1.クリスティーナの婚約
よろしくおねがいします。
どんなに小さな港街だとしてもそこは異文化交流の場となり、多くの外国人が行き交う土地となる。
日常の中に異国の言語が飛び交う環境があれば、それは自然と身につくもので、この地を管理するオルコット伯爵の娘であるクリスティーナも例外ではなかった。
彼女は、正式な文法はともかく、意思疎通に不自由しない程度なら十数か国語を操ることができた。
貴族令嬢でありながら、ラティラ王国への留学を果たすことができたのはひとえに、この語学力の賜物であろう。そのラティラ王国の貴族子女が通う学園で、クリスティーナは公爵令嬢のイルヴァと親しくなった。
クリスティーナが数多くの留学先の中からこの国を選んだ理由は、その政策に少しばかりの興味があったからだ。
ラティラ王国は大陸から飛び出た半島に位置しており、貿易は、陸路より海路が主流の為、大小さまざまな港を保有していた。同じく港を持つオルコット家として、ラティラから学びを得るために留学した、というのは建前で、本当は、この国の小さな田舎町が、クリスティーナの好きな小説のモデルとなっていたからだった。
それは、不遇な平民の女性によるシンデレラストーリーで、王太子と出会った彼女は恋に落ち、やがてプリンセスとなる話である。偶然にもクリスティーナのお気に入りであるこの小説を、イルヴァもまた愛読しており、ふたりは小説を通して意気投合したのであった。
偶然は重なるもので、イルヴァは在学中に、クリスティーナの国、アルグレンの王太子スコットから婚約を申し込まれた。
イルヴァの祖母はラティラの王族であり、彼女にはその血が流れている。その高貴な血を求めたスコットは彼女を伴侶に望んだのであった。
他国とはいえ、王族からの婚約だ、断ることなどできない。戸惑うイルヴァではあったが、これを前向きにとらえることができたのはクリスティーナの存在が大きかった。
「貴女の国へ行ったら、是非、お話し相手になって頂きたいわ」
不安を隠し、笑顔をみせるイルヴァにクリスティーナは力強くうなずいた。
「もちろんです。一足先にあちらへ戻り、イルヴァ様のお越しをお待ちしておりますわ」
とは言え、イルヴァには王太子妃という座が約束されており、その話し相手が伯爵令嬢のクリスティーナではいささか釣り合わないものがある。イルヴァからクリスティーナの推薦を受けたスコットは、まだ婚約者を定めていない自身の弟、第三王子ルシアンにクリスティーナを勧めた。
オルコット伯爵には娘のクリスティーナしか子がおらず、いずれ婿を取る必要があった為、嫡男以外からの婚約の申し込みは大変に喜ばしいことではあった。
しかし、その相手がまさか王子になるとは思わず、クリスティーナと共に王宮に呼びつけられた彼はしどろもどろに弁明をした。
「大変すばらしいご縁でございますが、その、我が領には小さな港町があるだけで、第三王子をお迎えするにはあまりにも、その、脆弱と申しますか」
オルコット伯爵は懸命にハンカチーフで自身の額の汗を拭っている。クリスティーナも彼の隣で人形のようにかしこまりながら、内心ではその言葉に大きく頷いていた。
クリスティーナはイルヴァに適切な話し相手が見つかるまで、彼女の話し相手として仕える気でいたのだ。
自分にはオルコット領があるのだから、生涯、イルヴァを主人にすることはできない。幸い、外国の話題に事欠かないクリスティーナには多くの友人がおり、そのうちの何人かをイルヴァに引き合わせ、その信頼関係を見届けたところで職を辞するつもりでいた。
それが自分の婚約話に発展し、しかも相手が王族など、あまりにも飛躍しすぎている。
「形が整わないというのなら隣領もオルコット領にすればいい。あれは王族直轄地だから、ルシアンが治めるなら問題なかろう」
そう発言するのは王太子のスコットで、ルシアンもそれに賛同を述べている。しかし、オルコット伯爵にしたら王家直轄地を賜るなど、とんでもないことである。スコットの言っているのはアルグレン最大の港を持つ領地であり、その港は軍艦も出入りすることができる程の大規模なものである。
それを王族と縁戚でもない一介の伯爵が治めるなど、前代未聞だ。
「と、とんでもございません。恐れながら、わたくしでは力不足です」
「貴公にお任せするのは形ばかり、面倒な執務はすべてルシアンにやらせておけばよい」
スコットの言葉に当のルシアンも言う。
「オルコット伯、わたしにお任せください。兄上ほどではありませんが、執務能力はそれなりだと自負しております」
兄弟仲が良いというのは美徳である。それが王族であればなおさら喜ばしいことで、この国の兄弟は争うことがなかった。
第二、第三王子は長兄スコットを心から尊敬し、忠誠を誓っている。彼のためならば政略結婚など平気で受け入れてしまえるのだ。
現に第二王子は外交の為、隣国の王女と婚約を結んでおり、将来は両国の国境の地を治めることが決まっている。
もっともこのふたりは誰が見ても仲睦まじいカップルで、政略で決まった縁とはいえ、その愛溢れる姿に羨望の眼差しを向けている令嬢も多くいるほどだ。
ルシアンの発言に困ったオルコット伯は、思わず隣に座るクリスティーナに視線を送り、彼女も困惑しきった顔で父を見た。
「クリスティーナ嬢はどう思われますか?」
オルコット伯が娘に視線を向けたことで彼女も話し合いの場にひっぱり出されてしまった。ルシアンから問われたクリスティーナは、どうもこうもない、と叫びだしたい気持ちを抑え、努めて静かな口調で語った。
「恐れながらわたくしは、イルヴァ様お輿入れの際は、話し相手としてお仕えするつもりでございました」
それから、自分の信頼ある友人を引き合わせるつもりであったこと、イルヴァが王太子妃として盤石になったところで、その任を辞するつもりであったことを述べた。
「王太子妃の使用人という立場であれば、伯爵令嬢のわたくしでもおかしくはありません。その方向でお考え直し頂くことはできませんでしょうか」
クリスティーナの意見にスコットはうなずいた。
「確かにそれならば問題はないだろう。だが、肝心のイルヴァがそれを望んではいないのだ」
「それはどういう意味ですか」
そこでスコットは自身の従者に目配せし、従者は一通の手紙をクリスティーナに手渡した。
「それはイルヴァから届いた便りだ。読んでくれてかまわない、皆にも分かるよう朗読してもらおうか」
ラティラの言葉で書かれたその手紙の文字は間違いなくイルヴァの筆跡で、他人の手紙を読むことに抵抗はあったものの、王太子の命令に逆らうことはできず、クリスティーナはそれを声に出して読んだ。
「親愛なるスコット王太子殿下、いかがお過ごしですか。わたくしの輿入れの支度は滞りなく進んでおりますのでご安心ください。
お手紙を差し上げたのはクリスティーナのことをお願いしたかったからです。謙虚な彼女のことですから、身分を気にしてわたくしと主従を結ぶ道を画策するでしょう。
ですが、わたくしはクリスティーナを唯一無二の友だと思っております。願わくばわたくしと遜色ない地位を彼女にお与えいただきたく思います」
ラティラ語で読み終えたクリスティーナは思わず顔を上げ、信じられないという風にスコットを眺めた。
「クリスティーナ、なにが書いてあったのか、父にもわかるように説明してもらえないか?」
オルコット伯も娘と同じくらいの語学力を持っていたが、ラティラ語はあいまいであった。彼女は躊躇いながらも要約を伝える。
「イルヴァ様はわたくしに、自身の友としての地位を与えてやってほしいと、王太子殿下に申し出てくださいました」
娘の言葉にオルコット伯は思わず呆れて、
「おまえ、それほどに親しくされていたのか?」
と言った。それが小説つながりだとは流石に気恥ずかしくて口にすることはできず、えぇ、まぁ、とあいまいな返事を返したクリスティーナにスコットは畳みかける。
「国を離れ、我が国に嫁いでくれるイルヴァの願いを、わたしは叶えてやりたいのだ。ここはひとつ、協力してもらえないだろうか」
スコットはそう言ってオルコット伯とクリスティーナに頭を下げ、ルシアンもその隣で首を垂れている。それをされたらもう臣下である彼らには断るという選択肢はなかった。
「身に余る光栄でございます、是非ともよろしくお願い致します」
父に続いて、クリスティーナもただただ頭を下げるしかなく、こうしてクリスティーナは第三王子ルシアンと婚約を結ぶことになったのであった。
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