③
校舎の外に出てからも、ミツキは延々と泣き続けた。
帰り道の横断歩道で信号待ちしていたとき、ミツキが突然に口を開いた。
「トキヤ君……。ごめんなさい……」
「……」
「私、トキヤ君にすごい迷惑かけちゃった……」
ミツキが謝罪の言葉を口にするも、トキヤは一言も発さなかった。
彼女を無視したかったわけではない。
何と声を掛けて良いのか、彼にもわからなかったのだ。
「ねえ……。何で何も言ってくれないの?」
「……」
「トキヤ君に嫌われちゃったら、私……」
歩行者用の信号が青になり、二人は足を進めた。
ところが、横断歩道を渡り切る前にミツキが途中で足を止めてしまう。
「夏川?」
「……」
やがて青信号が点滅し、歩行者用の信号が赤に変わった。
幸い、周囲に信号待ちしている車はない。
しかし彼女の行動が危険であることに変わりなかった。
トキヤの視界に大型のトラックが映り、彼はミツキの手を強めに引っ張った。
しかしミツキが逆方向に力を入れ、その場に踏み止まろうとする。
「おい、夏川!」
トラックは、それなりの距離まで近付いている。
このままでは本当に危ない。
「もう良いよ……」
「ああ?」
「もう……、全部がどうでも良くなっちゃった……」
そう言ってミツキは、車道のド真ん中で屈み込んだ。
トラックのクラクションが鳴り響き、トキヤは焦った。
トラックは少しずつ減速している。
しかし人様に迷惑は掛けまいと、彼はミツキをお姫様抱っこして素早く歩道まで運んだ。
ドラマみたくギリギリとはならなかったが、彼の心臓は、かなり高鳴っている。
「夏川。お前いい加減に――――」
すると彼女の顔に少しだけ笑顔が戻った。
「えへへ……。トキヤ君にお姫様抱っこされちゃった」
「――てめっ、夏川‼」
「ごめん、嘘……。でも、すごく嬉しかった」
ミツキは地面に下ろされたあとも、しばらくトキヤに抱き付いていた。
元が中途半端だったこともあり、ミツキのメイクは涙で完全に剥がれ落ちていた。
それでも素材が良いせいで素顔が、とても可愛い。
トキヤは逆に、それがムカついた。
トキヤは、何でこんな面倒くさい女に惚れちまったのか……と、自分でも不思議に思った。
するとミツキがハッとした表情を浮かべる。
「え――――今、何て?」
「……?」
「トキヤ君。何でこんな女に惚れちまったんだとか、どうとかって……」
「っ――⁉」
(ヤベっ……。声に出てた……)
トキヤは平然を装い、ミツキを無視して颯爽と歩き出した。
ミツキが慌てて彼の背中を追い掛ける。
「どうしたのトキヤ君? 顔が真っ赤だよ?」
「うるせえ。話し掛けんな」
彼の冷たい態度が照れ隠しであることは、ミツキにもわかった。
すると彼女の中に存在する小悪魔的な要素が、彼にイタズラを仕掛けるよう働き掛けた。
「そっか~。やっとトキヤ君とお付き合い出来ると思ったんだけどな~」
「……」
「ってことは、私は将来トキヤ君以外の人と結婚することになるのかな?」
「っ――⁉」
「そしてゆくゆくは、その人との子どもを――――」
「だぁぁ~~っ‼」
その瞬間、トキヤはミツキの手を引っ掴み、彼女を人気のない路地裏へと連れ込んだ。
ミツキは路地裏の隅でトキヤに壁ドンされ、憧れのシチュエーションに目を輝かせる。
「てめえは、さっきから何がしてえんだ? 人を煽るようなことばっか抜かしやがって」
「やっぱり、その……。私も女の子だから……。白馬の王子様に憧れてるっていうか……。お姫様みたいに大切に扱われたいっていうか……」
ミツキは体をモジモジさせながら彼に言った。
「昨日のことをもう忘れたか? 俺も含め、大抵の男子は〝そういう〟ことしか頭にねえ。大事にされるどころか、めちゃめちゃにされっぞ」
「でもトキヤ君は! 私のこと、ちゃんと大事にしようとしてくれてた! 私だって、それくらいわかるよ!」
「っ――‼」
「だからトキヤ君となら……。私は〝赤ずきんちゃん〟でも悪くないっていうか……」
ミツキが普段にも増して大胆な発言をする。
ここまで言われて黙っていられるほど、トキヤも大人ではない。
「じゃあ今から俺ん家来い」
「え?」
「今なら家に誰もいない」
トキヤはミツキを連れて自宅へと向かった。
ミツキは抵抗することなくトキヤに付いて行くが、道中で彼が怒っていることに気付いた。
「トキヤ君。何で怒ってるの?」
「……別に」
「嘘。さっきは普通に怒ってたけど、今は本気で怒ってる」
トキヤは、その場に足を止め、ミツキを正面から怒鳴り付けた。
「てめえは好きな男になら何でも許すのか⁉ 何でもっと自分を大切にしない⁉」
彼の言葉にミツキは口を閉ざす。
「物事には順序ってモンがあんだろ⁉ 付き合ってもいねえヤリモクの男子に体を許すバカがどこにいんだ⁉」
トキヤが言っていることは実に正論だ。
男女間で既成事実を作ることが、目的を達成するための有効的な手段であることは、彼も否定しない。
しかし二人は、お互いが両想いだと既に察している。
彼女が事を急く理由は、どこにもないのだ。
「だから、それは相手がトキヤ君だからであって……。私だって好きな人になら何でも許すわけじゃないよ」
最初は、ただの第一印象だった。
初めて抱いた好きという感情の赴くまま、ミツキはトキヤの背中を追い掛けた。
しかしゼロに近い距離で何か月も一緒に過ごしていれば、その人の人となりは、それなりに見えてくるものだ。
知れば知るほど、ミツキは彼のことが、より好きになっていた。
彼女は決して最初の勢いだけで後先考えず行動しているわけではない。
ミツキの行動は全て彼に対する信頼の上に成り立っている。
「お前は俺を買い被り過ぎだ。俺だって……、女とヤることしか頭にねぇ……。事実、てめえは俺に押し倒されただろう?」
「でも、いきなりじゃなかったもん! あれは、そういう雰囲気だったじゃん!」
ミツキは決して自分の意見を曲げようとしなかった。
やがて二人は険悪な雰囲気のまま、トキヤの家に到着した。
もはや、お互い引くに引けない状態となっていた。
トキヤが玄関の扉を開け、家の中に入る。
ミツキも今から戦いに挑むつもりで彼のあとに続いた。
「あら、トキヤ。貴方、学校は? それに夏川ちゃんまで……」
二人が家に入ると、いつもは趣味の教室に出掛けているはずの母の姿があった。
「いや、今日学校で色々あって……。っていうか、母さん。何で居んの?」
「先生が突然、体調を崩しちゃって。途中でお開きになったのよ。 ……もしかして二人で、いかがわしいことでも考えてた?」
「「っ――⁉」」
二人が高速で首を左右に振り、母はクスクスと微笑んだ。
「仲が良いわね、二人とも。しばらく家を留守にしてようかしら?」
「……変な気は遣わんで良い。俺ら、またすぐ出掛けるから」
トキヤは急遽、予定を変更し、ミツキと外で話し合うことにした。
「夏川は、ここで待ってろ。すぐに着替えてくっから」
「……うん」
トキヤが階段で二階に上がり、ミツキと母が二人きりになった。
「お義母さま。先日は突然のおいとま、大変失礼しました」
ミツキが頭を下げ、母が笑顔を浮かべる。
「良いのよ。どうせウチの息子が何かやらかしたんでしょ? こうして夏川ちゃんと、また会えて、お義母さん、すごく嬉しいわ」
ミツキの心は母の優しい笑顔に、すっかりと癒された。
「そんなことありません。私、トキヤ君に迷惑かけっぱなしで……。さっきも、すごく怒られちゃいました」
「あら……。あの子が女の子相手に怒るなんて珍しいわね。それだけ貴方のことが大切だってことよ」
何も知らないはずの母が、一目で二人の現状を見抜いてしまった。
母は、こう見えてかなり頭が良い。
勉強が出来るという意味合いではなく、人として知恵が回るタイプだ。
そして母は人生の先輩としてミツキにアドバイスを送った。
「夏川ちゃん。夫婦円満の秘訣って知ってる?」
突然の質問に、ミツキは答えを出し渋った。
「それはね。お互いが愛され続けるための努力をすることよ」
「……」
「トキヤは昔から自然と周りから愛される人間だった。それは、あの子が人様のために頑張れる人間だったから……。だから夏川ちゃんも、あの子のために頑張り続ける限り、あの子も貴方を愛し続けてくれるはずだわ」
相手が頑張る姿を見て、自分もまた、相手のために頑張りたいと思う。
そして自分の頑張る姿を見て、相手も自分のために頑張ろうと努力する。
どちらが努力を怠っても成り立たない男女の関係性……。
それが恋人であり、延いては夫婦だ。
「あの子は私には勿体ないくらい、とても良い息子なの。だから夏川ちゃんの気持ちが、私にも、よ~くわかる。昨日まで知っていたトキヤと今日のトキヤ……。貴方は、どっちのあの子が好き?」
母の言葉を聞いて、ミツキの目から自然と涙が溢れ出た。
ミツキは、初めて会ったときからトキヤのことが好きだった。
しかし今は以前よりも、ずっと彼のことが好きだ。
ミツキは、その場に泣き崩れ、自分の心境を母に漏らした。
「お義母さま……。私は今日、頑張ることを諦めようとしたんです……。本当の私は、とても面倒くさい女で……。何よりトキヤ君に失望されたと思ったから……」
「……」
「でもトキヤ君は……。そんな私にも、とても親身になってくれて……。私、もう……。自分でもどうすれば良いのかわからなくて……、気が変になりそうなんです……」
ミツキは、自分の気持ちをそれ以上言葉にすることが出来なかった。
母がミツキに寄り添い、彼女を「よしよし」と慰める。
「……」
二階から二人の会話を聞いていたトキヤは、ミツキが泣き止むまで、その場に待機していた。
それが今の彼に出来る精一杯の〝努力〟だ。
「はぁ~……」
(マジで面倒くせぇ女……)
トキヤ廊下の隅で膝を抱え、母の助けに感謝を捧げた。
しばらくして、ミツキがようやく落ち着きを取り戻し、トキヤが二人の前に姿を見せた。
「トキヤ。アンタ、その格好……」
トキヤはライダースーツに似たような服装で両手にヘルメットを持っていた。
「悪い、母さん。今日だけは見逃してくれ」
「……しょうがないわね。今日のことは、お父さんに黙っとくわ」
母が腰に両手を当てながら溜め息を吐いた。
「行くぞ、夏川」
トキヤはミツキにヘルメットを渡し、一足先に玄関の外に出た。
ガレージの奥から単車を引っ張り出し、さっそく準備に取り掛かる。
「トキヤ君。これって……」
「他の奴には黙っとけよ。免許は十六から取れる」
「携帯はダメなのに、よくお義父さんが許してくれたね?」
「無免で勝手に乗り回されるよりはマシだってさ。その代わり、高校を卒業するまで使うのを禁止された」
トキヤが単車のエンジンを始動させ、アクセルを二~三回ほど捻った。
シートに跨った彼が後ろに座るようミツキに指示を出す。
「危ねえから、ちゃんと捕まってろ。慣れるまで結構、怖えぞ」
「……」
(心配してくれてるんだ。トキヤ君。やっぱり優しい)
ミツキはトキヤの腰に腕を回し、彼の背中に体を密着させた。
すると玄関の扉から母が姿を現す。
「二人とも、事故には気を付けて。それとお父さんが帰ってくる前には、ちゃんと戻って来なさい」
「ああ、わかってる。それじゃ、ちょっくら出掛けて来る」
トキヤは単車を発進させ、ミツキと初のツーリングに出掛けた。
彼が向かった先は、街から少し離れた河川敷である。