5.コリンナの付添人
平民であるコリンナが王女になるには、相当な努力が必要となる。ルシアンとクリスティーナの婚約が白紙になった翌日には、彼女に正式な講師がつけられた。マナーはもちろん、この国の歴史や文化、諸外国との関係性まで、数多くを学ばなければならない。
それに第三王子の婚約者をいつまでも空席にしておくわけにはいかない。コリンナには早急にそれを名乗るだけの教養を身につけさせなければならないのだ。
急に厳しくなった教育にコリンナはたった一日で音を上げた。
「朝から晩まで勉強しかしていないわ!」
叫ぶコリンナを侍女は懸命に宥める。
「そうはおっしゃられましても、王女には必要なことでございますので」
その言葉にコリンナはハッとする。
「そうよ。本物のお姫様はどうしたの?ちっとも会いに来てくれなくなったわ」
しかし、本物のプリンセスが誰を指すのか、侍女にはわからない。
「あの、失礼ですが、どちら様のことでしょうか」
「決まってるじゃない、クリスティーナお姉様よ。前は毎日来てくれたのに、どうして来ないの?」
ひょっとしてご病気?とコリンナは心配しているが、侍女にはその発言が信じられなかった。
クリスティーナから第三王子の婚約者という立場を奪い取ったのはコリンナ自身なのだ。そして彼女は奪っただけでは飽き足らず、毎日登城し、自らに仕えよ、と言っている。
オルコット伯が一人娘のクリスティーナを溺愛していることは、社交界では有名な話だった。そうでなければ貴族令嬢が単身、外国へ留学するなど、できるわけがない。彼女を溺愛するオルコット伯は、承諾してくれなければ勝手に行きます、と言い放ったクリスティーナにあっさり白旗を上げ、留学を許可したのだ。
半ば強引に決められたルシアンとの婚約。それでも互いに甘い視線を交わすようになったふたりに、オルコット伯は安堵と、少しばかりの哀愁を周囲に漏らしていた。それが、また、王家の都合により婚約はあっさり破棄され、ルシアンに思いを寄せ始めていたクリスティーナは少なからず傷ついたであろう。
王家の官僚の派遣を断り、オルコット家単独で領地を治めようと必死に働いていることからも、彼の怒りが垣間見えるようだった。
そんなオルコット伯に再び、娘を聖女の付添人として差し出せなど、絶対に言い出せることではない。
しかし、こういった貴族の事情など、平民であったコリンナが知るはずもないし、そのような面倒事も含めて教育を始めたところだ。一介の侍女が勝手に語って聞かせてもいい内容ではなく、彼女は、どうされておられるのでしょうね、と曖昧な返事を返すしかなかった。
そんな侍女の努力も虚しく、コリンナは面会に来たルシアンにクリスティーナを所望したのだ。
「クリスティーナお姉様に会いたいんです。お願いです、会わせてください」
「しかしクリスティーナは、もう」
言いよどむルシアンにコリンナはついに泣き出した。
「お姉様のようになりたいと思って頑張ってきたんです。お姉様はわたしの憧れであり、目標なんです」
コリンナの講師陣からはあまりいい報告は来ていない。講義に身が入っていなかったり、嫌がって癇癪を起したりしているという。
「恐れながら、クリスティーナ様がいらした頃は、こんなことはありませんでした」
以前からコリンナにつけていた講師も首をかしげており、彼女は本当にクリスティーナのようになりたくて、懸命に努力をしていたのかもしれない。
ルシアンは、コリンナの希望を叶えるために、クリスティーナとの婚約を破棄した。いずれ始まるであろう兄の治世の為だと、この決定を割り切っていたルシアン。
それでも、抜け殻のようになってしまったクリスティーナを目の当たりにした彼は、彼女を抱き寄せ、ありったけの甘い言葉と口づけでその哀しみを溶かしてやりたいという激情を抱くほど、惹かれていた。
正直、ルシアンはクリスティーナが目の前から消えてくれてほっとしていたのだ。あの哀しみに満ちた瞳を向けられたら、国も立場も、そのすべてを忘れて彼女を求めてしまうとわかっていた。
婚約破棄をしたあの日、何気なく提案したクリスティーナとの会話であったが、オルコット伯が断ってくれてよかったと思う。もしふたりきりになったら、ルシアンは間違いなく彼女を自分のものにしていただろう。そうなったら彼女は誰とも婚姻できず、かといって第三王子では側妃も許されず、愛人として生きる以外の道はなかったのだ。
クリスティーナを心から愛してしまったルシアンには、彼女にそんな道を歩ませることはできない。だからといって彼女を手に入れるであろう男を手放しで歓迎する自信もなく、ルシアンもまた、思い悩む毎日を過ごしていたのであった。
そんな状態でコリンナからのクリスティーナ召集の依頼が入った。冗談ではない、と叫びだしたい半面、またクリスティーナに逢えるという悦びが湧き上がってしまった自分はなんと愚かなのだろうか。
これ以上、彼女を苦しめてはならない、と懸命に自身に言い聞かせるルシアンであった。
雨上がりの王宮の庭園は、花の香りが強く、むせかえるほどであった。
勝手知ったる道のりを離宮に向かって進むのはクリスティーナ・オルコット。つい最近まで第三王子ルシアンの婚約者であった女性だ。彼らの婚約は破棄され、今は互いに婚約者のいない状態となった。もっともルシアンのほうにはすでに内定している相手がいる。
「クリスティーナお姉様っ!」
離宮に姿を現したクリスティーナに飛びついて大声で泣いているのが、ルシアンの新たな婚約者となる予定の令嬢、聖女コリンナであった。
「コリンナ様、お久しゅうございます」
落ち着いた口調で対応するクリスティーナとは対照的に、コリンナは涙を隠しもしない。
「どうして、急にいなくなってしまったの?」
クリスティーナにとってコリンナは愛するルシアンを奪った女性だ。
そう、クリスティーナもまた、ルシアンを心から愛していたのだ。最初は政略でしかなかった関係も、ルシアンの人柄や誠実さに惹かれ、この人の妻になりたい、と思うようになったクリスティーナ。しかし、コリンナが王女を望んだことで彼はコリンナと婚姻することが決まってしまった。
最後に見た彼はひどく辛そうな顔をしていて、表情を表に出してはならない王族とは思えなかった。それがまた彼の誠実さを表しているようで、貴族令嬢としての矜持でその場で涙は見せなかったものの、彼の執務室を出てすぐクリスティーナはその場で泣き崩れたのであった。
「わたし、嫌われちゃったんでしょうか?悪いところがあったのなら改めます、だから嫌いにならないで」
そういってクリスティーナに縋り付いて泣くコリンナを、クリスティーナは突き放すことができなかった。
彼女は、聖女ではあるがそもそも平民なのだ。親兄弟とは自由に面会ができるとはいえ、住まいは離され、窮屈なドレスを身にまとい、離宮の小さな屋敷での生活を余儀なくされている。
彼女が背負わされた様々な理不尽に比べれば、王女になりたいという彼女の望みはひどくささやかなものに思える。
「すみません、少し領地のほうで問題が起きましたので、王都を不在にしておりました」
クリスティーナは文官から与えられた言い訳をそのまま引用した。
聖女の不安はどこに影響が出るかわからない。だから彼女に負担にならないような言い訳が必要だった。クリスティーナへの登城要請と共に、聖女に対する受け答えの指南書が添えられていた。そこには、ルシアンとクリスティーナの婚約がコリンナの希望により解消になったことは、絶対に口にしないよう明記されていた。
もちろんクリスティーナもそれを告げる気はなかった。コリンナが王女を望んだ以上はそうするしかないし、こうなることはコリンナもわかっていたはずだ。それを敢えて引き合いに出し、お前のせいで婚約を破棄されたのだ、と言い募るなど、淑女のすることではない。
コリンナの良き手本としての淑女、それがクリスティーナに与えられた新たな役割である。彼女はそれを演じるために、王宮へ戻ってきたのであった。
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