知恵熱ヤカン
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
あはは、こーらくん、またいつものくせが出てるね。
今みたいにカップラーメンを食べる時にさ、ヤカンを火にかけたら、お湯が沸くまでじっとコンロの前で待っているって奴。電子レンジでもそうだったかな。
その間に何かしてもいいんじゃない? 本とか読んだり、テレビを見たりさ。たかが数分、数十秒でも、できることあるでしょう?
――目を離したすきに、何かが起こったりしては遅い?
いやあ、これは参った。想像力の豊かさがもたらす不安なのかねえ。
すまんすまん、馬鹿にしているわけじゃないんだ。ただ、僕にとっては「あったまること」以外は、どうでもいいからね。
仮に事故があったとしても、それは決して高くない確率。心配するだけ徒労。こうして室内でじっとしているだけでも、大地震とかがやってきて、おっちぬ可能性さえある。そん時が来たら、そん時だ。
僕は確度の高い現実を信じ、こーらくんは確度の低い現実を信じている。それだけだろ。
どちらが上で下なのかとか、正しいとか間違っているのかとかは、不毛だよ。お互いリスペクトしていこうや。
……そのやかん。大きさからして、沸くにはまだ時間がかかるんじゃないか?
見張りながらで構わない。ヤカンをめぐる話、聞いてみないかい?
もともとヤカンというものは、薬を煮出すのに使われる器具だったらしい。鎌倉時代から江戸時代にかけて、薬以外にもさまざまな用途でお世話になる人が増えたらしい。
今みたいに、沸いたことを示す「笛」が注ぎ口についたのは、20世紀に入ってからのことで、それまでは湯気の有無で、沸いたか否かを見るのが一般的だったという。
中身がどれだけの熱を持っているか、客観的に見ることができる現象。人間にも備わっていたら、どうなっていたのだろうね?
実はその、不思議な特徴を持っていた人がいたんだ。
これは、ある大名に、文書発行のための文官、右筆として仕えた者が晩年に綴った記録と、周りにいた人の証言に基づく話だ。
彼が湯気を吹くようになったのは、15歳を過ぎたころだったらしい。
それまでは農民の家の末っ子として生まれて、野良仕事に精を出すように言われていたんだとか。
ところが、彼は身体も小さければ、力もないし、牛の面倒一つ、ろくに見ることができなかった。農民には向かないのではないか、と家族は色々な職人の下へ、彼を弟子入りさせるのだが、いつも失敗ばかりで長続きしなかったみたいなんだ。しまいには、寺での修行さえも、追い出されてしまうほどだったとか。
寺を去った後の山中で、彼は一人思い悩んだらしい。
「自分は飯を食う以外、何もできない空っぽな存在ではないか。自分にできることは、果たして存在するのだろうか」
思い悩む彼の頭に、ぽつりと粒が当たった。とたんに、ざあざあと音を立てて降り始める雨。
あたりの樹は、どれも葉が少なく、雨宿りには向いていない。彼は急いで山を下りていき、木賃宿に飛び込んだのだとか。
身体が濡れたせいか、一昼夜を熱にうなされながら、彼は過ごす。
けれど、体調が戻った日。町中を歩いていて、自分が今まで読めなかった漢字が読めるようになっているのに気がついたんだ。
もしやと思い、ありったけの金をつぎ込んで、当時はまだまだ高かった筆記用具一式を購入。店先で聞く、売り込みの文句を書き記してみようとしたところ、筆がひとりでに、漢字混じりの文章を、すらすらと書き綴ったらしいんだ。
当時の漢字混じりの文章は、武将や大名ですら書けないものがいるくらい、高度な技術だった。彼はこれまで基本的な手習いはしたものの、漢字は習わされていなかった。かなも書けない奴が、高尚な漢字を書ける、などと思う人が、今までいなかったからだ。
これを生かさない手はない、と彼は右筆衆抜擢の試験を受けることに決める。
折りしも、彼が仕えようとした家は、右筆の質が高くなかった。戦に同行した時、その諸々が流れ弾に当たるなどして、負傷・死亡してしまい、学があまりない者たちでも、字さえ書ければ採用されていたんだ。彼にとって、風が吹いていたと言える。
漢字混じりの文書がかけることがわかるや、彼は右筆衆の末席に連なることになった。
ただ、試験の際に、その監督が耳は大丈夫か、と尋ねてきたらしい。聞くと、自分は試験で筆を取っている間、盛んに耳の穴から、湯気を出していたという。
そういえば、書いている紙が、やけに湿って、字が歪んでしまったが、そのせいだったか、と彼は思ったそうだ。
それからも、彼はしばしば湯気を吹いてしまったらしい。
音はないものの、周りの人が心配するくらいの吹き具合だった。彼の書いている時の姿は、顔を真っ赤にしながら、耳から湯気を噴出しているというもので、非常に目立ったとか。
仮に耳をふさいだら、鼻から。鼻もふさいだら、口から出た。
後の2つだと、紙を湿らせることを通り越して、濡らしてしまうので、結局は耳から湯気が許容されたらしい。
それでも、戦や交渉の記録をするには、この習性が邪魔になるし、長文を書くと、紙も文字も、ひどいことになってしまう。
なので、彼に任されるのは、主に短文。もしくは、その高い文章の作成能力を生かした、文書の構成と後進の教育を任されることになったんだ。
何かと屋内での仕事をこなし、移動もあまりないので、時間ができた彼は、やがて学問に手を付け始めた。
仕事の合間を縫って、彼はかつて自分が追い出された寺に通い、大陸から伝わったという蔵書を読んだり、説法を受けたりしたんだ。
すでに彼が追い出されて、数十年。当時の彼を知る人は寺になく、今の彼の真摯な姿勢に感心する者も多かったとか。
やがて彼は入道して、頭を剃ったものの、湯気を耳から出すことは変わらず、坊主頭になったことで、学問に取り組む時の、彼の特徴とも言うべき赤ら顔は頭頂にまで及び、「ヤカン頭」の語源となったようなんだ。
晩年、彼は病の床で、今までの自分の生涯と、学問の研究記録を残そうとしたらしい。
だが、今生を振り返ったところで、彼は喀血。筆を持つこと叶わず、家族に囲まれることになった。
彼は遺される者たちに、それぞれ言葉をかけると、大きく息を吐いた。
そして、ぽつりとつぶやいたんだ。
「この身体、もってしても足らず。次こそ、真理に至らん」
それは彼のものとは思えない、地の底から響くような、低く、暗い声だった。
すると、彼の耳から、鼻から、大量の湯気が湧き出した。その勢いは、彼の身体を隠し、部屋の中にいた者が、思わず袖で顔を覆って、戸を開け放たずにはいられないほどだったらしい。
湯気が収まった時。彼の身体はすっかり干からびていて、すでに息をしていなかったという。
その時、外にいた者たちは、家から飛び出した湯気たちが、屋根に集まり、敷地全体を覆うくらいの黒雲となったのを見たらしい。
湯気からできた黒雲は、音もなく浮き上がったかと思うと、先を急ぐかのように、東の空へと消えて行ってしまったのだとか。