4.聖女の出現と婚約破棄
アルグレンと他の国との最も大きな違いは『聖女』の存在である。
聖女は様々な奇跡を起こすことができる。荒れ狂う嵐を鎮めたり、蔓延する病を治めたり、人間には到底成し得ないことであり、奇跡と呼ぶしかない事象であった。
聖女はアルグレンにだけ現れ、それは国際的にも認められた存在である。しかし前回の聖女の出現から、かれこれ三百年以上は経過しており、人々はもはや伝承程度にしかとらえていなかった。
その聖女が突然、現れたのであった。
それは平民の少女で、名をコリンナと言った。彼女は幼いころ、両親と死に別れている。引き取ったのは両親の兄夫婦であったが、彼らは、生さぬ仲である彼女を実子と同様に扱い、分け隔てなく育てた。
コリンナは癒しの力に長けた聖女であった。しかし、比較的裕福だった兄夫婦は、病気や怪我をしても医師にかかるだけの財力を持っていたため、コリンナの力が発揮される機会はなかった。それでも聖女というのは存在するだけで何らかの奇跡を起こすものであり、コリンナの住む小さな村は説明のつかない様々な奇跡に溢れていた。
そして、国家主導による調査の結果、コリンナが聖女である、と判明したのであった。
聖女はアルグレンにとって、いや、世界的にも大変に重要な人物である。彼女はさっそくアルグレンの王宮へと住まいを移し、その身を保護されることになった。
小さな村でのびのびと生活していた彼女にとって、王宮は気づまりであろうと配慮した国王は、彼女に離宮を用意した。離宮は奥まった場所に位置しており、限られた人物しか出入りできない。
マナーに厳しい社交界にいきなりコリンナを放り込むのではなく、離宮でのゆったりとした生活を送らせつつ、必要な作法を学び、頃合いを見計らって社交界へデビューさせると決まった。
とはいえ、三百年ぶりの聖女の出現に人々は浮き足立っていた。その熱気に押されるように、コリンナの顔見せだけは早急に執り行うこととなった。
平民であったコリンナが急にドレスを着せられ、貴族や国民の前に姿を現すなど、黙って立っているだけでいいとしてもそのハードルは高い。そこで彼女の付添人として、第三王子の婚約者でもあるクリスティーナがその役を担うこととなった。
クリスティーナはコリンナへの挨拶の為、ルシアンと共に彼女の住む離宮へと向かった。
そこは、世界的な地位を持つ聖女にとってはいささか規模が小さく、こじんまりとした建物であったが、コリンナ自身はいたく気に入っているらしい。
「お初にお目にかかります。この度、コリンナ様の付添人を申し付かりました、クリスティーナ・オルコットでございます」
美しいお辞儀と微笑みを添えて挨拶をするクリスティーナにコリンナは呆けたように口を開けていたが、後ろに立つメイドに耳打ちされ、慌てて返事をした。
「コリンナです、よろしくお願いしますっ!」
彼女はクリスティーナより一つ年下であったが、実年齢よりはずっと幼く見え、それが彼女の愛らしさを引き立てていた。
「わたくしのことは、どうぞ、クリスティーナとお呼びください。仲良くして頂けたら嬉しいです」
堅苦しくならないように気を付けて話しかけたクリスティーナにコリンナは目を輝かせている。
「クリスティーナさんはお姫様なのですか?わたし、初めて見ました」
そう言われてクリスティーナは返事に困る。第三王子であるルシアンは間違いなくプリンスだ、その婚約者の自分も、平民の彼女にとってはプリンセスになるのだろう。
しかしルシアンはクリスティーナと結婚し、オルコットを名乗ることになるだろう。そうなると彼はプリンスではなくなり、自分もそうなるのだが、そういった貴族特有の小難しい事情を、今、コリンナに説明する必要はないと判断し、そうですよ、とだけ応じた。
クリスティーナの返事にコリンナは破顔する。
「お姫様とお友達になれるなんて。わたし、聖女で本当によかったぁ」
その屈託のない笑顔と物言いに、一同は声をあげて笑ったのであった。
今まではイルヴァの為に登城していたクリスティーナであったが、今はコリンナの為に登城している。
所作の美しいクリスティーナと過ごすことでコリンナの意識にも変化が生じ、礼儀作法を学びたいと自ら志願した。とはいえ、今すぐ、貴族令嬢につけるマナー講師を招集するには時期尚早である為、まずはクリスティーナが簡単に作法を教えることになった。
「ようこそお越しくださいました」
離宮に現れたクリスティーナとルシアンを礼儀正しくお辞儀で出迎えたコリンナ。今日は男性を交えたお茶会のマナーをおさらいしようと、ルシアンも参加している。
「本日はお招きくださいまして、ありがとうございます」
そう応じるルシアンの隣でクリスティーナもお辞儀をする。
「今日は美味しいケーキを準備しました、皆さんで食べましょう」
貴族なら、本日は甘味をご用意しました、皆で楽しみましょう、と言うべきところではあるが、ルシアンもクリスティーナも、コリンナなりに考えた丁寧な言い回しを否定するつもりはない。
「それはいいですね」
「楽しみですわ」
ふたりはにっこりと微笑んでコリンナに勧められるままにテーブルについた。
「しっかりとマナーを学んでおられるのですね」
ルシアンの言葉にコリンナは満面の笑みをみせる。
「はい。難しいこともたくさんありますけど、頑張ってクリスティーナお姉様の真似をしています」
近頃のコリンナはクリスティーナのことをお姉様と呼んでいた。
確かにクリスティーナのほうがひとつ年上なのだからそれは間違っていないのだけれども、聖女のコリンナからそう呼ばれることは、気恥ずかしくもあり、光栄なことでもあった。
「まぁ大変。わたくしが誤ってしまったら、コリンナ様も間違って覚えてしまわれるのね」
照れも手伝って、わざとおどけたように言うクリスティーナに、ルシアンもコリンナも声を上げて笑った。
「ティナが間違えるところなんて見たことないな」
「そうです、お姉様は完璧です!」
それからお茶とケーキを楽しみ、聖女の開くお茶会としてはお粗末な内容だったとしても、三人にとっては間違いなく楽しいひと時となった。
コリンナが離宮に移ってからちょうどひと月後、聖女コリンナのお披露目が行われた。
大勢からのジロジロとした不躾な視線に晒され、コリンナはひどく緊張していた。しかし彼女の隣には常にクリスティーナが付き添い、その存在はコリンナにとって安心そのものであった。
恙なくお披露目を済ませたコリンナに、国王は、なにかご褒美を用意しよう、と言った。
それは、可愛い孫娘になにかを買ってやる好々爺程度の発言であったが、コリンナの望みは居並ぶ一同を凍り付かせた。
「わたし、お姫様になりたいんです」
彼女は聖女で王族と婚姻することはなんら不思議なことではない。しかし、彼女にプリンセスの座を与えられる未婚の男性はひとりしかいない。
コリンナの発言を受け、全員の視線がその人物に移った。それを向けられた彼も困惑している。そう、それは第三王子、ルシアンであったのだ。
今現在、ルシアンはオルコット伯爵令嬢のクリスティーナと婚約をしており、いずれ、彼女の実家であるオルコット家に婿入りすることが決まっている。そのため、王族直轄地の隣領はすでにオルコット領に組み込まれており、その執務は、表向きはオルコット伯が、実際にはルシアンが担っていた。
これらのことを踏まえた結果、社交界の人々は、第三王子とオルコット伯爵令嬢の婚約は本決まりで、余程のことがない限り覆りはしないだろう、とみていた。
その『余程のこと』が起こってしまったのだ。
聖女コリンナは王女の座を望んでいる。もちろん王族でない彼女は、正式な意味での王女にはなれない。同じく王族でない王太子妃のイルヴァも、王女ではないが通称として国民からはそう呼ばれており、コリンナも彼女と同じ扱いにすることは可能だ。
彼女にそれを用意するには、王族男性の配偶者として迎えるしかない。
王太子であるスコットはすでに婚姻している。第二王子は、婚姻はまだしていないが、その相手は隣国の王女で、この婚約を破棄するなど国際問題に発展しかねない。
こうなるとコリンナと婚姻が可能なのは第三王子のルシアンしかいなくなる。ルシアンとクリスティーナの婚約は、王太子妃関連の人事という政略で結ばれたに過ぎない。聖女政策の為にこれを破棄することはなんら問題はなかった。
王宮にあるルシアンの執務室に呼び出されたオルコット伯爵とその令嬢は、婚約破棄の書類に粛々とサインをした。
慰謝料には王族直轄地があてがわれた。オルコット伯では手に余るだろうと官僚を派遣するつもりでいたルシアンであったが、彼はそれを固辞した。
政略で、婚約を結ばされたり、白紙にされたりすることは、貴族にとって珍しいことではない。
だとしても、可愛いひとり娘が傷つけられ、その代償に与えられた土地を管理できないなど、ひとりの男の矜持として言いたくはなかった。
「お心遣いには感謝しますが、今後はオルコット家で管理、運営いたします」
固い声と表情で言うオルコット伯の隣には、初めてルシアンと対面したときと同じく、人形のようにかしこまっているクリスティーナが座っている。
ルシアンは躊躇いながらも発言した。
「できれば、ティナ、いや、クリスティーナ嬢と話をさせてもらえないだろうか」
婚約者でない彼はもう、クリスティーナを愛称で呼ぶことはできない。呼び名を訂正した彼に、彼女はほんの一瞬だけ目を見開き、それからまた人形に戻った。
「申し訳ございませんが、後の予定が詰まっておりますので」
ともすれば、第三王子に断りを入れたいオルコット伯の詭弁のようにも聞こえただろうが、実際に、彼には王族直轄地を譲り受ける為の事務手続きがあったし、クリスティーナにもイルヴァの新たな話し相手への引継ぎがあった。
そうして処理を終えたオルコット伯とその令嬢は夕方近くになってようやく下城したのであった。
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