竜と卵(2)
稚児落とし。
六三四メートルの標高のうち上部の一五〇メートル、つまり全山体のほぼ四分の一を占める巨大な一枚岩の断崖絶壁。その威容は、大地を割ってそそり立つダークグレーのカーテンを思わせた。
〈古王亀〉はそこまでの本格的な装備や人員を必要とせず、比較的楽に踏破できる小規模な竜骸だ。麓にすぐに町が広がるロケーションの良さからビギナーのキャンプの訓練にも利用されている。生前には巨大な甲殻を背負った竜だったとされ、〈稚児落とし〉はその甲殻部にあたる。
そんな稚児落としの一部が崩壊を起こし、ルートの状況が分からなくなっているらしい。
その調査と地形測量データの更新を兼ねたクエストのため、リンドウは古王亀に向かっていた。
小規模なものであっても、竜骸とその周囲が危険なエリアであることには変わりない。街道と原生自然の領域の境界には、多くの場合、立ち入り制限のためのゲートが設置されている。ここでの調査計画や調査者登録の提出は、採取物や装備品のロスト対策に有効だ。それだけでなく、このゲートはオワトラのシステム上独特な働きをしていた。
竜骸の探索中、他のキャンプに遭遇するという状況はほとんど生じない。並行世界のようにゲートで竜骸探索の「セッション」の振り分けが行われるからだ。ひとつのセッションに組み入れられるキャンプは、リンドウの経験上、多くとも二から三グループだと思われた。
こうしたゲートは公式には単に〈ゲート〉と称されているが、プレイヤー間では〈登竜門〉と呼ばれることが多い。リンドウが今いる古王亀の登竜門は、稚児落としの全景を見上げる絶好の展望スポットでもある。スクリーンショットの撮影をしていると、メッセージの受信を告げる通知がポップアップした。雪の宿(非公式)、と送り主が表示されている。
「古王亀?」
シンプルなメッセージ。ユキから送られてきた久々の文字情報だった。
リンドウは思い出す。先月にキーボードを破損させたユキは、しばらくはソフトウェアキーボードを使っていた。しかしこれが反応の悪い代物で、やり取りはなかなかうまくいかなかった。業を煮やしたユキは、キーボードのプリセットを絵文字で埋め尽くし、これで凝縮されたコミュニケーションを行うようになった。最初のうちはシュールな事態に戸惑ったキャンプ・インディゴの面々だったが、すぐにその状況に順応してしまっていた。
リンドウは、キーボード新調したんだ、というメッセージに続いて、いま古王亀の登竜門、と送信する。すぐに返信が帰ってきた。
「三秒で行く」ユキは七分三十五秒後にその場に現れる。
オワトラでは基本的に何事も「手間を楽しむ」方向性のゲームデザインが為されており、移動もその例に漏れない。ファストトラベルのポイントがきわめて少ないのだ。
動きやすさを重視した七分丈のパンツ、派手なスカイブルーのマウンテンパーカーの軽装スタイル。バックパックも見たところ二十リットル程度の容量の簡易なものだ。小柄な体に、少年とも少女ともとれる顔立ち。ごてごてとバッジやゴーグルでドレスアップされた大きなキャスケットの下で、緑色の大きな瞳がくりっとリンドウのほうを向く。片手を上げる挨拶のスタンプがユキの頭上にポップアップする。
性別設定のオミット。これはキャラクターメイキングにおいて、他のゲームにあまり見られないオワトラ独自の特徴だった。体格や顔立ち、髪型などで明確に特定の性別に寄せることはできる。実際、多くのプレイヤーはそうしている。リンドウも男性をイメージしたアバターのデザインを採用していた。一方で、男の体だから男であるとか、女の体だから女であるとか、そんな認識自体がナンセンスになりつつあるという現実社会のコードを、ビデオゲームカルチャーも反映し始めていた。
そうした動きは欧米のゲームが先んじているものであったが、オワトラはいち早くリアクションを返した形だ。そこにおいて、純国産ゲームとしてのオワトラのジェンダーやセクシュアリティについての立場がはっきりと表明されていた。ユキのような中性アバターは、これに対するプレイヤー達のひとつの順応の結果とも解釈できるものだった。
リンドウとユキは協力しながら稚児落とし方面へ向かっていく。道中で植生のデータ収集や採取を行う。大岩の切り通しを抜け、樹林帯のゆるやかな斜面を上がり、小さな尾根を乗り越える。ザイルと呼ばれる安全確保用のロープを利用して谷合いまで一旦下る。土の合間に苔で覆われた太い木の根が張り出す急斜面は、足を滑らせ転倒すれば荷物をそこら中にぶちまける羽目になる。ふたりは足元に注意を払いながら着実に進む。
オワトラでは、足場が悪い中での移動中は何かと無口になりがちだ。このあたりの仕様も独特だと、リンドウは思う。手動での姿勢制御という要素は、他のゲームでは見たことがない。平坦な場所ではほとんど意識することがないが、大きな傾斜や不安定な足場の上では、バランスに気を遣いながら行動する必要がある。安定性には、キャラクターのパラメーターや担いだ荷物量など様々な要素が関わってくる。が、結局のところ転倒しないために一番有効なのは、手動で姿勢を制御することだった。
このあたりのメカニクスには、ひと世代前のハードで発売されたあるゲームが参考にされているという通説がある。ネットワークの失われた世界で、サムという男が通信網を繋ぎながら荷物の配達をしつつ旅をする、という内容の作品だ。リンドウはゲーム・コミュニティで情報を読んだだけではあったが、オワトラとの設定の類似部分もあり、これを正しい説なのではないかと考えていた。そういえばマギコは、そのゲームをなんとか手に入れて遊んでみようと思っている、と以前言っていた──思考に沈むうち、眼前にちょっとした崖が現れる。
鋼の杭で打ち込まれた鎖を使い十メートル弱の岩壁を登ると、岩場の上で景色が開ける。
足元から二百メートルほど落ち込むような形で、ゆるく弧を描くようにして巨体な一枚岩の岩盤が伸びている。稚児落としだ。
近付いてみると、確かに半ばあたりで大きく岩盤の剥離している箇所があるのが確認できた。もし真下に道があれば通行不能になっているだろうし、そうでなくても弱くなっている岩盤が再度崩れる恐れがある。そうなれば危険極まりない。実際、そうした初見殺し的なトラブルで竜骸の探索がおじゃんになる、という事態は、探索中にはまれにあることだった。
「始めるよ」
ユキがそれだけ言い、バックパックからアースカラーの迷彩色の小箱を取り出す。八インチのタブレットを四枚か五枚重ねたような大きさで、無骨な樹脂製の筐体の隅を、金属製のフレームが補強している。側面に幾つかの接続口とふたつのスイッチがあり、ユキがその片方を操作すると、上部のカバーが開き黒いディスプレイが現れた。内蔵ファンの回転する低い駆動音が鳴ってから、ディスプレイに細かな文字情報が表示される。
ユキは小箱の側面の接続口に自分のモニカムを有線接続すると、タッチパネルになった小箱のディスプレイからコマンドを入力していく。と同時に、小箱の逆サイドからアンテナを伸ばしている。測量だ。
測量関連のスキル群の特殊性は、それが〈戦争〉の時代のロストテクノロジーの取り扱いに足を踏みいれている点にあった。測量に用いる精密機器群はみな、〈戦争〉の遺物なのだった。厳密に言えば銃火器もそうなるが、オリジナルこそ〈戦争〉時代のものであれ、構造の単純な銃器はすぐにコピー品が流通した。マギコのAMSもそこに属するものだ。それに対し、ユキの操る機材はいずれも正真正銘オリジナルとなる骨董品だった。
このあたりの機材群の扱いはエンジニアの専売特許だが、わけてもユキの機材捌きは、キャラクタースキルの面から見てもプレイヤースキルの面から見てもかなりのものだった。測量は竜骸調査の行程の中でも大きなファクターを占める。それだけに作業はなかなか煩雑であり、エンジニアの他のキャンプメンバーも少しずつ関連のスキルを取得して協力して事にあたる、という方法もよく用いられていた。キャンプ・インディゴでもイワナにはある程度の測量の知識があり、作業を分担することはあった。ただ、基本的にはユキには単独で充分に測量をこなせるスキルがある。
それをリンドウも分かっており、黙ってユキの作業を眺めていた。モニターの中では生前の竜の姿の復元処理が進んでいる。トゲのように各所が張り出す甲殻を背負った爬虫類の姿。現実で言うならワニガメによく似ている。ところどころ欠けた緑色のポリゴンで象られたそれが、ゆっくりと回転していた。
「やっぱりいいね、ここは」
作業が一段落し、それぞれ持ち込んだ食糧を広げて岩場の上に並んで腰かける。
靄をまとった巨大な岩壁の前を猛禽が行き交う様は荘厳さを感じさせる。眼下には緑の裾野が広がり、その先にミハルバラの街を見渡すことができた。稜線上は風がなく静かで、そこに調理用のガスカートリッジ式ポケットストーブが湯を沸かす音だけが鳴っている。
「私たちが最初に調査に入ったのも……ここだった」
ユキが言う。
リンドウは思い出す。一年前だからそんなに昔でもないが、インディゴの皆との距離感は随分変わった。その変化が、イワナにあの言葉を言わせたのではないかと考える。
「ユキさんはどう思ってる? 例の、イワナの言ってた」