第1話 化け物
※流血・暴力・嘔吐表現アリ。
ジリリリ、とけたたましく非常ベルが鳴り続ける。悲鳴のような、嗚咽のような、奇声のような音を鳴らし続ける。辺りは燃え、防火シャワーが水を散布し、それでもなお収まらぬ灼熱の劫火が辺りに広がっていて。逃げ惑う研究者たちの靴音と恐怖の叫び声が木霊する中、その少年は1人の研究者の脚を折れた鉄パイプのようなもので突き刺し、逃げの一手を打たせまいとしていた。
つい数十分前まではピカピカだったであろう白衣に着られたような、痩せぎすで薄弱そうな研究者とは対照的に、彼はボロボロで煤と血痕で汚れたコートに身を包み、殺意と怒りが血走った眼に集約されていた。
そのドスの効いた声色は、同じくらいの背丈の少年ということを忘れるほどに、場の空気をひしゃげさせていた。
「....戻せ。でなきゃ死ね。苦しんで、泣き叫んで、俺より酷い目に遭ってから死ね。死ね。死ねェッ!」
「ギィァァッア....!助け....て....ゼェ、ヒィ、私たちが、何を、したというんだ....!」
「....何をしたか?」
「そっそうだ!私たちの行いは正しい!この国が発展し続けるためには"妖魔”の力を使う必要がある!だからこそ!その力を知るための致し方ない犠牲だ!コラテラルダメージだ!尊い貢献だ!私たちには大義が....」
「その二つじゃ180°意味合いが変わってきやがるな、だがよ....」
「ヒィィッ!」
「俺らはテメェらに身体を弄くり回す権限なんざ与えてねぇ。同意もしてねぇ!尊い犠牲?!ふざけんな!!!」
「おぶ.....ガヘァッ!」
研究者の頬に拳骨を喰らわせたその瞬間。彼の手から氷柱が、生えた。ミジュッ、っと怪音を立てて骨と肉が裂ける。ワンテンポ遅れた研究者の悲鳴がやけにクリアに聞こえた。ぼたぼたとそこから滴ろうとする血すらも、瞬時に凍らせた彼の手は、無骨なドリルのようだった。
「もう一度だけ言う。俺を、このクソッタレでおかしな身体から元に戻せ。拒否権はねぇぞ。」
「ほっほれは無理だっ!私含め、ほの研究所の職員の大半はそんなほとは、ゲェッホ、知らはい!やれと言はれても」
「そうか。ならさっき言った通りだ。せめて後悔しながら死んじまえ。」
引き裂かれ廻らぬ口で釈明しようとする研究員の言葉を遮り、圧倒的な力と共に死を宣告する彼の眼は、先ほどとはうってかわって、恐ろしいほどに色味がなかった。
「『細氷管』」
「ああ....ああ、やめてくれェッ!な、なんでもやる、許して、たの」
命乞いをする研究員の言葉は虚しく、彼の耳には届かない。
痛い、痛いと悲鳴を上げ続ける研究員の全身から、小さな小さな赫い棘が無数に突き出る。人として死ぬとは到底思えないその無様な死体1歩手前のナニカを彼が蹴り飛ばすと、ガシャという何かが砕けたような音がした。
研究員の死を確認した彼はこちらに歩んでくる。特徴的な獣の耳をひくつかせ、歪んだ鮫のような歯と鋭い三白眼を昏く光らせ笑いながら。
「....ぼーっとのさばってんじゃねぇ!お前らもあのボケ共をブチ殺せ!!!」
そう叫ぶと彼は、瞬時に生み出した巨大な氷塊を電子檻にぶつけて破壊した。
僕と同じように電子檻に入れられていた被験者たちが一斉に歓声を上げながら飛び出し、嬉々として見つけ次第研究員を殺していく。煙に巻かれ窒息、炎に包まれて焼死、喰い千切られて即死。死に方のバーゲンセールなんて使い古された表現が出てくるほど酷くて異様な光景だけど、僕から湧き上がった感慨はただ一つ。
「ああ....助かった。」
ザマアミロ。僕の心のどこかでそう叫ぶ自分もいたけど、何よりこれで終わりだと、元の平穏な生活に戻れるんだと思っていた。
けど、そんなことはなかった。この世界では救いも助けも差し伸べられない、そんな冷めきった現実を半日後に知るなんて、その時の僕は思いもしていなかった。
............あの研究所から逃げ出してから、もう半年が経つ。
この不便な身体にはまだ、慣れないまま。
「ピロン」
水野さんからのメッセージ。
「奏さん、お二人に今月のお金は振り込んでもらいました。
身体に気をつけてください、とのことです。」
あんな両親に代わって毎月お金を送ってくれているのはとてもありがたい。
家の体裁もあるんだろうけど、僕のことを心配してくれている。
水野さんは、優しい嘘をいつも吐く。
はぁ、とため息をついてスマホをしまう。
裏通りを抜けると、途端に人が目立つ大通りへと出た。
....まただ。またこの、自分ではどうしようもない文字列が瞼に焼き付けられ、理解を強制させられる。
「い....っづ....あぁ....」
.....静けさとは、無縁だ。目を、瞑る。
人の声は、まだ意識しなければどうってことはない。
だけど、この『心の声』は濁流のように僕の脳を侵食してくる。文字列がぶっきらぼうに理解を強制して。強要して。耐えきれなくて。
頭が、ガンガンと砕かれるように、痛い。
1分にも満たない時間。それだけ休めばだんだんと回復してくる。
薄目で前を見つつ、明後日からの学校に向けて、用意をする。
この体質じゃ、花の高校生活なんて、望むべくもないけれど。
それでも、高校くらいは出ておきたかった。
人の多い場所は、苦手だ。もっと言えば、怖い。
『心の声』が視えるようになってしまってから、僕の人生は暗転した。
『覚』と呼ばれる妖怪の力を取り込んだ僕には、視界内の他人の思考が文字の羅列として傾れ込む。それだけだったらまだしも、コントロールの効かないこの力は処理不良を引き起こして、僕の脳に激痛を生む。
端的に言えば、僕は多数人がいる前での円滑なコミュニケーションが出来ない。
それを打ち明けた時の二人の顔は、今もよく覚えている。
結果、『見聞を広める』という名目で家から追い出された。
結局、あの人たちは僕を『跡取り息子』としてしか愛していなかった。
いや....だからこそ多少出来の悪い僕でも、将来に期待してくれていたんだろう。
あいつらに連れ去られても、必死に捜索してくれていた。
けれど、こんな状態になってしまった僕が両親の期待に答えるのは不可能だ。
それも仕方ないのかも....しれない....
けど....
「....なんでっ....こんな目に....?」
僕は、何かしただろうか。何が、間違っていたのか。
僕が甘えきっていたのが良くなかったのか。僕はどうすればよかったのだろうか。
なぜ僕が連れ去られたのか。なぜ僕にこんな無用の長物が植え付けられたのか。
なぜ僕だけがこれほどの孤独を味わなければいけないのか。
なぜ。なぜ。なぜ。なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ。
鬱々と考えながら、暗澹たる心地の僕とは真逆の底抜けに明るい音楽が響く店内で買い物を済ませた。
制服のサイズを合わせてもらってから店を出ると、既に昼過ぎだった。
店員さんが終始怯えてたけれど、睨んでいるわけじゃなかったんだ、許してほしい。少し申し訳なくなりながら、家路に着く。
そうして、人通りの少ない道を選びながら歩いていたその時。
「ヒィィィィィィィィィッ!!!!!!!」
ドン、と突然悲鳴をあげる白衣の男に僕は突き飛ばされた。
「いったい....。」
怪我はない。汚れを払った僕の目に飛び込んできたのは....
「ッチ、見失ったか........お。」
足音もなく高速で移動してきたにもかかわらずピタリと急停止し、勢いよく被っていたフードを取った男だった。
「悪りぃアンタ、ついさっき白衣着た男がこっちにこなかったか?探してるんだが。」
「あ....えっと、左の路地に....」
「助かる。」
イラついて顰めているその顔に、見覚えがあった。
殺意が滲み出たような悪人顔と鋭い眼。どこかテンションが高くぶっきらぼうな口調も聞き覚えがある。
間違いない。研究所で僕ら被験者を解放してくれた彼だ。
....お礼を言おう。言うべきだ。彼があの研究所を破壊してくれたからこそ、実験動物としての生活は終わりを告げたんだから。
「待って!」
「あ?んだよ、見ての通りこっちは急いでん....」
「研究所の!....君だよね?檻を壊してくれたの。」
「?!まさかアンタもこっち側か?....あの白衣は研究者の残党だ。」
「....ッ!」
「話が早くて助かる....少々手荒だがついて来い!」
言うが早いか、彼はガッと僕の胴体を抱えてそのまま駆け出す。
ガクガクと揺られること十秒前後、あっという間に研究者に追いつくどころか回り込んだ彼は、
「見つけたぞクソッタレ....!ちょこまかと逃げやがって、知ってるんだろう!?テメェらの親玉を!吐け!居場所!でなきゃブチ殺す!」
無造作に僕を下ろしながら、そう怒鳴り散らす。
「誰が貴様なぞに答えるか!所長さえいれば研究は続けられる!社会の発展、日本の振興、この大義に勝るものはない!」
「テメェらのそれが大義だぁ!?ざけんな、ただのエゴイズムだろうが!」
「五月蝿い!貴様のような青二才が知ったような口をきくな!これは必要不可欠な実験なのだ!」
「んなわけあるかよ....!!話さねぇってんなら....先ずブチのめす!」
彼は瞬時に距離を詰め、下からの掌底を構える。
「『妖纏』『氷躁加速・拳』」
彼がそう唱えると、右手首に氷の塊が生成され、そのまま........
「ぐふぅぁがぁっ?!」
目にも止まらぬ勢いの顎打ちが研究者にクリーンヒットした。
明らかには人には放てない速度。
それだけでわかる。彼は僕とは違う、本物の怪物。
あの日の大立ち回りと、寸分違わぬ圧倒的な暴力。
「ゲェッホ....貴っ様ぁ....」
「はッ、身から出た錆だなオイ、人間様がバケモンによぉ...」
嘔吐きながらも悪態を吐こうとする研究者の首筋を彼はがしっと掴み、
「『氷躁加速・脚』」
先ほどとは違い脚全体を氷漬けにしてから左の回し蹴りを放った。ガシャアン、という音と共に砕け散った氷は空気に溶け込むように消える。
体幹が崩れた研究者の左手首を鷲掴みにし、肩と右足を活かして跳ね上げた研究者の躰を投げ技の要領で地面に叩きつけようとする。
そして自分の躰をクルリと反転させた勢いと合わせた超威力の肘を背骨に打ち込んだ。
1分にも満たない連撃、その結果は....
「....勝てる....わきゃ....ねぇだろうがぁッ!!!!」
圧勝。吐瀉物を撒き散らしながら転げ回る研究者を足蹴にする彼には余裕しかなかった。
「さあ答えろ!死にたくねぇならなぁ!!!」
「ぐ....。....!?まだだッ!」
「おい!!!待ちやがれ!!!」
バッと死に物狂いで飛び出した研究者が路地裏に逃げ込むもすぐ追いついた彼。
その腕の中にいたものを見て彼の言葉は止まった。
「何逃げてやがんだテメ....ッ!?」
「動くなぁ!このガキがどうなってもいいのか!!!」
「ヒ....おか、おかぁ、さん、おか」
「黙れぇ!」
小型のナイフを隠し持っていた研究者が、少女を人質に取っていた。
「チッ........すまん、ガキ。ちっとばかし痛ぇぞ。」
「や、やめて....」
「ま、待ってよ!まさかあの子ごと攻撃するつもりじゃ....」
「........有効な手段がそれ以外にない、安心しろ、殺さん。」
「そう言う話じゃ...」
パキパキと、氷塊を生み出す彼。どうしよう、止めなくちゃ............
「少年、それはいただけないな。」
突然のこと、だった。
黒煙が、突如として舞う。
「愛と可愛さを拳に乗せて!エンジェル☆シュリンプ!見ッ参ッ☆!」
「悪いが、止めさせてもらうよ。」
ビビッドピンクの髪と黒のミニスカートワンピースが目に刺さる格闘家のような大男と、黒髪と黒煙をたなびかせる大人びた少女が、彼の前に立ちはだかっていた。
そんなチグハグな二人に向かって彼はため息と共に問う。
「.......服装の価値観をあれこれ言わんがよ、地雷系、その体格で着るの無理だろどうなってんだおっさん。」
「自作よ。あと17よ。」
「すげぇけどキチィなおい、今日日聞かんぞ17教。」
「話を煙に巻くのはやめてもらおうか、そこの研究員はともかく他への攻撃をやめたまえよ、少年。あとエビはにじゅ....」
「アンタから潰すわよえんら?!」
「あーもう!いいからとっととそこを退け、そこのカスが逃げるだろうが!!!」
益体が無さすぎる会話を打ち切り、彼は居座り続ける二人に怒号を荒げる。
「それは許容できないな少年。ワタシとエビが退いたら君はあの子供ごと研究員に攻撃するだろう?」
「....アイツをブチのめすにゃそれが最短だ。人質を解放する気配がない以上....仕方がない。何よりこれ以上もたつくとサツが来る、そうなったらそいつらも殺さなきゃ....ならん。」
「殺す殺すと、それしか考えられないのかい少年。ここは退かない、キミが引きたまえよ。」
やれやれ、と呆れ気味に言い放った少女を尻目に、あまりのことに逃げるのを忘れていた研究者が少女を抱えて駆け出した。
「うっせぇ....後悔すんじゃねぇぞテメェら....誰が引くかボケナス共が....復讐心ってのはな....そう安いもんじゃねぇんだ!」
「随分な啖呵だね。君だけが抱える怒りでないことなど、考えればわかるはずだよ?それでも人命は最優先だ。」
真っ向からの苛立ちと正論が衝突する。その上で、彼は問う。
「一応聞いとくぞ、テメェらは敵か?」
「そうだね。ワタシ達は現状キミと敵対関係にある。」
「そうか....なら、殺すしかないな。」
そう言葉の応酬を終わらせた二人は互いに構え、大男は人質の子供を救出しに向かった。
........僕は、動けない。足が、竦んでしまったように。腰が抜けてしまったように、動けない。せめて攻撃が届かないように目の前の戦いを見ることしか、できない。
「『氷躁加速・両拳』」
「『延々墨墨』」
先ほどと同じように両手首を氷漬けにする彼に対し、颯爽と現れた時のように体を煙で包む彼女。
「速攻一本!多少見えづらい程度で....なっ!?」
急接近し飛び蹴りを放った彼の体ごと、空を切る。
「なっはっは、そう淑女に暴力を振るおうとするものじゃないよ?特に昨今は。」
「黙りやがれ、どーいうカラクリかは知らんが....『妖纏』!!」
叫んだ彼が振り向きざまに渾身の右ストレートを繰り出す。
それに合わせて彼女は、
「『集墨』『妖纏』!!」
漂わせていた煙を前方に集約させる。
瞬間、ドゴッと鈍い音が響く。驚きが隠せない。
「煙を....殴った....?!」
彼の拳は、的確に煙を捉えていた。
その衝撃に少し、彼女の体が揺れる。
「はッ、所詮纏えば殴れる程度か。さては伝承級だな?目眩し、逃走、回避....小器用だがつまんねぇ力だな、おい。」
「伝承級....?」
「....あまりワタシの力を侮らない方がいいよ、こういうこともできるから、ねッ!」
もくもくと地を這わせた煙は灰色の腕へと変貌し、彼を無理やり路地の表に投げ飛ばす。
「『延々招手』避け切れるかい?」
「ハン、その程度....」
彼女はさらに、彼の周囲を煙で囲い、そこから十数本の腕が伸びてくる。
右からの腕に裏拳を喰らわせて動きを止め、3本纏めて殴り飛ばす。数秒遅れて、腕が掻き消えた。
左半分の腕は氷漬けにされ身動きも取れず、残りの右側を放置して正面の腕を掴み、へし折るように捻った。
「ダメージは....ま、そううまくはいかねぇってわけだ。」
「それにしても、だけどね。」
「まさか本当に凌ぎきるなんて....」
「ワタシが思っていた以上に厄介だね、キミ。せめて長引かさせてもらおう。」
痛みすら見せないが、困ったな、と言わんばかりの彼女。首を振ってさらに煙の腕を生やす。が。
「させねぇし、大体読めてきた....テメェの力がな。おそらくだが躰と煙は繋がっているし、一部だけ纏わせることは出来てない。スペックの問題か修練不足かはわからんがな。」
「....へぇ?それがわかったところでどうしようと....」
「いや、もう一つある。」
ニヤリ、と彼は嘲う。
「あそこでテメェが妖纏を解除しておけば俺に隙が出来ていた。それをなぜしなかったか....」
「.........」
「だろうな。出来なかったんだ。」
「だから....それがどうしたと....」
「つまり、スパンこそ分からんが解除と妖纏には時間差がある。それでなくともテメェは妖力の操作が甘ぇ。さっきからな。だからこそ....」
伸ばされた煙の手をまとめて氷漬けにし、グイッと奥に向けて引き摺る。一拍置いて、彼女が倒れ込む。
「こんな芸当も出来るってわけよ!!!」
その隙をついた、高速の一蹴。
「煙の腕に攻撃は通らんが、お前には通るんじゃぁねぇか?!」
ゴギ、と嫌な音が聞こえたにも関わらず彼の足に氷はなかった。
「ぐぁぁぁっ?!?!」
悲鳴を上げ倒れようとも、尚も立ちあがろうとする彼女。だが。
「まだ....ま....」
「終わりじゃねぇ!手こずらせやがって....!」
ガシッ、と倒れ込む彼女の髪を千切れんばかりに鷲掴み、彼は拳を構える。
「「『氷躁加速・籠手』『妖纏』!!」
「やめ....」
僕から漏れたか細い声は春の日差しに溶けて消え、彼は棘だらけの氷を左手に、ゼロ距離のストレートを彼女に見舞った。
「ゴッ!?イッ....ヅ....ギァ....ァ....ァ....ガッハァ....」
「それがどうしたか、だったな?テメェはここでオシマイだってことだよ!」
顔面からだらだらと血を流し、のたうち回る彼女に追撃を加えようとする彼に、僕は青褪める。しかし、その状況に割って入る声があった。
「させないわよアンタ....えんらに何を?!」
驚きと怒りが半々といった様子の大男の声。呆然とした大男に、彼女が声を掛ける。
「エビ....状況は?」
「人質は解放してきたわよ....あいつには逃げられちゃったけどね。」
「助かる。ワタシはすまんがこのザマだ。」
「アンタ不甲斐なさすぎるでしょ。なに?あのボウヤそんな強いの?」
自身のことを顧みず、淡々と現状を伝える彼女。大男は飄々とした態度で聞き流し、ハンカチを渡した。
「ほら、血止めときな。」
「助かるよ、エビ....ウェ。」
「応急処置だからね?後で由仁に治してもらいな。」
大怪我にも動じない二人。しかしそんな二人の会話を聞いて彼の顔は更に歪む。
「ちっ....こうなっちまったら追うのは不可能だな....距離も逃げた先もわからん、この落とし前は高くつくぞオッサン。」
ガリガリと頭を掻き毟り、彼は忌々しそうにそう吐き捨てた。
「はぁ?妖術ありとはいえ素手でこのエンジェル☆シュリンプに勝とうっての?舐めんじゃないわよボウヤ、舐めるわよ?」
「おーおー、そいつは恐ぇな主に別の意味で。」
「ジョークよ。アタシそういうのは愛し合ってる同士でやるべきだと思うの。」
「そりゃ重畳。俺も純愛推進派だ。」
「それに....」
「それに?」
言葉をためた大男に、半笑いの彼が聞き返す。
「アンタ、好みじゃないのよねッ!」
「知るかァ!!!!!!」
予想の10倍くだらなかったとでも言わんばかりに叫び、彼は殴りかかる。
「『氷躁加速・脚』」
「そいやァッ!」
目にも止まらぬ蹴りと拳との連激が数度交わされる。そこで彼は一度後ろに引いた。
「さてはオッサン、何か齧ってたな?明らかにそこの女とは違う、慣れた奴の動きだ。」
「へぇ。見る目あンじゃないの、ボウヤ。どこで気づいた?」
「足だな。動き方にムラがねぇ。」
「いやンえっち、昔はこれでもそこそこ名のあるボクサーだったのよ?」
「....リングの変態とか呼ばれてそうだなオッサン。」
うげぇ、と明らかに嫌そうな顔をした彼。....そこだけは同意だ。
「あんまし軽口叩いてちゃ....火傷さすわよ!」
「勘弁願うぜ、そりゃ。」
スウェーのように後ろに移動しながら彼の背面に回り込んだ大男は、急接近してラッシュを仕掛ける。
「!フンッ!」
右からのジャブを振り向きざまの回し蹴り、左ストレートを右の手刀で流して更に距離を詰める。相手の両手をそのまま掴んで引き寄せ、彼は頭突きを繰り出した。
「ごぁ....っだぁ....」
「悪くねぇ、だがな....オラァ!!」
「うぉぁッ?!」
ふらついた大男を背後から羽交締めにする彼。ジタバタと抵抗するが、ガッチリと極められて動けないようだ。
「『氷躁加速・翅』!!」
彼の背中から蜻蛉を思わせるような氷の翅が生え、そのまま空中へと浮いた。
「がッ....な、放しなさいよアンタァッ!」
高速で浮遊する彼を上目遣いに睨め付けながら大男が叫ぶ。
「いいぜ....?こっからならなぁ!!!」
そう怒鳴り返し、高所で急停止した彼は20mはあるであろう高さから大男を投げ落とした。
「堕ちろや、オラァ!!!」
「ちょまっ、ギャアァァァ!!!!」
高速で落下してきた大男。しかし、その結果に僕は目を疑った。
「えっ....いない?!」
「?!どこ行きやがった....!?」
ヒラリと着地し、周囲を見渡す彼。確かに地面に衝突するはずだった男の姿は....。....?!
「なっ........?」
突如地面が波打ったかと思うと、そこから大男が這い出てきた。
「あっぶな....アタシじゃなけりゃ死んでたわよ?」
そう言って大男は首を大仰に回して見せた。
「ッチ....さっきの悲鳴はハッタリかよ。随分楽しそうな力だな....代償も今んとこ見つからねぇ、発動条件不明でテメェ自身の妖力操作もなかなかの練度たぁ天晴れだ。」
「アーッハッハ、必殺技、透かされちゃったんじゃないのボウヤ〜〜?!まだまだお楽しみはここか....」
高笑いする大男。それを見た彼は、何故だか不敵に嘲って。
バシュッ
唐突に、響いた。
「............?、お........え....嘘....」
「趣味じゃあ、ねぇんだがな?」
ニヤリと笑む彼。激痛に瞳を開き、後ろへ吹っ飛ぶ大男。
銃声、と気づくのには数秒を要した。彼が構える、あまりにも現実的で非現実的な銀色の拳銃。
軽すぎる音とは裏腹に、大男には深刻なダメージが入ってしまっていた。
「ご....えげぇっほ....あん....た....。んな....ひきょ....」
「ステゴロだ、なんざ誰が言った?」
恐ろしいほど乾いた声。なぜか、さっきの銃声よりも何倍も、命の危機を感じた。ガチガチと、歯が、鳴り止まない。
「いい『妖纏』だったぜオッサン。咄嗟で銃弾耐えるたぁ大したもんだ。」
「で....っしょ....えほっ....」
「エビ、喋るんじゃない、一旦引くぞ!しっかりしろ!」
駆け寄る少女。それを見て彼はカラカラと笑った。
「不意を突くには銃ってのは便利なモンだ。特に俺らみたいなバケモンは、意識外からの攻撃に弱い。言わば慢心だな。」
「言わせておけばペラペラと....!よくもエビを!」
「なぁーに。死んじゃいねぇよ。ま、今から殺すから変わらんがな。」
「ふざけるなッ!そんなことはさせないッ!」
「じゃあテメェから殺してやるよ。何発耐えられるか、賭けるか?」
「....ぐッ」
「さーて、上手く凌げよ?」
ニヤリ、と笑った彼はチャキリ、と銃を彼女に向け....
「やめろッ!」
思わず、手が伸びた。コートを引っ掴み、彼を静止する。
「....あ?いたのか。なら手伝えや。あれだろ?俺が解放してやったクチだろうがよ。」
それは出来ない。さらに強く、掴む。
「君があの場所を破壊してくれたことには感謝してる。だけど........」
「....だけど?」
「....少なくとも僕は、復讐に無関係な人間を巻き込むほど、外道には堕ちたくない!」
「おいおい、俺たちゃバケモンだぜ?道なんざとうにねぇだろうが。」
....そうかもしれない。けど、これだけは譲れない。だって。
「自分の為に、誰かを犠牲にするなんてあいつらとまるっきり変わらない!」
「....ッ!」
「君のやり方を僕は許容しない!大人しく立ち去ってくれ!」
彼の目的とすることはわかる。この研究を僕らに行った研究者の親玉を探してこの最悪な体をまともな状態に戻してもらう。でも、それじゃダメだ。復讐も、幸せになることも、無関係な人間を巻き込んじゃいけないんだ。....それは....バケモノの所業だ。
「....気にくわねぇな。テメェ。絶望なんて知りません、希望は捨てなきゃそこにありますってか?」
皮肉たっぷりにそう言う彼。思わず叫び返した。
「........ッ!絶望なら!この場で誰よりも僕がよく知っている!」
ハッタリでも嘘でもない、僕の力なんて無用の長物そのもの。あれだけの力を持っている彼が絶望を語るなんて僕からすれば笑止千万だ。なんの自慢にもならないが、絶望的という言葉は嫌というほど今の僕に似合ってしまっている。
正直、バカにされている気分だ。自然と、声も荒くなる。
....なのに。
「それは、ねぇな。」
............え?
「それだけは確信して言えるぜ。テメェは、俺ほど絶望してねぇ。だからそんなふうになりふり構っていられるんだ。」
「何を....言って....?」
「反吐が出るぜ。まさかテメェが俺より不幸とでも?いや、そんなもんは報告書にはないな。」
「報告書....?」
「まさか、ワタシたちの以外にも...?!」
何かを理解したような彼女。だけど僕にはわからない、何も。
「教えてやる義理ぁねぇな。代わりに一つ、確認だが....テメェは俺の敵か?」
「....君がやめないつもりなら。」
「....そうかよ。なら、死んでくれ。」
「ッ!」
チャキリ、と彼は銃を構えてゆっくりとこちらに向けてくる。
なんとかしないと。撃たれる。撃たれる。撃たれる。銃口が向けられる。眼が、合う。
『『『『怖い』』』』
『『『『怖い』』』』
『『『『怖い』』』』
『『『『怖い』』』』
眼を合わせた瞬間、僕の脳に流れ込む精神が、彼を蝕んだ。そんな感覚が、あった。
「あ゛っ....?!なっ....?!....エオ゛ァ....」
突如、倒れる彼。混乱したように。何が起こったのか、僕自身にすら、明確にはわからない。
「ハァ....ハァ....エア゛ァ....だ....テメ....ェ....オ゛オ゛オ゛ェ゛....ゲォッ....」
吐き続ける彼。僕は....何を?
「....っ....ハハ....おい....テメェ、何モンだ....?今の攻撃はなんだ....?教えろよおい....初めてだ....!俺を吐かせたやつはよ!」
僕は....僕が何者か....?
「僕は....詩須瀬、奏。ただの人間で....君の、敵だ。」
そう、はっきりと断言する。
「そうかよ...!テメェを倒せば俺はあのゴミ共を一掃出来るぐらい強くなれる!だから俺は!テメェを倒す!必ず!」
爛々と目を狂気に輝かせ、彼は笑う。多分、僕は彼のことを、この世で誰よりも理解できない。
「だがそれは今じゃねぇ!俺の名は池尾次郎!!!忘れんなよ!!!詩須瀬!!!必ず!ブッ飛ばす!」
脂汗を流しながらもそう言い放ち、自身を氷漬けにして飛び去った彼。
力が抜けてしまった僕は、その場にへたりこんだ。