偉大なる大魔導士の私が己のクローンと暮らすようになったら、姉と慕われてベタベタに重い感情を向けられるようになっていく話
ここはアポロ王国。温暖な気候と恵まれた土壌により悠久の豊かさを約束された大国である。
「お師匠様。長年のお勤め本当にお疲れさまでした」
「うむ。フォルテューヌも壮健でな。お主が王宮魔導局次期長官として活躍することを私も願っているよ」
そんな大国の中枢である王宮の廊下では、師と教え子によって師弟生活を締めくくる最後の会話が行われていた。
「ええ、伝授いただいた技術とお言葉を胸に刻んでわたくしも精進してまいります。お師匠様もどうかくれぐれもご自愛くださいませ」
一番弟子の口から紡がれた頼もしい言葉を耳にした師は僅かに口角を緩める。
「ああ、それではな」
その言葉を最後に大魔導士ルビア・ヘリオスコープは50年にもおよぶ王宮生活に終止符を打ち、王宮を後にしたのであった。
◇◇◇
――それから数日後。
「あぁ……何にも縛られない生活。私はこの為に生きてきたと言っても過言ではない」
天蓋付の大きなベッドにゴロゴロと寝転がった体勢で本を読んでいるルビア。
ネグリジェがはだけ、外気に晒されてしまった柔肌を爪でポリポリと掻いているそのだらしない姿からは大魔導士としての威厳をこれっぽっちも感じることはできない。
「……それにしても腹が空いたな。おーい、誰かいないかぁ……フォルテューヌぅ……」
この大魔導士ルビア。至上最年少で“不老”に至った偉大な魔導士ではあるのだが、幼少時から魔法の研鑽に時間を割きすぎた結果、ひとりでは日常生活すら危ういという世間一般にはかなりのダメ人間に分類される存在であった。
「メイドでも雇うか。いや、しかし……先立たれて寂しい思いをするくらいならゴーレムやホムンクルスを生成する方がマシだな。わざわざ作るのも……面倒ではあるが」
そう口にしたルビアがようやく重い腰を上げようとした――その時だった。
自宅の周辺に張り巡らせておいた結界が侵入者を検知し、彼女の第六感に訴えかけてきたのだ。
「むっ……この魔力……」
同時にルビアはその侵入者の正体を掴んでいた。それは彼女にとっても実に馴染み深い魔力を持つ存在であるため、来客と言い換えてもいいだろう。
「……ん?」
緩みかけている表情のまま、彼女は僅かに首を傾げる。来客は1人だけではなかったのだ。当然、ルビアはもう1人の正体も探ろうとした。
しかし――。
「魔力阻害、か……」
魔力による感知が何かに阻まれてしまったのだ。それが魔法によるものか、はたまた魔導具によるものかは定かではなかったが、その妨害を無力化することはルビアにとって造作もない。
「まあいいか」
だが、彼女はそれ以上探ろうとはしなかった。それはもう片方の来訪者のことをそれほどまでに信頼しているということに他ならない。
――その僅かな行為すらも億劫になったというわけではない……はずである。
「お師匠様。突然の来訪、申し訳ありません」
「うむ、たしかに驚いたがな……お主は私の愛弟子だ。この程度のことで気に病む必要はないぞ」
今にも鳴きだしそうな腹の虫をどうにか抑え込み、師としての威厳を保とうとするルビア。
そんな心情に気付いているかは定かではないが、彼女の弟子であるフォルテューヌは表情を和らげた。
「お元気そうで何よりです、お師匠様」
「元気そうもなにも、王宮を出たのはたったの数日前なのだが……」
「それでもお師匠様なので……人知れず干からびてしまっていないかとこのフォルテューヌ、気を揉んで夜も満足に眠れませんでした」
「ぐっ……」
弟子からもそのように思われているのか、と密かにショックを受けたルビアはバツが悪そうな表情を浮かべる。
このままではいけないと考えた彼女は大きく咳払いをして、話題を即座に変えることを選んだ。
「して、その子供か……」
愛弟子の隣にちょこんと座っていたのはフードを被った小さな人影。
王宮魔導局長官という立場でありながら、このような人里離れた場所まで師を訪ねてきた理由はその子供にあると見抜いた彼女はフォルテューヌからの返答を待つ。
だが愛弟子の口から飛び出したのは彼女が予想もしていなかった言葉であった。
「さすがはお師匠様。ご覧になっただけでお判りになるとは……その通りです、この子供はお師匠様の遺伝子から生み出されたクローンになります」
「ほうほう、私のクローン…………私のクローン!?」
フォルテューヌが子供のフードに手を掛け、それを除けるとフードの下からはルビアと瓜二つの白い髪の少女が現れたのだ。
背丈と同様に顔つきは12歳で成長が止まっているルビアよりもさらに幼く、その表情からは生気が感じられないといった差異はあるものの誰が見てもルビアとの繋がりを見出してしまうような容姿をしていた。
身を乗り出し、目が飛び出すのではないかという勢いで驚いていたルビアは自身のクローンだという子供と愛弟子を交互に見つめていたかと思えば不意に顎に手を遣り、ある仮説を打ち立てる。
「まさかあの少女愛好の変態め。私が靡かぬからと禁忌であるクローン技術にまで手を染めたのか……!?」
「あ、いえ。先王様は関係ありませんよ。あの御方ならとお師匠様が考えてしまうのはわかりますが、今回は違います」
フォルテューヌがきっぱりと否定したため、納得したルビアは続きを促すように彼女の顔を見つめる。
「お師匠様。先日崩壊させた例の犯罪組織のことは覚えていらっしゃいますよね」
「当たり前だ。私の王宮魔導局長官としての最初の仕事であり、最後の仕事でもあったのだから。何度も手を焼かされた奴らのことを一瞬たりとも忘れたことはないさ。……おい、まさか」
「そのまさかです。彼らは50年にも及ぶ因縁を持つ宿敵であるお師匠様を排除するためにある計画を立てていたそうです」
「因縁の相手のクローンを生み出して対抗しようとしたわけか」
「はい……彼らの供述を元に秘匿されていた組織の研究施設を調べたところ、この子を保護しました」
優しい手付きで頭を撫でられているその子供はやはり反応といった反応をほとんど示さず、されるがままとなっている。
それを少し気の毒に思いつつもルビアは真剣な表情で話を続ける。
「私の遺伝子を流した者が王宮にいるはずだ。下手人の目星はついているのか?」
「既に捕縛し、尋問を始めています」
「さすがに仕事が早いな、現王宮魔導局長官殿」
「当然です。仕事の早さは超一流だったお師匠様から学ばせていただいたのですから」
軽く胸を張る愛弟子を微笑ましく思うルビア。部屋はどこか和やかな雰囲気に包まれる。
「……とここまではご報告です。ここから先は王宮魔導局からお師匠様へのお願い事になります」
「なるほど、そちらが本題か。私とお主の仲だ……肩肘張らず、気軽に言ってみるがいい」
「ではお言葉に甘えて。お師匠様、この子のことをどうぞよろしくお願いいたします」
「……は?」
和やかな雰囲気の中、間の抜けた声を出したルビアの表情が凍りつく。
そんな師にフォルテューヌはクローンであるその子供を預けるに至った経緯を語り始めた。
簡単にまとめると先代の王宮魔導局長官にして、希代の大魔導士と同じ姿と才能を持つであろう存在は王都に不穏な影を招きかねないのだ。
「フォルテューヌ、お主は分かっているのか? その子供は……」
「重々承知しております。自分で決める権利すら与えられず、生まれてからずっと大人の思惑に振り回されてきたこの子に対して、今のわたくしもまた大人として残酷な決定を押し付けてしまっているのでしょう」
「フォルテューヌ……」
「そう。わたくしもその辛さはよく理解しているはずなのに……身の回りのことを自分ではしようともしないぐーたらお師匠様と四六時中一緒に生活するという不幸を押し付けた」
「おい」
悲痛な表情のまま、フォルテューヌは語り続ける。
「それでもわたくしはこの子にこの道を進んでほしいと思ってしまう。名も与えられず、祝福を受けることもできなかった彼女の生がたとえ不幸の連続なのだとしても……かごの中の鳥ではなく、自由に生きる権利がこの子にはあるはずだから」
「そうやって急に真面目になられると困るが……まあいい。そこまで分かっているのなら話は早いな。私がお主に言いたいのは――」
「とはいえわたくし自身、お師匠様の矯正に一役買ってくれないかな、という考えも少しあったりしますが」
「……そこは最後まで真面目を貫き通してほしかったよ」
真面目なのかふざけているのか分からないフォルテューヌをどこか呆れた表情で見つめるルビア。
深いため息をついた彼女が口を開いて、言葉を紡ごうとする。
「お主は少し急ぎ過ぎなんだ、フォルテューヌ。いいか、この子供のことを思うのならまずは本人の意思というものを確認したうえでだな――」
「ちなみに付け加えさせていただきますが、王宮でこの子のことをジロジロと見つめている先王様の表情ですが……それはもうすごく変質者みたいでした」
「よし、わかった。この子は私が保護する」
まさかの即決であった。愛弟子の言葉を聞き、先代の国王が出没する王宮ではこの子供は絶対に幸福になれないという考えに一瞬で辿り着いたのだ。
そんな師の様子に表情を明るくしたフォルテューヌが隣に座る子供の背中に手を添えた。
「よかったですね。さあ、ご挨拶を」
「……よろしくおねがいします、オリジナル」
抑揚のない声でそう口にした子供が機械的な動作で腰を曲げる。その様子を見たルビアがフォルテューヌに視線を向けると彼女はただゆっくりと頷いた。
「ああ、これからよろしく頼む。私は大魔導士ルビア・ヘリオスコープ。そしてお主の名は――ノーチェだ、ノーチェ・ヘリオスコープ」
「……ノーチェ?」
「これからはそう名乗るといい。ヘリオスコープの姓を名乗れるというのは実に偉大なことなんだぞ?」
子供――ノーチェは自分の胸に手を当て、ポツリ、ポツリと何度も自分の名前を繰り返し呟いている。そんな彼女を見守る大人たちの表情はどこまでも優しいものだった。
フォルテューヌはルビアに向かって今一度深く一礼すると、ノーチェに向き直った。視線を向けられた少女もまたフォルテューヌをジッと見つめ返す。
「お師匠様――ルビア様との生活では今まで感じたことのないものがたくさんあなたの心の内側に生まれることでしょう」
「うまれる……もの?」
「わたくしが言いたいことはひとつだけ。その生まれていくものを大切にして生きてください、ノーチェ。あなたの人生が幸福に彩られることをわたくしは祈っています」
◇◇◇
「まさか私がこの手で料理をすることになるとは……ほんの数時間前なら考えもしなかっただろうな」
調理用の木ベラを使い、フライパンの上の卵をひっくり返すルビア。
自分の食事を用意してくれるであろう誰かの為に作ったはずの台所に立つ彼女の足元には、その低い身長を補うための踏み台が置かれている。
想定外のことをやる羽目になっている彼女が思い浮かべるのはつい先程、この邸宅の新たな住人となった1人の少女だ。
その少女は今、食卓について食事が出てくるのをおとなしく待っているはずであった。
「おーい、ノーチェ。お主、食べられないものはあるか?」
「……机?」
「それは私も食べられないが……。少し聞き方が悪かったな、嫌いな食べ物はないかという質問だ」
恐らく質問の意図を理解できず、一番に目に入ったものを答えたのであろう。ノーチェの頓珍漢な言動に対して、ルビアは苦笑しながらも聞き返す。
だが少女が黙り込んでしまったため、ルビアは質問自体を変えることにした。
「好きな食べ物はどうだ?」
再び訪れた数秒の沈黙の末にノーチェはゆっくりと口を開く。
「……ごめんなさい」
「いや、謝らなくてもいい。ただ私がお主のことを知りたかっただけなんだ。分からないのなら、これから私と一緒に見つけていけばいい」
「これ、から……?」
「そうだ、これからだ」
強い意志を宿した瞳で正面を見据えていたルビアであったが、不意に手に持ったフライパンを持ち上げると台所を離れて食卓へと向かった。
「まずはこれを食べてみるといい。私特製の大魔導士オムレツだ」
フライパンの上から事前に用意していた皿の上にオムレツを移した彼女は誇らしげな表情を浮かべている。
そしてホカホカと湯気を立てながら皿の上に鎮座するそれを凝視したまま、ノーチェは中々動こうとはしなかった。
「遠慮するな、私の分はちゃんとこれから用意する。だが、まずはお主に食べてもらいたいんだ」
調理した当人に促されるような形でフォークとナイフを手渡された少女は、その茶色を通り越して黒くなっている物体の端の方を切り分け、そのまま小さな口へと運んだ。
「……あたたかい」
「最初に出てくる感想がそれか。……いや、咎めているわけではないさ。少なくとも喜んでくれているみたいだしな」
ルビアはノーチェの頭を数回優しく叩くと自分のオムレツを用意するためにキッチンへと戻っていった。
数分後、ルビアの「まっず!」という声が家中に木霊したのは言うまでもない。
◇◇◇
「いいか、髪は女の命だ。そのまま伸ばすにしろ短くするにしろ、髪のケアというものを怠ってはならない」
「……ん」
「呑み込みが早いな、偉いぞ。よし……これから私が実践してやろう。目は瞑っておけ、染みると目が痛くなるからな」
「……んっ」
言いつけ通りに目を瞑ったノーチェの髪をルビアが丁寧に洗っていく。
この大魔導士ルビア、家事はできないが髪のケアくらいであればお手のものなのだ。大魔導士とはいえ、容姿にも気を遣わなければ魔導研究に傾倒する変人という扱いになりかねない。
「しかし、お主の髪は綺麗だな。私の遺伝子のおかげ……というだけでもないだろう。フォルテューヌか?」
「ん」
「あやつは優しくて気配り上手だ。よくしてくれただろう?」
「……やさしかった」
「そうかそうか。流石私の弟子だな」
「んぷっ」
気分を良くしたルビアが事前に桶に汲んでおいた湯を勢いよくノーチェの頭に掛け、泡を洗い流す。
突然の出来事に瞠目していたノーチェの何かを言いたげな視線はルビアには届かなかった。
「よぉし、体を洗い終わった後は湯船に浸かるぞ。1から100の数字を数え終わるまではおとなしく浸かっておくがいい。だがその前にその髪をだな――」
ルビアは手際よくタオルを使って自身とノーチェの髪をまとめると、少女の腋下に手を回した。
まるで子猫のように軽々と持ち上げられたノーチェはされるがままに湯船へと運ばれる。
「ふぅ……やっぱり風呂はいいな」
「……あたたかい」
ノーチェの小さな体は浴槽の中で伸ばされたルビアの脚の間に収まっている。
「ノーチェ、お主は実に幸運だぞ。なんとこの家では毎日この風呂に入ることができるんだからな」
この状態では前に座るノーチェの表情を正確に窺い知ることはできないが、その僅かな雰囲気の変化にルビアは口元を緩めていた。
そして入浴を終え、大魔導士の偉大な魔法を惜しみなく使うことで手早く髪を乾かした2人は湯冷めしないうちに揃って大きなベッドへと潜り込む。
「お主の体は小さいな、ノーチェよ。ほら、まだこんなにもベッドに余裕があるぞ」
「……ひろい」
「私の自慢のベッドだからな。気に入ったのならお主が1人で眠れるようになった暁にはこれと同じようなベッドを贈ってやろう」
ルビアがそのすぐ隣で横になっている小さな体を抱きしめると、ノーチェもまた控えめではあるものの彼女にしっかりと縋りついた。
「まあ、まだずっと先の話だ。お主はまだまだ小さいからな」
「……ん」
何も知らないまま生きてきた、赤ん坊に毛が生えたような状態とも言える小さな少女にはまだ自分で何かを決断することも難しいだろう。
だが今はまだそれでもいい、とルビアは腕に込める力を強めた。
「明日はこの家のことを教えてやろう。屋敷だけではなく、ここの敷地の広さを知ればお主はひっくり返ってしまうだろうな。注意しなければならない魔導具も数えきれないほどあるぞ」
「……はい」
「それで明後日はお主の服を見繕おう。フォルテューヌが持ってきた衣服だけでは心許ないうえに……あやつのセンスは少しばかりダサい」
「ださい?」
愛弟子が置いていったノーチェ用の小さな服のデザインはかなり野暮ったいものだった。
王宮魔導士としての制服だけではなく、フォルテューヌの私服のこともよく知っているルビアはノーチェ用の衣服を誰が選んだのかをすぐに察することができていた。
「そしてその後は待ちに待った魔法の練習だ。大魔導士から直々に指導を受けるなど実に幸福なことなんだぞ?」
「……こうふく」
「そうだ、幸福だ。だがこんなのは序の口だ。これからお主の人生にはそのような幸福がたくさん訪れるのだからな」
そこでノーチェから少し体を離したルビアは小さな少女の顔をジッと見つめた。同じ色を宿した2つの視線が交差する。
「その生の始まりにどのような思惑があろうとも私はお主が生まれてきたことを祝福する。そしてお主自身がこの世に生まれてきたことに喜びを感じられるように、私がお主を幸せにしてやる、ノーチェ」
「ぁ……」
小さく開いた口から漏れ出した、消えゆくような声。それは少しだけ目を見開き、どこか呆然としたような雰囲気を醸し出す少女から発せられたものだ。
「まずはお主を大魔導士にしてやろう。もちろん簡単なことではないが、心配する必要もない。何せお主には偉大なる大魔導士ルビア・ヘリオスコープと同じ血が流れているのだからな。必ず大成するだろう」
強引ながらも、その強気な態度と強い言葉はノーチェの心を力強く揺さぶる。
だがその時、不意にルビアが纏う雰囲気が僅かに変化した。
「そしていつかは――」
そこまで口にしたはいいもののルビアは最後までその言葉を続けることができなかった。ハッとした表情を浮かべた彼女は頭を振ると代わりの言葉を紡いだ。
「――いや、これはノーチェが自分の意思で決めることだな」
そう締めくくったルビアの表情はどこか寂しげだった。そんな雰囲気の変化に小さな少女は幼いながらに反応を示す。どうにかしたいと思ってしまう。
だが未成熟な彼女には解決策を導き出すことはできなかった。
「……オリジナル」
ただ呼び掛けることしかできなかったのだ。しかし、その行為によってルビアの纏っていた雰囲気は鳴りを潜めることになる。
「なあ、ノーチェよ。その呼び方はやめにしよう。これから共に生活していく以上、オリジナルなどと呼ばれてしまっては息が詰まって仕方がない」
「……やめる?」
「まるで私の付属品のような振る舞いをする必要はないということだ。大魔導士になるというのも選択の1つにすぎない。この先、何かやりたいことが見つかれば、それを優先すればいい」
ルビアはその顔にどこかもの寂しさをはらませつつも、優しげな表情でそう告げた。
「……なんてよぶ?」
「それもお主が決めていい。だが最初からいきなりというのも難しいだろう。だから、そうだな……呼び捨てでもいいし、“師匠”や“母”と呼んでくれても構わん。だが“婆”と呼ぶのはやめろ。なんなら“姉”でもいいくらいだ」
実年齢で言えば、最悪曾祖母と曾孫という年齢差になりかねないが、それだけはルビアが嫌がった。
そのうえでルビアはいくつかの選択肢を用意してノーチェへと提示する。これが小さな少女にとっての初めての決断だった。
「すぐに決めろとは言わん。悩んで悩んで悩み抜いて、ゆっくりと決めればいい」
そこでルビアは大きく欠伸をした。
「よし、もう寝よう。お主もゆっくりと休めよ、慣れない環境にいると人はすぐ疲れるからな。……それじゃあお休み、ノーチェ」
あっという間に寝入ってしまい、穏やかな寝息を立てるルビア。そんな彼女の顔をノーチェはジッと凝視している。
ノーチェの中では今はまだ言い表すことができない多くの感情が渦巻いているが、ただひとつだけ言い表せることもあった。
「……あたたかい」
果たしてそれがどこから生まれる“温かさ”であるかは理解できなかったが、ノーチェにとってその感覚は心地よいと言ってもよいほどのものであった。
「……おや、すみ――おねえさま」
初めての決断を下したノーチェはルビアの胸に縋りつき、その温もりに包まれながらゆっくりと瞼を下ろした。
◇◇◇
ある日から始まった、同じ遺伝子を持つ者同士での2人きりの日々は実に穏やかに過ぎていった。
その中で小さな少女は様々なことを学び、様々な知見を得た。それ相応の技能も身につけ、今ではルビアの助けを借りることなく生きていくことも可能であろう。
だが、それでも少女にとって“姉”との生活は何物にも代えられない至福そのものであった。どんな富、名声を得られようとも、“姉”と並んで静かに本を読むひとときにすら敵うことはない。
時には敷地内に忍び込んできた悪党を追い返したり、王宮魔導局からの依頼でちょっとした事件の解決に協力したりということもあったが、そんな些事は決して彼女たちの穏やかな生活を脅かすものでもないものだ。
そんな日々を過ごす中、彼女たちの共同生活が始まってから二桁に近い年月が経過しようとしていた。
「はぁ……食った食った。やはりお主の作ってくれたメシは美味い。特にこのオムレツが私は好きだな」
「お姉さまの作ってくださるオムレツには敵いませんよ」
「私のオムレツか……まあ、それほどでもあるがな」
何十年もまったく変わることのない容姿をしているルビアが小さな胸を張る。それを見て、ルビアよりも幾つか年上に見える少女がクスっと微笑んだ。
少女――ノーチェにとっては姉が記念日になるといつも作ってくれる黒いオムレツが至高のご馳走なのだ。
「この間フォルテューヌさんから頂いたお茶菓子がありますが、今お出ししましょうか?」
「ん……それはいいな。用意してくれ」
「わかりました」
手際よくルビアの好みの紅茶と茶菓子を用意したノーチェは、まるで給仕係のような洗練された仕草でそれらをルビアの前に出す。
「おぉ、これか。まったくフォルテューヌめ、最高のセンスじゃないか」
自分の好みの甘味が登場したことでルビアはすっかりとご満悦だ。そんな彼女の背後からすっかりとスイッチが切れてしまった様子のノーチェが覆いかぶさるように抱き着く。
「おっと……甘えん坊だな」
「今日もお姉さまのためにたくさん働きましたから。しばらく、こうしていても構いませんか?」
「私とお主は家族だ、これくらいはなから遠慮する必要はない」
「はい。ではお言葉に甘えさせてもらいますね」
ノーチェが抱きしめる力を強めると、ルビアの頭の上に彼女自身にはない“大きなもの”が伸し掛かった。
その感覚にルビアは過ぎ去っていった年月に思いを馳せる。
「なぁ、ノーチェよ」
「はい、なんでしょうお姉さま」
「お主、不老にはならんのか? お主はこの偉大なる私の才能を受け継ぎ、この偉大なる私が直々に指導している。加えて世界一の努力家だ。とっくにそれだけの知識と技量は身につけている大魔導士といっても過言ではない」
――これからも永き時の中で自分と共に生きてほしい。
あくまでノーチェの自由意思を尊重しているルビアはそんな言葉を紡ぐことができなかった。いつか巣立たせるべきであり、自分がノーチェを縛り付けてはならないと今でもルビアは信じ続けている。
「お姉様、もしかして寂しいんですか?」
「なっ、そういうわけでは……」
耳の先まで赤くしたルビアの心情をノーチェは正確に推し量ることができた。そしてそんな不安を解きほぐしてあげたいと心の底から願った。
「どうしてあたしが不老にならないと思いますか?」
「私は不老の……置いていかれることの辛さをよく言い聞かせてきた。お主は賢いからな。自然と終わりゆくものなら、それに委ねる方が良いと考えたのだろう」
「……お姉さまはバカです」
「なっ……!」
思わず振り返ったルビアは、どこか不満げな雰囲気を纏わせているノーチェに食って掛かろうとする。
「バカとはなんだ――」
「でもあたしはそれ以上の大馬鹿なんです。これ以上お姉さまに要らぬ心配を掛けたくはないので、あたしが今まで不老にならなかった本当の理由を教えてあげます」
ルビアの言葉を遮り、きっぱりとした口調でそう告げたノーチェが言葉を紡ぐ。
「鏡を見れば少し成長したお姉さまの姿を見られてお得だなと思いました。体が大きいとお姉さまのお世話をするのも楽ですし、何よりもお姉さまの温もりを全身で包み込むことができます」
「……は? それだけ、か」
「我ながら、実に立派な理由ですよね」
ふんす、と大きな胸を張るノーチェの言葉にルビアは唖然とする。
「あたしはどこに出しても恥ずかしくないくらいの姉煩悩なんです。姉煩悩グランプリなんてものがあれば賞という賞を総ナメしてしまいます」
一転して何を言っているんだと言わんばかりの呆れた視線でノーチェを見つめるルビア。どうやら成長の際にバカ弟子の影響も受けてしまっているようである。
「何を言いたいのかといいますと……あたしはずっとお姉さまのそばにいるということです。ずっと一緒にいたいと心の底から冀っているということなんです」
冗談を言っている様子などではなく、今のノーチェはルビアへ真摯に訴えかけていた。そんな少女の言葉を何年も共に生きてきたルビアは今さら疑うことなどない。
彼女はフッと表情を緩める。
「ああ、私は幸せ者だな」
気付けば、ルビアの内に巣食っていたもの寂しさはどこかへ消え去っていた。
穏やかな表情でノーチェの目を見つめる彼女は手を伸ばし、少女の頬に触れる。すると少女もまたその手に甘えるように自らの手を重ね、頬を擦り付け始めた。
その仕草に愛おしげな視線を向けていたルビアがそっと口を開く。
「私の元に来てくれて――ずっとそばにいてくれてありがとう、ノーチェ」
実に晴れやかな笑顔を顔一面に咲かせた彼女は未来への希望を言葉にして紡ぐ。
「これからもよろしく頼む」
最愛の人からの言葉に目を見開いていたノーチェはやがて目を細め、ふわりと微笑んだ。
「はい。ノーチェ・ヘリオスコープは末永くあなたと共に――」
この先何十、何百と時が経とうとも変わらず強く互いを求め合う2人の影が今――そっと重なり合った。