ月が経った頃、騎士のもとに手紙が届いた。差出人はホーエンヴァルト子爵だった。前任の領主だった男の不正の数々は世間に露呈することなく、男は幽閉された。多岐にわたる犯罪が発覚し、この村から不正に持ち出された財産なのか、犯罪によるものなのか区別できないため、全体の一部を返還する。全面的な協力に感謝すると綴られていた。読み終えると、庭で手紙を燃やした。
其実はコンラートによるものであり、思惑は口止めであるが、協力金は渡りに舟であった。コンラートが言うには、少なくとも二年間ほどは収入がなくても安定して領地運営できるらしい。先日までは騎士の財産が日を追うごとに目減りしていたため、収穫祭を迎える前に、領主館を担保に借り入れしなければならないとコンラートが嘆いていた。
担保の話になった際、コンラートは鉄の装備一式を提案したが、騎士は頑として譲らなかった。領主館を担保とする場合と装備を担保とする場合、それぞれの計画と返済の困難さについて、どれだけ説明しても耳を貸さなかった。コンラートは目をぐるりと回して天を仰ぎ、「まったく、石よりも硬い意志だ」などと嘯きながらも、どこか誇らしげだった。
ある日、彼は日課の鍛錬を済ませて、散策に出かけた。早朝だというのに暑く、強い日差しに照らされ、汗が噴き出る。畑の葉は青々と生い茂り、早朝から家族総出で野菜を収穫している。彼を呼び止める大きな声がして、そちらを見やると弦を編んだ籠に野菜を乗せて、初老の女が歩いて来た。「領主様!ひとつ、どうですか?」礼を言って、採れたてのトマトに齧りつく。その甘さと瑞々しさに、暑さを忘れ、美味い、と声が出た。思いもよらない彼の大声に、初老の女は目を丸くした後に大声で笑った。
「領主様が来てくださってから、この村、本当に良くなりました。前は、まだ暗いうちから見張りの連中がうろうろしていて。採れたものも何もかも持って行かれて。そんなものだから怖くて怖くて。いつも、震えていたもんですから」
いつの間にか近くに来ていた村の男が、この村の過去を生々しく語り、その変化にしきりに感謝していた。必死に語るその姿は、騎士の気が変わらないようにと訴えているかのように見えた。騎士は、これからもっと良くなる、と言った。安心して暮らせる村にしたいという気持ちは揺るがない。村人たちは顔を見合わせた後、深々と頭を下げた。
しばらく歩き回り、村人に声を掛けていた。挨拶をして立ち去る時に背後から「びっくりした。見張りかと思った」「今度の領主様はそんなことしねえって何度言ったらわかるんだ」と声がして、しばらくの間は畑の周りを歩かないようにしようと決めた。村人たちの傷は深い。徐々に信頼を得るしかない。
彼は、ふと思い立ち、あの紫色の花を探すことにした。
どこに咲く花なのかを知らないため、森の方向へと向かった。収穫作業を終えて遊びに行く子どもたちの嬌声が遠くから聞こえた。森の周りを歩いたが、あの花は見つからなかった。子爵家の庭先に行ったのは、冬を越えて暖かくなった春先のことだったと思い出し、この季節には咲いていないのかも知れないと思い至った。花の色と形、香りはしっかりと脳裏に焼き付いているのに、葉の形は思い出せない。花が咲く頃になったら探しに行こう。そう、きっと、まだ咲いていないだけだ。
領主館のある方向にしばらく歩き、木が疎らに生えている高原にたどり着くと、そこには木の棒で剣術の真似をして遊ぶ子どもたちがいた。彼が近づくと、彼らは目を輝かせ、一斉に駆け寄ってきた。
「りょうしゅさま!りょうしゅさま!僕たちに剣を教えて!」
子どもたちの笑顔に囲まれて、騎士は自分の中に温かい光が灯るのを感じた。騎士は子どもたちと一緒に木の枝を拾い集めた。持っていたナイフでそれを削り、小さな木刀を作った。そして、剣の持ち方、足の運び方を教え始めた。最初は遊びのようだった稽古も、子どもたちの熱心な眼差しに、やがて真剣さを増していく。
騎士は自然と顔がほころぶのを感じた。いつから笑わなくなったのか、自分でもわからない。そんな久しい感情に戸惑いながらも、彼はこの先について考えていた。この村を拝領した時、剣を振ることしか知らない自分は、村を守ることだけしか考えていなかった。今は前線である故郷のような村を想像して、攻め入る外敵から己の力で村を守る、と。他に何かできることがあるとは考えてもいなかった。しかし、現実はまったく違った。戦地から遠く、前の領主によって荒らされた場所で、村人やその子どもたちに囲まれて、今は心穏やかに剣を教えている。
この村で、成し遂げたいことが増えた。この子どもたちを育てよう。どのような困難にも打ち勝ってみせよう。これまでは国に捧げた命だった。これからは、残りの人生を領民に捧げていい。