ブーツとバックパック(2)
顎のラインに沿ってやや大雑把に切り揃えられた黒のボブヘアに金のメッシュ、同様に黒の周りを金が縁取る瞳。右耳に知恵の輪のように交差する大量のシルバーピアス、逆側の耳には銀のチェーンでライフル弾が下がっている。前を下ろした赤のサロペットにタイトな黒のタンクトップ。女は猫科めいた鋭利な雰囲気を発散する細身の長身で、胸の前に片膝を抱えて座っている。キャンプ・インディゴのハンター、マギコだ。
横に並んだユキこと雪の宿は、今日も愛用のゴテゴテと装飾されたキャスケットを頭の上に乗せている。マギコと並ぶことで小柄さと中性的な顔立ちが強調される。短い丈のモッズコート風ジャケットがややオーバーサイズ気味で、いわゆる「萌え袖」を形作っているのも、そんな印象を補強する。明るいプラチナの髪も対照的だ。
テーブル脇から二人を眺め、リンドウは思う。較べると僕のアバターには大した特徴がない。シンプルにまとめたつもりのミリタリー風ルックに焦げ茶の短く無造作にした髪。標準的な体格の青年。キャラメイクのときにはよくできたと思っていたけど、マギコやユキさんを見ると、もう少し冒険しても良かったかな、と思ったりもする。近いうち髪型でも変えてみようか……。
リンドウはテーブルを挟んだ対面に視線を向ける。三人を眺め渡す形でテーブルに両手をつき、立っているのがイワナだ。「女性」と「女の子」の中間を思わせる年格好。小麦肌に緑がかったダークグレーの髪を頭の上でくくり、ショートパンツとTシャツの上にエスニック柄の入った長いカーディガンを羽織ったシンプルな服装をしている。「頬の絆創膏がアクセサリ」とは本人の弁で、装飾品の類もあまり身に付けない。見た目で冒険しないタイプなのだろうと、リンドウは共感を覚えそうになる。Tシャツに大書された「カープテ」の文字を見るまでは。他にも全休符や火力発電所の地図記号など、イワナのTシャツのセンスはいつもきわめて独特だった。驚くべきは、多数のバリエーションを誇るそれがゲーム内アイテムではなく、デザインエディタを使ってイワナ自身の手で作られたものだということだった。
オワトラでは、アバターのアウトフィットに四種のプリセットを設定できる。そのうちのひとつをルームウェアとしてセットしているプレイヤーは多い。インディゴのメンバーもその例に漏れなかった。
オワトラ内において〈キャンプ〉という言葉は、一般的なMMORPGでの〈ギルド〉と似た形で用いられる。そんなキャンプの活動拠点、〈ギルドハウス〉にあたるものが、〈ベースキャンプ〉だ。
ベースキャンプの形状はキャンプの目的によって様々だが、キャンプ・インディゴのそれは木製の大型のログハウスだ。小・中規模の竜骸が周囲を囲むクモの巣状の窪地の中に作られた街、ミハルバラの外れに位置している。
キャンプ内には休息用の設備や調理場、保管庫のほか、〈ハブ〉と呼ばれる、調査や測量のデータを管理する大型の端末――ユキは占い師と名付けている――が設置されている。その他にも装飾の意味合いで様々なものが置かれているが、一際大きな存在感を放っているのは壁際の大型の暖炉だ。黒鉄とレンガを組み合わせた重厚な作りで、その内側で今も薪がぱちぱちと冬の歌を歌っていた。
そんなベースキャンプの中心に置かれたテーブルを四人は囲む。人数分のティーカップから、竜生カミツレの果実めいた香りが立ちのぼる。
「じゃ、始めるね」
イワナが言い、モニカムを使ってテーブル上に二枚の画像を投影した。
一枚目は〈大地の獣〉の全体像を捉えたスクリーンショットだ。登竜門からしばらく樹林帯を登ったところの平坦な尾根上にある、展望の開けたビューポイント。そこから撮影したものだ。もう一枚は、ほぼ同じアングルだが質感の大きく異なる〈大地の獣〉。以前にイワナが一度見せた、現実のそれだ。
「これを、リアルで登りたいって思ってる。ムチャなこと言ってるなって自分でも思うよ。正直、言っちゃった自分にびっくりしてる」
何かを誤魔化すかのように、爆発のスタンプをアバター上に表示させてからイワナが続ける。
「でも、インディゴのみんなにだから、言っちゃったんだと思う。それで、言葉にしたら、」
あたし、本気だったんだなって気づいた。そう言ってイワナは言葉を切った。
「いろいろ訊きたいことはあるけど、まずひとついいかな」
ハテナマークのスタンプを浮かべてマギコが訊く。
「これ、パスポートとか必要なやつ?」
最初にそれか? とリンドウは思う。一方で、マギコの疑問はもっともでもあった。理由は、その山のビジュアルだ。
山肌を覆う森林の合間から、いくつもの岩塔が天に向かって伸びている。特に山頂付近は絡み合う巨大な岩の彫刻のように見える。現実離れしていて、身近な光景には思えない。リンドウは、子供の頃何かの本で見た山水画を思い出す。中国の仙人が住むという山が描かれていた。写真の山はそれによく似ていた。
「それなんだけど」
イワナが言う。
「うちから電車とバスで一時間半くらいなんだよね、ここ」
一瞬、四人の間を沈黙が流れる。
近所かよっ。リンドウは思う。しかし、一時間半。「近所」と表現するには微妙な距離でもある。それにしても、人里からその程度で行ける場所には思えない。イワナはとんでもない山奥に住んでいるということだろうか。プライベートを詮索するみたいで気が引けるが、訊かないことには始まらない。
「ちなみにこの山、名前はあるの?」
訊いてから、それはあるだろう、とリンドウは思う。その妙な問いに対して、一瞬アバター上に三点リーダを浮かべてのち、イワナが答える。
「瑞牆山」
「何語?」
ユキが問う通り、日本国内の地名とは思えない単語だった。見たこともなく、読むこともできない。リンドウは考える。中国だとしたら時差はあまりない。実はイワナはそっちからログインしている? 気づいていなかっただけで、実はインディゴはインターナショナルなキャンプだった……という展開もなくはない。
「ずい……?」とだけマギコは言い、あとが続かない。ユキは疑問符のスタンプを頭上に浮かべている。一瞬の間のあと、イワナは「!」マークのスタンプをアバター上に浮かべてから言った。
「みずがきやま」
その名をもう一度言う。
「みずがきやまって読むんだ、これ」
瑞牆山。
山梨県北杜市。奥秩父山系の主脈のひとつ。
標高二、二三〇メートル。
調べたらすぐに出てきた、と言って表示した情報をイワナが読み上げる。その標高は、〈大地の獣〉を登った際にモニカムに表示されていた数値と同じだ。当然、偶然の一致とは考えられない。〈大地の獣〉のモデルは、この山で間違いないようだった。リンドウは、ニ千メートルを超える巨大な現実が立体感を伴って目の前に迫ってきたような錯覚を覚える。
イワナは、「もう一個、見てほしいんだけど」と、二枚の画像を並べて投影する。
それは地図のようだった。
一枚は四人とも見慣れたものだ。彼らが測量した〈大地の獣〉の地図だった。地形図の中に、赤い線で登攀ルートが刻まれている。
もう一枚は見慣れないものだが、一枚目の地図によく似ていた。
「これ、〈マイルズ〉っていうアプリから取って来たんだけど……」
マイルズはスマートフォン用の登山用アプリだ。GPSで取得した現在地情報を地図上に表示するのが主な機能となっている。そんな補足をした上で、イワナが続ける。
「おんなじなんだ。そっくり同じ」
古代ギリシャでは、彫刻は石を彫り始める前から完成型の形が決まっていると言われていたらしい。リンドウは思い出す。あらかじめ決まった形を掘り出すのが彫刻家の仕事なのだという。それ自体はマンガで得た知識だったが、オワトラでの竜骸の登攀ルートの探索はこれによく似ていた。
隠されて見えない状態になっていたとしても、ルート自体は決まっている。その道筋を外れれば足元は悪くなり、行動だけで大きく消耗することになる。獣との遭遇や鋭い棘だらけの藪といった障害も増える。それらの種々のリスクを避け、ルートを掘り出す彫刻家役が、エクスプローラーのリンドウやイワナだった。
そうやって作ったルート地図が、現実の登山道と一致している。今まで分かったことを勘案すると、この「ルート」も現実に存在する。その可能性が高そうだった。
「イワナさんよ」
マギコがぽつりと言う。
熱く語りすぎたことに思い至って恥ずかしくなったのか、イワナはなぜか敬語で「はい」と答える。
「漲ってきたわ」
マギコ特有の古いネットミームだと思われるそのセリフは、いかにもアバターの姿に不似合いなものだった。それでもリンドウは思う。同感だと。
ウイルス禍は終息し、当たり前になっていたマスクこそ見なくなった。それでも、制限だらけの生活様式は体に染みついてしまっていた。それは人々にとってあまりにも当たり前で、便利なものになりすぎてしまった。その外部があるということを忘れさせるほどに。機能と役割でモジュール化され、目的のために整理され尽くした世界。イワナが話しているのは、その外側にある、機能も役割もない、むき出しの自然世界──本物の冒険についてだった。
イワナは改めて情報を整理し、計画を話す。ひとしきり話し終えてから言う。
「……みたいな感じなんだけど、どう」
一瞬だけ間があり、
「かな」
マギコが答えて言う。
「いやね」
続けて、
「めちゃくちゃいいよ、これ」
リンドウとユキもエモートで頷く。
それで十分だった。
イワナは「ありがと。なんか、手、震えてる、あはは」と言って、
「あたし、もっとちゃんと調べてみる。準備する」
と、そう話を締め括った。
ユキのアバターの上に大きなスタンプが浮かぶ。
右を向いた黄色い矢印の上を、〈To Be Continued〉という手書き風の文字がアニメーションしていた。