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紫色の小さな花  作者: エーカス
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序:戦場にて

彼は、野営地の片隅で一人、愛用の長剣を手入れしていた。パチパチと薪が爆ぜる音、遠くの草むらから聞こえてくる虫の音を聞きながら、吹き抜ける涼しい風を感じると、まるで故郷の近くにいるような安らかな気持ちになる。泥のように眠る兵士たちの寝息と、時折聞こえてくる(うめ)き声が、ここが戦場であると教えてくれる。


手にした剣は、彼の命であり、誇りだった。幼い頃、戦争で家族を失った彼を拾い、従者として仕えさせてくれた老騎士の言葉が蘇る。『己の力は、自分自身で磨くものだ』『騎士にとって大切なものは忠義と誇りだ』その言葉を心に刻み、彼はひたすらに剣を振ってきた。辺境伯家の騎士として、誰にも負けないほど強くなるために。


彼は今、辺境伯家に仕える準騎士だ。老騎士がこの世を去り、身の振り方を考えていた折、老騎士の仲間の騎士数名から推薦があり、辺境伯直属の騎士団に雇われることになった。叙任されていない一介の準騎士が騎士団に籍を置くことは異例であり、周囲から一目置かれる存在だった。辺境伯からはこの戦で武勲を立てれば騎士に叙任すると仰せつかっていた。


雲に隠れていた月が顔を出し、にわかに明るくなった。野営地から離れたところに立つ歩哨(ほしょう)たちが、闇の先を見つめる姿が照らし出された。彼の足元には、紫色の花がひっそりと咲いていた。その花は、あの日、子爵家の庭で見た花によく似ていた。


三年前のことだ。辺境伯の館で開かれたパーティーで、初めて彼女を見た。隣には彼女の父であり、辺境伯の直臣筆頭であるホーエンヴァルト子爵がいた。


「私の娘、ヴィオラだ。いずれ、お前にも紹介しようと思っておった」


子爵の声は穏やかで、しかしその目に宿る光は、底知れぬ深さがあった。だが、彼女は、長い睫毛に縁取られた瞳で、ただ真っ直ぐに彼を見ていた。深く青みがかったドレスに包まれた透き通る肌、肩の下まで伸ばされた繊細な淡いブロンドの髪はクラウンブレイドに結われ、控えめながら存在感のある髪飾りを着けていた。夜明けの霧に包まれた湖畔に佇む妖精のようだった。


言葉を交わす機会はなかった。ただ、見つめ合い、互いに礼をしただけ。だが、その一瞬で、彼の心は囚われた。それからというもの、彼はことあるごとに、子爵の館へ向かう口実を探した。おおよそ騎士団の者が務めるような用事ではなくても。その度に、応対したのは決まってヴィオラだった。


「父上はご多忙ゆえ、私がお受けいたします」


そう言って、彼女はいつも微笑(ほほえ)んだ。彼女が応対する間、彼はいつも心臓が高鳴っていた。それを悟られないように、彼は冷静さを装った。彼女の姿を見るだけで、声を聞くだけで、頭から指先までが(しび)れてしまう。


ある時、館の庭で彼女と二人きりになったことがあった。彼女は、庭の片隅にある小さな花壇を熱心に手入れしていた。そこには、紫色の花が群生していた。


「小さな花ですが、とても丈夫なのです。そして、良い香りがするでしょう?」


彼女は、一輪の花を摘み、彼に差し出した。その細く優美な指先は、まるで戦場とは縁遠いと感じた。彼はそっと手を広げ、彼女の差し出す花を受け取った。


美しく、気高い花だと思った。そう口にするのが精一杯だった。本当は、彼女自身がこの紫色の花のようだと伝えたかった。だが、それは言葉にできなかった。彼の性分が、その邪魔をした。


そんな日々が続き、ついにホーエンヴァルト子爵から縁談の話が持ち上がった。


「娘と、お前を合わせてやりたい。辺境伯も、お前の才覚を高く評価しておる。戦で手柄を立てれば、いずれ正式に騎士号を(たまわ)るだろう」


彼の心は強く揺れた。しかし、(ぶん)不相応(ふそうおう)と理由をつけて彼は断った。子爵の力だけで出世したなどという(そし)りを受けたくない。己の力で掴み取りたい。戦で武勲を立て、栄誉を勝ち取り、そして、騎士となった(あかつき)に改めて申し入れたい。それは彼の騎士としての誇りであり、誰にも譲れない意地でもあった。


彼は礼をして、その場を辞した。そんな彼の生き様と心のうちを見透かしていた子爵は、彼が去っていく姿を眺めながら「お前はそう言うであろうな」と苦い顔をしながらも頷いた。


しっかりとした足取りで歩いていたものの、ヴィオラの顔を思い浮かべ、胸が締め付けられた。だが、後悔はしていなかった。己の力で、彼女の隣に立てる男になりたかった。


彼の意識は再び眼前の光景に戻った。


野営地を照らしていた月が雲に隠れ、足元に咲いていた花から輝きが失われた。剣の手入れを終え、(さや)に戻す。冷たい(はがね)の感触が、彼の決意をより一層強くした。夜空に、小さな星が瞬いている。それは、まるで彼女の瞳のようだった。待っていてくれ、必ず、君を迎えに行く、と心の中で誓った。

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