ブーツとバックパック(4)
アンテロープの数件隣に立つバックパックショップが〈マダール〉だ。
店内のスペースのほとんどは工房で、その正面がテントの露店のようになっており、フックでバックパックが所狭しと吊り下げられている。
トラバースでは、徒歩での荷物の運搬にはバックパックを用いるのが基本だ。そこに独特のインベントリシステムが絡んでくる。重量とサイズの他に、収納位置が重要なファクターになっており、重量物は荷物の中心から外れるほど安定に悪影響を与える。行動時の疲労度も増すなど、デメリットは多い。用途を考えればファーストエイドや弾薬が荷物の奥底に収納してあるような状態は望ましくない。奥にあるものほど、使用に大きな予備動作を伴う。通常のゲームであれば批判に曝されかねない仕様だった。手間が過ぎる。でもそれを楽しむのがオワトラだった。こうした荷物の収納技術全般を〈パッキング〉と呼び、それに関するスキルも複数存在していた。
リンドウが使用しているのはスタンダードなエクスプローラー用バックパック、BPF35フェケテリコだ。クロウタドリを意味する名前通りの黒いカラーリングで、荷室の上部にワッペン刺繍の鳥のシルエットがあしらわれている。スタンダードな容量とサイズを持ち、バックパック全体を周るようにつけられたジッパーで荷物へのアクセシビリティが高い。各部のベルトはカスタムパーツ用のアタッチメントとなっており、弾薬やファーストエイド用の外付けポケット、折り畳みのテントなどを取り付けられる。内部の二気室も仕切りを柔軟に動かせるようになっているなど、取り回しの良さが特徴だ。
リンドウはそんな愛用のバックパックを受付に預ける。耐久力回復のための点検のちょっとした時間、オプションパーツを物色しながら、イワナがまた話し始めた。
「調べたら、靴とバックパックと雨具が山登りの三種の神器なんだって。それってさ」
「……オワトラでも、チュートリアルで言われるやつだね」
「そんなわけだから、来店予約したアウトドアショップでバックパックも見てみたんだ」
靴屋と同じで、やっぱり独特の空気だった、と言い、イワナは続ける。
「沢山並んでたけど、とにかく大きさがいろいろあってさ。これ、子供用じゃない? みたいなのから、バックパックじゃなくてサンドバッグが並んでますけど? ってくらい背の高いやつまで」
「山ごもり用、みたいな感じかな」
「さっきの靴屋さんでのこともあって、あたしも無遠慮になっててさ。分かんないから訊いちゃえと思って」
声をかけた若い女性店員に「どんなものをお探しですか?」と訊き返されて、イワナは困ってしまった。何が目当てなのかそもそも自分でも分かっていなかったのだ。
「初めて買うんですけど、って言ったら、店員さん、あー……、って言って」
「うん」
「どこの山登りに行きますか? って訊いてきたんだ」
「料理人が言う『食べたいもの仰ってください』みたいなやつか」
「なんか伝わらなかったらかなり恥ずかしいのと、身の程知らずって笑われたらどうしようっていうので、小声で言ったのね。みずがきやまです、って」
「確かに詳しい人と何か話すとき、そういう怖さがあるね」
「そしたら、じゃあ日帰りですね! 二〇リットルのほんと最低限のコンパクトなザックも良いですけど、あとあとのこと考えたらこれくらいがおすすめですよ! って」
女性店員は二八、三〇、三二リットルの容量のバックパックをイワナの前に並べた。
「こういうのは体に合うかどうかが一番大事なんで、しょってみて下さいね! っていうから、言われた通り腕通して」
「それで?」
「違いがよく分からんなって思って、そういうの顔に出ちゃってたと思うんだけど、店員さんが白い弁当箱みたいなのを三個持ってきたのね。え、何ですか、って言う前にあたしの背中のバックパックにそれ入れ始めて」
「それってやっぱり」
「重りです♪ って店員さん、何でかめっちゃ嬉しそうに言ってたよ。ハートのスタンプ出てるなってくらい」
「なかなかない体験だね」
「足の横幅測られたのも初めてだったけど、カバン買うために重り入れられたのも初めてだったかな」
しかし、重りはバックパックごとの負荷分散の特徴を両肩と背中に伝えてくる。全然素人だけど、確かに、結構違うなって思ったよ、とイワナは言う。
「でもやっぱり……違うのは分かるけど、良し悪しはよく分かんないんだよね。で、どれも良いと思うんですけど……って店員さんにそれとなく伝えたら」
「料理のリクエスト求められて、何でもいいよって言っちゃうやつだ」
「店員さん、ちょっと悩んでから、じゃ、見た目で決めましょう♪ って」
「適当かっ」
「それがね、悩んだときは見た目ですよって。ギアは持ってて気分上がるのが一番大事ですよって。それ聴いたとき、あ、めっちゃ分かる、って思ったのね。オワトラでもそういうとこあるし、何なら人生の大体、それじゃね? って」
「思いがけず名言出ちゃったね」
「そういうわけだから、これ」
イワナが共有してきた画像の中では、黒い楕円形のフォルムの中心にY字型のジッパーを走らせた特徴的なバックパックが誇らしげに吊り下げられていた。いかにもギア、といった風情の多数のベルトが表面を走り、デザインを引き締めるように青色のロゴやバックルが配置されている。スクリーっていうんだよ、とイワナ。
「このカラーリング、シャドウムーンって言うらしい。なんかダサカッコよさが、アガる」
「そういうとこあるね、イワナは」
イワナはエモートで、片手を口元にあてククッと笑う。
いつの間にかリンドウのモニカムにバックパックの点検終了の通知が届いている。
イワナの話しぶりを聴くうちリンドウも、アウトドアショップを覗きに行ってみようか、と思うまでになっていた。
「じゃね、バイトラ」
バイトラ、という挨拶は、言うまでもなく、ハロトラに対応している。ただしこれはプレイヤー間でふざけて使われるうちに広く流通してしまったものだった。更に省略して「トラ」「とら~」などの用法もあり、そうしたゆるさが浸透している理由でもあるのだろうと思われた。
あのミーティングの日から、イワナはリアルでの出来事の話を少しずつするようになっていた。そうした話題が出るたびに、なぜかリンドウは動揺するのだった。動揺して、話を流そうとすらしてしまうのだが、同時に、もう少し聴きたかった、話したかった、と相反するようなことを思ったりもするのだった。
そんな押したり引いたりの感情をなんとか手懐けながら、別れまで辿り着く。それから少し寂しくなる。
別れを惜しむ。
今までまったく感じることのなかった感傷を、これがそうか、と理解する。
形の定まりそうなそれをなぜか表に出すべきではないと感じて、つとめていつも通りの別れの挨拶をする。
「トラ、イワナ」
イワナのアバターがエモートでぴょこんと跳ねる。
〈イワナ ログアウト〉