8.拒絶の壁
診察を終えた医師と看護師が退出していく。その間、陽奈子は口を挟まなかったし、当事者である遥翔でさえも何かを発することはなかった。あの場にいることを許してくれたということは、陽奈子に聞かれてもいい内容だったのだと判断することもできるが。
「遥くん」
「言いたいことはわかっているが、あんたが知る必要はないことだ」
そう言われるとは思ったが、それでも聞かないわけにはいかない。そんな焦燥感に駆らる。医師たちがいる間はずっと遥翔は陽奈子が怖がらないようにと手を添えてくれていた。突き放す言葉は遥翔の優しさだとわかっている。いつだってそうだ。それでも陽奈子が辛い時、怖い時は手を差し伸べてくれる。それでも一方的な優しさは悲しい。陽奈子は先ほどまで支えてくれていた遥翔の左手を、今度は陽奈子が握りしめた。そして真っすぐに遥翔の瞳を射抜く。
「遥くんは優しいから、私を巻き込みたくないからそうして黙ってくれているのはわかる。でも、私は知りたい。遥くんは私を守ってくれた。だから私にもできることがあれば、遥くんの力になりたい」
「……まだあんたの状況は変わっていない。あいつだって、いつ近づいてくるかわからない。今だってあんたは怖いはずだ。そんな状況の中、俺のことなんて構っている場合じゃないだろう」
遥翔は呆れたように吐き捨てる。確かにあの男のことは解決していない。むしろ解決するかもわからない。それでも陽奈子は遥翔のことが気になる。それとこれとは別の話だ。
「これは俺の自業自得で、あんたには迷惑をかけた。それについては申し開きもない」
「そんなことっ」
「……いいんだ」
そういって遥翔は目を閉じてしまう。完全なる拒絶だ。わかっていたけれど、それでも受け入れてもらえないのは悲しかった。知りたいけれど、遥翔はそれを望んでいない。それがどうしてなのかがわからない。遥翔は陽奈子のことを助けてくれるのに、その逆は受け入れてくれないのだ。
陽奈子は遥翔の手を離した。そうしてもう一度遥翔の様子を見る。心なしか先ほどよりも疲れているように見えた。まだ遥翔の熱は下がっていない。その状態でさらに遥翔の負担になるようなことを言ってもいけない。何を言っているのかと、陽奈子は自己嫌悪に陥った。
「ごめん、なさい……遥くんは、まだ疲れているのに」
「……別に」
「私、帰るね。明日、また来るから」
これ以上ここにいては駄目だ。陽奈子がいても遥翔は休めない。傍にいたところで気になってしまう。陽奈子は勢いよく立ち上がると、カバンを手に逃げるようにして病室を出ていった。扉が閉じる瞬間、焦ったように遥翔が声を出していたが、陽奈子には届いていなかった。
四条病院から出ると、陽奈子はアプリを頼りに帰路へと向かう。ここから最寄り駅まではバスもあるのだが、今は歩いて帰りたい気分だった。まだ午前中だからなのか、人通りは少なくない。明るい時間に、こんな風にして歩くのはいつぶりだろうか。私服姿で外を歩くのは、遥翔と同居してからは初めてな気がする。いつだって車での移動で、どこかを歩いて散歩することなどなくなった。だからなのか、ただのんびりと散策をしたい気分になってしまった。
「……はぁ、ほんと私の方が子どもみたい」
社会人になって少し。見た目的には全くそうは見えないだろう。高校生と間違われることだってゼロじゃない。それでも間違いなく年齢は大人だし、遥翔よりも年上だ。それなのに、あれでは陽奈子の方が年下みたいではないか。
遥翔にとって陽奈子はただの友人の姉だ。そんなことはわかっている。どれだけ陽奈子が遥翔のことが好きでも、それが一方通行なのは今に始まったことではない。何度も告白まがいのことをしては、呆れられる。本気にしていないのだろうと思っていた。でも同居が始まった日、遥翔は言っていた。
『あんたは俺が好きなんだろ』
遥翔にちゃんと伝わっていたのだ。それなのに、陽奈子の想いをわかっていながら、遥翔は陽奈子を遠ざける。それは、同居する前よりもひどくなった気がする。否、気のせいではないのだろう。もしかしたら遥翔は意図的にそうしているのかもしれない。陽奈子の想いを受け取れないという意志を、示すために。
「……遥くん」
「みぃつけた」
「っ⁉」
全身に身の毛がよだつ。その声にゆっくりと振り返ると、そこにいたのはあの男だった。