1.過去の恐怖
そもそもどうして遥翔と陽奈子が同居することになったのかというと、事の始まりは一週間前に遡る。
「春川、ちょっと話いい?」
「上次先輩? はい、いいですけど」
ここはとあるK県にある所轄署の一つ。陽奈子は職場、交通課の自席で事務作業をしているところを、直属の先輩である上次里穂から声を掛けれられた。込み入った話なのだろうか。更衣室まで連れてこられると、里穂は誰もいないことを確認し、奥にある相談用に用意されていた椅子に座り、カーテンを閉めた。
「ほら、座って」
さっさと座るように催促されて、陽奈子は訳が分からないまま腰を掛けた。すると里穂はそのウェーブ掛かった髪を耳へと駆けながら内緒話をするかのように身をかがめて、その黒い真っすぐな瞳を陽奈子のそれと近づける。
「あの?」
「……春川。落ち着いて聞いてほしい」
「はい」
落ち着いた声で、諭すような口ぶりで里穂が切り出す。何を話されるのかと、陽奈子も身構えた。そして告げられた内容に、一瞬頭が真っ白になってしまう。
「……え」
「あの子……瀬尾くんから情報が回ってきたら教えてほしいと頼まれてたの。そしてそれがつい先日判明してね。例の、春川のストーカーのことなんだけど」
「そ、そう……です、か」
どうして遥翔がそんなことを頼んだのか。そのようなこと、考えるまでもなかった。陽奈子はぎゅっと膝の上で拳を握りしめる。里穂から伝えられた情報。それはまだ高校生だった陽奈子に植え付けた衝撃的なトラウマを植え付けた相手のものだった。
あれは五年近く前のこと。
最初はただの親切心から。困っていたようなので、見知らぬ男性に手を差し伸べただけだった。それだけで、接点は何もないのに、気づいた時には常に付きまとわれるようになってしまっていた。花束を手渡されること数回、プレゼントの類は断っていたし、名前などを聞かれても伝えたことはない。当然、家族構成も住所もだ。それなのに家の前で待ち伏せされることもあった。プレゼントを置かれていることもあったし、手紙を置かれていることも。気持ち悪さに日々憔悴していった。
そんな日々が続き、精神的にも限界が来ていた時だった。家の前でにはまたその人がいたのだ。陽奈子が帰ってくるのを待っていたのだろう。気持ちが悪かった。近づきたくなかった。それでも帰らなくてはいけない。注意をしなければならない。注意をすれば、またネッタリとしたような声で、嬉々として応えるのだろう。想像しただけで気分が悪くなる。嫌だと心が訴えかけているのか、足がすくんで動けなくなった。そんな時、後ろから聞きなれた声が聞こえて振り返る。それは、弟の雪人とその友人の遥翔の声だった。
『姉ちゃん?』
『雪人、遥くん……』
怖くて仕方なくて、陽奈子は遥翔に抱き着いた。学生服を強く掴み抱き着く陽奈子に、遥翔も嫌がるかもしれないと思ったが、それ以上に恐怖が勝った。震えていることに気づいた遥翔が、肩を支えてくれる。それだけで少しだけ楽になった気がした。
だが陽奈子を見つけたその人が声を掛けてきて、近づいてくるのがわかった。陽奈子は顔を上げずに遥翔に抱き着くだけ、もう顔も見たくないかったからだ。見かねた遥翔が言ってくれたのだ。もうやめろと。何も言えない陽奈子の代わりに。でも全く聞く耳を持たなかった。
『あんた、こいつがどんだけ嫌がってるのかわかんないのか?』
『何を言っているんだ⁉ 俺は彼女の恋人だ! いつも一緒にいたいと思うのは当然の権利だ。お前こそなんだ! 何の権利があって、彼女を抱きしめているんだっ』
『……あんたが嫌だからだよ』
話し合いなんてものじゃなかった。平行線。相手は都合の良い言葉しか並べない。陽奈子からしてみれば、名前さえ知らない赤の他人だ。好意を持ってもらうようなことをした覚えはない。すべて社交辞令の範囲内のこと。それさえも許容できないとなれば、どう対応していいのかわからなかった。
『とにかく、この場は帰ってくれ。迷惑だ』
『……お前こそ、その手を離せ!』
『ったく……雪、警察呼んでくれ』
『あ、あぁわかった』
これ以上は埒が明かないと判断したのか、遥翔が雪人にそう指示を出した。警察。その文言に反応したのか、その人はどこからか取り出したナイフをその手に持っていた。
『邪魔を、するなぁぁ!』
『ちっ』
『きゃっ』
遥翔に肩を押されて、陽奈子は雪人の方へと転んでしまった。膝に痛みが走るが、それよりもと遥翔の方を見上げる。
『遥翔!』
『遥くんっ!』
『いい……から、さっさと呼べっ!』
遥翔の手は、その人の手首をしっかりとつかんでいた。逃がさないとでもいうように。だが、その人が持っていたナイフの刃が見えない。どうなったのかと見つめていると、遥翔の制服に何か滲んでいるように見えた。黒い学ランで目立たない。だがそれは、と陽奈子は血の気が引くのを感じる。
『はる、くん……』
『姉ちゃん、呆けてる場合かよっ』
そこからはあまり覚えていない。パトカーがやってきて、その人は現行犯逮捕された。遥翔も幸い、大事には至らず数週間の入院だけだった。無事だったからよかったものの、陽奈子にとって忘れられない出来事だ。
それ以来、好意を持たれる男性が苦手だ。普通の男性でも怖いと感じることもあるが、最近ではそれも克服されて普通の生活ができるようになった。というところに里穂が持ってきた情報だ。その時の彼が刑期を終えて出てくると。
「傷害罪とはいえ、短い刑期で出てくるのも怖いものがあるわよね。ストーカー規制法もあるから、出ても精神科医に通う必要はあるでしょう。当然野放しというわけじゃないわ。特に春川と、瀬尾くんには近づかないようにと言われているはず」
「……わかってます」
「ま、そうよね」
いつかはその日がくるとわかっていた。それでも実際にそういう話を聞くと思い出してしまう。警官として、公平にあるべきだとわかっていても、その人物だけは駄目だろう。
「教えてくださりありがとうございます。一応、気を付けるようにします」
「瀬尾くんにも伝えておいてね。きっとまだ知らないはずだから」
「わかりました」
落ち着いてから仕事に戻るようにと言われ、里穂は更衣室から出ていった。一人になり、陽奈子はスマホを取り出す。連絡をするように言われたのだから、言わなければならないだろう。この時間は昼休みだろうか。もしかしたら雪人と一緒かもしれない。陽奈子は意を決して電話を掛けた。
何度目かの呼び出し音の後で、通話がつながる。
『何?』
「あ、遥くん、今話してもいいかな? 里穂先輩から伝言があって例の人のことなんだけど」
『……いつだ?』
「へ? あ、えっと……確か今週の金曜日に」
出所する日がいつかということを聞かれているのだろう。今週の金曜日。まだ四日もある。それまでに心の準備をしておけと。関わらないとしても、同じ空間にいるのだ。実際に刺された相手でも。遥翔も恐怖を感じることがあるかもしれない。
「遥くんは、大丈夫?」
『何が?』
「だって、怪我をしたのは遥くんで」
『別に』
「そ、そう……」
遥翔との会話はいつもこんな感じだった。話を続けようというか、会話を楽しむということを遥翔はしない。必要がなければ話さない。必要以上のことも言わない。それが遥翔だった。陽奈子とてよくわかっているし、慣れている。それでも、今はそれが物足りなかった。
「あのね、遥くん」
『……』
返事はない。でも聞いてくれている。陽奈子にはわかっていた。どれだけ悪態をついても、ぶっきらぼうでも、遥翔が優しいことを。惚れた欲目だと言われても構わない。そのままの遥翔に陽奈子は恋をしたのだから。あんな目にあって男性が苦手になったのに、それでも遥翔だけは平気だった。
「私のことを気遣ってくれてありがとう。大好きだよ、遥くん」
『あんたは二言目にはそれだな』
きっと向こうで呆れた顔をしているのだろう。そんな姿が容易に想像できて、陽奈子は笑い声を漏らす。
『大丈夫そうだな』
「うん、私は大丈夫だよ」
『ならいい』
プツンと通話が切れる。切る時くらい、何かを言ってくれてもいいのに。不満はあるけれど、電話に出ること自体、遥翔からしてみればあり得ないのだと雪人が言っていた。特に女関係からの電話は出ないのだと。雪人の姉だから気を遣っているのかと思っていた。しかし、雪人は違うと断言した。それだけ特別だと思ってもいいのだろうか。何度も告白まがいのことをして、相手にされていなくても、少しは気にしてもらえていると。
一人になると、ほんの少しだけ恐怖が襲ってくる気がした。それでも大丈夫だと言い聞かせる。怖がってばかりいては、何のために警官になったのかわからない。強くなるために、誰かを助けられる人になるために、そのために努力してきたのだから。
「よし、頑張ろう!」
頬を両手でパチンと挟むようにして叩き、気合を入れる。まだ業務は残っている。こんなところでサボっているわけにはいかないのだ。