2 旅路
辺境伯との契約の儀式のため、騎士は城へと赴いた。賓客に囲まれる中、領地の位置と村の名前、国に納めるべき租税等が読み上げられ、その契約書に署名した。その場にはホーエンヴァルト子爵がいた。公式の場で見る子爵は、矍鑠として威厳のある立ち姿だった。
「仔細はホーエンヴァルト子爵に聞くと良い。彼に一任してある」
辺境伯が騎士に申し付けると、子爵は騎士に視線を送って鷹揚に頷いていた。
後日、城にある子爵の執務室に呼び出された。格式に則った挨拶の後、子爵は地図を広げて説明を始めた。新領地は隣国から遠く、険しい山に囲まれた、交通的にも戦略的にも重要視されていない寒村だという。
かつてマイヤー家が治めていたが、断絶して以来、二十余年にわたり事実上の空白地となっていた。その間、辺境伯家の縁者が領主を務めていたが、子爵曰く『優れた頭脳を持つものの、金に汚く享楽的な人柄』であり、『何かと理由を付けては国への義務を怠る不届き者』との評だった。先の戦争に協力しなかったことで、ついに辺境伯の逆鱗に触れ、功労者への領地割譲という名目で、その男の排除に動いた。
子爵は、辺境伯家の醜聞になりかねない難局の事後処理を任され、すでに優秀な行政官を現地に派遣していた。行政官には領地割譲をもって契約を騎士に引き継ぐことに同意させてある、と告げた。
説明を終えると、子爵からは鋭い態度が薄れ、柔和な顔つきになり、「どうだ、この後、私のところに来て話していかないか」と誘われた。騎士がそれを辞して部屋から出る時、「そうか」と、どこか寂しげな子爵の声が聞こえた。騎士は一瞬、足を止めかけたが、振り返ることはなかった。
彼は愛馬を連れて領地へ向かった。辺境伯の都から、彼の領地へ向かう道は、しばらく遠くまで見渡せるほど平坦だった。馬の蹄が道を踏みしめる音が心地よく耳に届く。二日ほどかけて辿り着く。道すがら広がる景色を、彼はぼんやりと眺めながら、物思いに耽っていた。
幼い頃の記憶は、断片的だ。
父は小さな村の領主であり、一緒に過ごせる時間が短かった。ある日、父に連れられて村を歩いていた時に、父が誰かと大声で笑い合っていたことを覚えている。その楽しそうな笑い声に、いつしか村人たちが集まり、笑いの輪が広がっていく。父が領主として、領民から慕われていた証だったのだろう。身籠っていた母は、悪阻に苦しみ、寝込んでいることが多かった。村の女たちは皆、快く家事を手伝いに来てくれた。年の離れた兄は、大人と変わらないほど体格が良く、収穫祭では若者たちの中心にいて、大人たちから頼りにされていた。彼には年の離れた兄の他に、幼くして亡くなった兄と姉がいたという。そして、まだ言葉をうまく話せない妹が、小鳥の囀りのような声をあげながら彼の後ろを追いかけてくる姿を鮮明に覚えている。その声は、今でも目を閉じれば聞こえてくる。
しかし、その穏やかな日々は、突如として断ち切られた。
戦争が始まり、村は戦火に包まれた。
村が炎に包まれる中、彼は村人に手を引かれ、近くを流れる川の上流へと逃れた。その時の記憶はほとんどない。ただ、何日も暗く湿った洞窟に隠れ、怯えて過ごしたことだけを覚えている。父と兄は村を守るために戦死したと聞いた。身重だった母と、幼い妹は、炎から逃げ遅れ、帰らぬ人となった。
天涯孤独となった彼を拾い上げたのは、辺境伯に仕える老騎士だった。老騎士は妻と死別し、子がいなかった。老騎士は厳しい人だった。小領主の息子として、それなりに恵まれた環境で育った彼にとって、自分の身の回りのことさえ、何もかもが初めてのことだった。老騎士は彼を突き放さなかった。それは、彼が自立した人間になるようにという、老騎士なりの優しさだった。
彼は老騎士の従者として、寝食を共にした。剣技や格闘術はもちろん、基礎的な学問、兵法、そして騎士としての心構えまで、あらゆることを叩き込まれた。老騎士の教えは、他の騎士の従者たちでは得られないほど厳格であり、得るものも多かった。
一度だけ、老騎士に生まれ育った故郷の村へ連れられていったことがあった。村は戦争の前線になっていた。村の外れには新しい駐屯地が作られ、遠くから見える巨大な門と壁が建てられていた。彼の生家があった場所は広場になり、馬車によって踏み馴された跡が残っていた。
その傍らに立ち尽くしていると、一人の村人が声を掛けてきた。あの日、戦火から逃れた先で一緒に過ごしていた人たちのひとりだった。あの小さかった坊ちゃんがすっかり立派になったと喜んでくれた。
道端に咲く花が目に留まった。ふと、我に返り、馬を止めた。
『小さな花ですが、とても丈夫なのです』
彼女の声が聞こえた気がした。しかし、それは紫色の花ではなかった。見慣れない青い花が咲いているだけだった。
彼女は、丈夫な花だと言った。すぐに見つかるだろうと思い、それからしばらく咲く花を見つけては、馬を止めた。しかし、あの花はどこにも見つからなかった。
彼に与えられた領地は、彼の故郷と同じくらい小さな村だという。故郷のようにはしない。命の限り、村を守り抜く。固く決意し、彼は手綱を握り直して、新しい領地へと向かった。