3.クリスティーナとルシアン
少しのハプニングはあったものの、イルヴァは無事、スコットと婚姻し、アルグレン王太子妃となった。
クリスティーナの作った人選リストを確認した王妃はこれに太鼓判を押し、イルヴァは毎日、多くの貴族と面会をし、交流を深めている。その一方で、アルグレンの歴史や伝統の教育も受けており、彼女は多忙な日々を送っていた。
クリスティーナはそのすべてに立ち会っている。アルグレンの読み書きに全く問題のないイルヴァではあったが、細かいニュアンスが伝わりにくい場面もあって、そんなときはクリスティーナがラティラの言葉で注釈を入れられるようにする為だ。
ラティラの言葉はアルグレンのそれとは文法が異なるため、アルグレンの人にとって難しいものとされていて、それを自在に操るクリスティーナの博識ぶりに驚く貴族も多かった。
「彼の国の言葉をここまで習得している令嬢を、わたしは他に知りません」
「他の言語も習得なさっていると聞きました」
イルヴァに面会に来たはずの貴族から思いがけず賞賛の声を投げかけられ、クリスティーナはくすぐったい気持ちになりながらも応じる。
「オルコット領にも小さいながら港がございますので、外国の方と接する機会が多く、自然と身に付きましたの」
そんなやり取りにいつの間にか巨大な尾ひれがついて社交界では、オルコット伯爵令嬢は才女であり、第三王子のお相手として申し分のない令嬢だ、ということになってしまった。
これにはさすがに閉口したクリスティーナであったが、ルシアンからまた、
「社交界は勝手なことを言うものだと教えたはずですが?」
と言われてはそれ以上言い募ることもできず、悶々としながらも黙るしかなかった。
その日も夜遅くまで講義があり、それに付き合っていたクリスティーナが帰宅を考える頃にはすっかり周囲が暗くなってしまっていた。
「遅くまでごめんなさいね、貴女のお部屋は今、用意させているわ」
そう言うイルヴァにクリスティーナは辞退を申し出た。
「申し訳ございません、今日はどうしても帰らなければなりません。明日、早朝から商談がありまして、その通訳をお父様から頼まれておりますので」
「駄目よ。クリスティーナは第三王子の婚約者なのだから、誰かに命を狙われることだってあるかもしれないわ。危険すぎます」
この突拍子もない発想に、クリスティーナは思わず声を上げて笑ってしまった。
「ふふふ。もしそうなっても王家への損失はございませんもの。どうぞお気になさらず」
確かに、クリスティーナほどの語学力を持つ令嬢はそうはいないだろうが、通訳なら男性でもできる。それがいわゆる女子トークだと男性に訳させるのはいささか問題があるが、お気楽な学生でもあるまいし、王太子妃のイルヴァは下世話な会話を楽しんだりはしない。
縋りつかんばかりに引き留めるイルヴァを振り切って、クリスティーナは下城の為、馬車止めへと向かった。
すっかり日が落ちてから馬車の準備を願い出る令嬢に、係りの人間も驚いている。
「失礼ですが、これからお帰りですか?」
「はい、オルコット邸までお願いできますでしょうか」
基本的に夜道は暗く危険だ。どうしても移動しなければならないときは、足の速い馬と馬車を用意し、その周囲を護衛で固めて移動する。それは常々、穏やかな馬車旅しか経験していない女性には厳しいものであった。
「ですが、ご婦人をお乗せできるような馬車ではありません」
係りの男性は渋っているが今夜のクリスティーナはどうしても自宅へ帰らなければならない。
「旅慣れていますから問題ありませんわ。どうぞ、支度をお願いします」
クリスティーナの言葉に男性はどうしたものかと悩んでいるようだったが、そのタイミングでこちらに駆けてくる足音が聞こえてきた。
「殿下!」
係の男性はクリスティーナの背後に向かって声を上げる。それはルシアンであった。
「クリスティーナ嬢、今から帰ると聞きましたが」
「はい。明朝、商談がございまして、通訳をせねばなりませんので」
「だとしても、こんな時間に貴女の下城を許可するわけにはいきません」
その言葉にクリスティーナは驚いてしまう。彼も暗殺を危惧しているのだろうか。なんの力もない伯爵令嬢を殺したところで、大した利もないだろうに、王族の思考というのはよくわからない。
とは言え、人目に付く場所で第三王子と言い争ってはならないと判断し、ひとまずその場は引くことにした。
ルシアンのエスコートで案内された部屋に入ると、そこにはすでに夕食が整えられていた。彼は最初からクリスティーナを城に留め置くつもりで、その交渉が決裂するなど想定すらしていなかったようだ。確かにルシアンは第三王子で、伯爵令嬢のクリスティーナが異を唱えてはならない相手ではあるが、この手際の良さに少しばかり呆れていた。
「せっかくですから食事を共にと思い、用意させました」
王族らしく爽やかな笑顔で言い放つルシアンになんだか胡散臭いものを感じつつも、クリスティーナは礼を言い、そのテーブルについた。
「明日の早朝にお送りしますから、今夜は大人しく王宮でお過ごしください」
ルシアンはそう言うが、クリスティーナは彼の心配の意味が理解できない。
「お心遣いには感謝いたしますが、まさか殿下まで暗殺を気にされておられるのですか?」
「可能性はゼロとは言い切れませんね。貴女を通じてオルコット家は王族と近しくなるわけですから、それを良しと思わない人物ならあるいは」
どこぞの物語ではあるまいし、そのようなことが現実にあるとは思えなかった。クリスティーナは、小説を読むのは好きだが、それに夢見るほどのロマンチストではない。
そもそも、この縁談に否定的なオルコット側は、一度、断っているのだ。それを王太子妃の為にと強引に進めたのはスコットとルシアン本人で、少なからずその影響を受けるのは愉快なことではなかった。とはいえ、イルヴァの為に尽力すると決めたのはクリスティーナ自身なのだから、今更それに不満を漏らすのはフェアではない。
だから彼女は、ルシアンに不機嫌そうな顔をしながら、
「やはりわたくしの立場は話し相手にするべきだったと思いますわ」
と愚痴をいうのがせいぜいであった。
「まぁ、そうおっしゃらずに。縁あって婚約を結んだのですから、仲良くしましょう」
クリスティーナの態度にルシアンはくすくすと笑いながらも、そう言う。
「ルシアン殿下はよろしいのですか?こんな風に、王太子殿下の都合で決まった婚約なんて」
「それはそっくりそのままお返しします。クリスティーナ嬢こそ、王家の命令で仕方なく婚約されたのでしょう?」
そう言われたクリスティーナは若干胸を張り、自信たっぷりに応じる。
「わたくしはかまいませんわ、イルヴァ様の為ですもの」
「ずいぶんと親しくされておられるのですね」
「ラティラの学園でとても親切にして頂きました。身軽な学生の身分であったわたくしでさえ、異国で暮らすというのはそれ相応の困難がございましたわ。まして、イルヴァ様は王太子妃となられるのです。その心労はいかほどのものかと思いましたら、なにかお力になれることはないかと考えた結果です」
クリスティーナの力説にルシアンはうなずいた。
「それはわたしも同じです。わたしは心から兄上を尊敬しています。兄上の力になれるのならば、どんなことでもやれますよ」
こんな風に、ふたりの間には愛だの恋だのといったロマンスはなかったが、敬愛する人物の為と定めているところはそっくりで、つまり似た者同士のいいカップルであった。
それでも共に過ごす時間が長くなるにつれてお互いの中に愛情が生まれ、王太子の婚姻から1年が経過しようというころには、甘く見つめあう程度には意識し合う仲にまで発展していた。
「ティナ。そろそろわたしたちの結婚式の準備を進めたいと思っているのだけれど、かまわないかな?」
ルシアンは甘い声でクリスティーナを愛称のティナと呼び、そう呼ばれた彼女も少しばかり頬を染め、
「はい。よろしくお願いします」
と、こちらも負けないほど、うっとりとした声色で応じたのであった。
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