第五話
ラドゥエリの女は突っ込んでくるクロウを見ても動こうとしない。それどころか、刃が頭上に振り下ろされようとしても身動き一つすらしなかった。
突進しながらクロウは全身が総毛立っていくのを感じた。
先程と打って変わって冷徹な光を宿す目をした女から放たれる重圧を感じているからだ。相手は構えてすらおらず、髪や羽の色から弱っている。それなのに意識を切り替えただけでこの重圧。クロウは自分の死を既に確信していた。
クロウが正面から女に剣を振り下ろす。
瞬間、女は体を僅かに傾けて刃を紙一重で避ける。そして空振った剣が振り切る前に女は身を翻して槍の石突でクロウのガラ空きになった横腹を突いた。
「がっ!?」
動作自体は軽く小突いた程度だが、それだけでクロウの体は真横に吹っ飛んだ。そのまま森の木の幹にぶつかる。
「クロウッ!」
「ゴホッ、ゲホッ――んの、バカヤロウ!」
ネイは逃げておらず、それどころか短槍を持って駆けつけようとしていた。
半ば予想出来た事だ。この数日の旅路でネイはこのような事態の時、他人だろうと人を放って行く事の出来ない人間だと薄々分かっていた。
腹部に奔る激痛を堪えながら、クロウは木に当たった衝撃で落とした剣を急いで拾う。その間にもネイはラドゥエリに挑みかかる。
「はぁっ!」
「………………」
ネイの槍の腕は教えた者が良かったのか、年齢の割に鋭く早い突きだ。
生まれ持って身体能力も高いのだろう。並みの相手では歯が立たない動きをしている。だが、相手が悪かった。
折り畳んでいるとは言え、ラドゥエリは大きな翼を背に持っているにも関わらずネイの短槍による連続の突きを軽々と避けている。軽くステップを踏み、上半身を傾けるだけという最小限の動きだけでそれを成している。
ネイとラドゥエリには大人と赤子ほどの実力差があった。
突きが避けられ続けると、ネイは放った突きを引き戻しながら体を回転させて短槍の端を掴む。そしてコートを翻し、膝を曲げ、身を低くしながら腕の分だけリーチを伸ばした短槍で足払いを仕掛ける。
だが、それもラドゥエリが持っていた槍を地面に突き立ててあっさりと防ぐ。続いて前に踏み出して足を上げ、爪先でネイの顎を蹴り上げた。
蹴り上げられたネイはその勢いによって後ろに倒れ、そのまま動かなくなった。捕まえるのが目的だからか殺してはいないようだ。しかし、このままではネイが連れされてしまう。
剣を掴んだクロウはそのままラドゥエリに斬りかからず、投擲する。
ラドゥエリはネイを見下ろした姿勢のまま目だけをクロウの方に向け、手の動きだけで槍を回転させて弾く。
元から剣を投げた程度でどうにかなると思ってはいない。クロウは剣を投げたと同時に走り出して短剣を取り出していた。
投げた剣に気を取られている隙を突いて、ラドゥエリに斬りかかる腹積もりだ。だが、ラドゥエリは槍を回転させた時点でクロウの方へと振り向いており、クロウの手首を手刀で打つ事で短剣を叩き落とし、更には手を切り返してクロウの首を掴み上げた。
「ぐっ……」
ラドゥエリの女は細身であるが、自分よりも身長の高いクロウを軽々と持ち上げた。軽く絞められた首はかろうじて呼吸が出来る程度であり、クロウは女の腕を殴るなど抵抗を試みるが、地面に足が付いていない事もあって威力が弱い。それにただ殴っただけではラドゥエリの腕は揺れる事さえ無かった。
「残念だけど、あなたの実力では私に勝つ事はできない。諦めなさい。せっかく拾った命を捨てるつもり?」
「し、仕事してる、だけ――ッだっての!」
首を絞めるラドゥエリの手を掴んでそこを支点とし、クロウは先程横腹を殴られた意趣返しとして女の腹目掛けて蹴りを放つ。だが、読まれていたのか蹴りが槍の柄によってあっさりと防がれる。
「相変わらず足癖が悪いのね」
「はぁ?」
相変わらず、というまるで自分の事を昔から知っているかのような口振りにクロウは眉を顰める。
窒息させない程度に首を絞められている事もあって苦しげに眉間に皺を寄せたクロウはラドゥエリの顔を直視する。
エメラルドの瞳と目が合った。
風に揺れて靡く絹のような白い髪、こちらをただじっと見上げてくる翠の目。不意に、クロウの脳裏に過去の記憶が喚起される。それはまだ幼かった頃、背中から翼を生やした少年少女達が武器を手にして訓練に明け暮れていた訓練所での光景。
そこで出会った薄い紫色の髪と翼、そして翠の目を持つ少女が脳裏に思い浮かぶ。
「まさか、セエレ…………なのか?」
クロウが思い出した少女の名前を呟き、それに反応してラドゥエリの瞳に揺らぎが見えた。
その時、横から強い熱気が突如流れてきた。
お互い予期していなかった現象に、二人同時に熱の発生源へと振り返る。
熱を発していたのはいつの間にか起き上がっていたネイだった。だが、明らかに様子がおかしい。
黄金の目は虚ろで光が無いにも関わらず、獣のような凶暴な形相をしていた。何より、露出している彼女の肌には赤い紋様が浮かび上がっていた。腹部と首元、背中、肩から肘、腿から膝の部分を炎のように畝ねる赤い物が浮かび上がっている。
そして赤く発光する紋様から高熱が発せられており、触れていた外套が燃え落ちていく。
「しまった!」
ラドゥエリがクロウの体を突き飛ばす。同時にネイが陽炎を伴い、ラドゥエリに向かって突進して行く。
短槍も持たず、素手のみで駆けるネイは人の技術を知らない獣のようであった。身を低くし走るその速度は先程とは段違いであり、風を切って一瞬でラドゥエリの懐に飛び込み、鉤爪のように五指を広げた腕を振り下ろす。
槍の柄で受け止めるラドゥエリだが、ネイの一撃は木で出来た柄を容易く砕いた挙句に紋様が原因か槍を燃やす。
「〈エンチャント・アイス〉」
使い物にならなくなった槍を即座に捨てると、ラドゥエリはネイの続く第二撃を横に押しのけるように手の甲で捌く。
ネイの肌は高熱を宿しているようで、周囲の空気が熱気で歪んでいる。
触れただけでも火傷するだろうが女は手を青い光を放つ氷の魔力で覆ってそれを防ぐ。防御だけでなく、氷の力を手に宿したままネイの腹に掌打を打ち込む。
熱と冷却が互いに打ち消し合ったのか、触れた箇所から蒸気が昇る。それでも衝撃は伝わっているようで、ネイの体が前に折れる。
「――ゥ、ガアアアアアアァァッ!」
逆に一撃を受けたネイであるが、猛獣のような雄叫びと同時に顔を上げると再びラドゥエリに襲いかかろうと腕を振り上げる。
それよりも速く、ラドゥエリの掌打がネイの腕に放たれる。初動を止める打撃にネイの体のバランスが崩れ、更に続いて二撃、三撃と連続して掌打がネイを打つ。最後には蹴りを浴びせられて後ろに吹っ飛んでいく。
「おぉう…………」
突き飛ばされて尻餅をついていたクロウは目の前で起きた光景を見て思わず声を漏らす。
明らかにただ事ではない変化を見せたネイは見るからに正気ではなく、体から発する熱量もクロウの所にまで届くほど高い。それに危機感を一瞬抱いたものの、ラドゥエリの敵ではないようだった。
「ウゥルアアアアァァーーッ!」
蹴り飛ばされたネイは地面に四肢をついて無理やり停止すると、吠えた。
雄叫びに呼応して体の紋様がより輝きを増し、共に熱量が上昇して周囲の草花が燃えていく。強力な熱だが、影響を受けているのはネイも同じらしい。唸り、戦意が衰えていないのを示すように犬歯を剥き出しにしているが、その表情は苦悶に満ちたようにも見える。
諦めという言葉を忘れたらしいネイは再びラドゥエリに向けて草が燃えて土を見せた地を蹴る。熱量だけでなく、それに比例して身体能力も上昇しているようだ。
先程よりも速く、力強く向かって来るネイに向けて、ラドゥエリは手を伸ばす。掌の前には五芒星の魔法陣が浮かび上がっていた。
「氷の中に眠れ、〈アイス・コフィン〉」
呟いた直後、ネイの体が一瞬にして氷に閉じ込められた。
それでネイの動きを止められたと思いきや、彼女の持つ熱は氷など一時の時間稼ぎにしかならないようで、ネイを包む氷が溶け始める。
「……仕方がないわね」
「おい、何するつもりだ!?」
魔法の氷が溶けていく様子を見たラドゥエリが目を細めて呟くのを見て、クロウが声をかける。
「あの力を封印するだけよ。専門じゃないからどこまで出来るか分からないけど、魔力を感じるから魔術で抑え込めるはず」
そう言って、ラドゥエリの女は足下に魔法陣を出現させて呪文を呟き始める。
「チッ、仕方ないか?」
依頼者を連れ去ろうとしている相手を好きにさせると言うのは依頼上問題ではあるが、ネイの様子は明らかにおかしい。
この状況を打破できそうなのが現状彼女しかいない事もあってクロウは反論しなかった。問題は、ネイが解決した後の事だ。
ラドゥエリの女はクロウの記憶が正しければ知人にあたる。けれども、知った仲だからと言ってネイを連れ去るのを止めるような女ではない。加減はしてくれても任務遂行は成し遂げてくる。それがラドゥエリという種なのだ。
せめて分の悪い賭けであるが、ラドゥエリが不確定要素であるネイの力を封印した瞬間を狙って攻撃を試みるしかない。
「――くぁっ!」
クロウの企みを察した訳ではないだろうが、突然ラドゥエリの体が震えて膝から崩れ落ちた。足下の魔法陣まで消え、魔力が霧散していく。
「どうした!?」
クロウがラドゥエリに声をかけるが、女は苦しそうに手を地面に付けて荒い呼吸を繰り返して返事をしない。四つん這いになって苦しむその様に、クロウはある予感を抱いた。
「まさか、寿命か…………」
戦えば戦うほど短い寿命を縮めていくラドゥエリ。その命がこのタイミングで尽きようとしていたのだ。
「おい、しっかりしろ! せめて、訳分かんないあいつの力を封印してから死ね」
「フフッ、そういう所は変わってないわね」
駆け寄って肩に手を置きつつ下種な事を言い、更にはさりげなく剣を何時でも刺せるように構えているクロウは誰の目から見ても最低な人間であったが、ラドゥエリの女は玉の汗をかき続ける顔に微苦笑を浮かべた。
「何したってラドゥエリは死ぬ時は死ぬ。それに俺がお前に優しくする理由はないだろう」
「そうね。その通りだわ」
苦しそうな女だが、声には懐かしさ噛み締めるようなものを含んでいた。
「逃げなさい。あの子は正気を失っている。私と一緒にいれば巻き込まれるわ」
ラドゥエリが顔を上げて視線を向ける先には氷を溶かし這い出ようとしているネイの姿があった。変わらず獣のように暴れているが、同時に苦しんでいた。
強く発光する紋様は赤から橙、そして金色へと色を変えてそこから放出する熱は氷を溶かすどころか蒸発させてはいるが、ネイ自身をも熱しているようで焼き焦げた肉の臭いが風に乗ってクロウにまで届く。
「ああ、クソッ。どうすりゃいいんだよ」
敵なのに頼りにしていたラドゥエリは停止ボタンの無い死へのカウントダウンが始まっており、ネイは暴走して誰彼構わずどころか本人さえも燃やしかねない。
自分の命を優先するならばクロウはこの場から逃げるべきなのだが、彼は動かず、どうにか出来ないかと悩んでいた。
ラドゥエリの事はもう手遅れだと判断し死んだものとしているし、何よりそこまでの間柄なので問題ない。
肝心なのはネイだ。彼女の身を案じてとかではない。ただ、今ここでネイを見捨てれば依頼は失敗となってしまう。それが気がかりだった。
クロウは冒険者としての活動は長く、依頼の失敗など何度も経験してきた。だけども、自分のミスに巻き込んで人を死なせた事は無かった。
商隊の護衛の時は荷を奪われても商人達は逃がしたし、盗賊の討伐の時だって一時的に組んだ冒険者を守った。
死なれたら後味が悪い。だからそこだけは守ってきた。今回もまた、依頼人である少女がこのまま焼け死ぬのを放置するのは後味が悪い。
だが一体どうすればいいのか。このまま逃げる訳にはいかないが、この事態を解決する手段が無い。このまま悩み続けたところで結局は死ぬ事にも変わりない。
プライドを捨てるか、命を捨てるか。どちらか二つだ。
「これだから帝国はッ! 俺に恨みでもあるのか!」
帝国の娘からの依頼、追っ手として来たラドゥエリのセエレ、そして自らの熱量で燃えてしまいそうなネイ。一つ一つならともかく重ねて来られると嫌でも過去の記憶を思い出させる。
昔の事など忘れ、ろくでなしの冒険者として生きて来たのに、ここに来て過去の傷を抉って来る。運命というのがあるのなら、それは相当性根が腐っているのだろう。
何より、自分では何も出来ないという状況がよりクロウを苛立たせる。そう、自分の力だけでは何も出来ないのだ。
とうとうネイが氷を溶かして這い出てくる。叫ぶ体力も残っていないのか、声にもならない呻きを漏らしながらゆっくりと近づいてきた。
金の色に輝く紋様の熱で自然発火までする始末で、このまま行けばネイもまたラドゥエリと同じく自滅するだろう。それよりも早くクロウまで届き、命を奪ってくるかもしれない。
徐々に迫り来る燃える少女の姿を見て、クロウは歯ぎしりをした。
「クソッタレがァ!」
自分の力ではどうしようもできない。ならば他から力を持ってくればいい。
「霧の国からいでよ咎人。その災いを振るえ――〈マステマート〉ッ!」
自己に向ける苦悶に満ちた表情のまま言霊を唱えたクロウの影から骸骨が溢れ出た。
水が溢れるように次々と現れる骸骨達の体には魔力で編まれた武具が装着されて行き、訓練された軍隊の如き動きで整列し始める。そしてその先頭には巨大な武器を持った他の骸骨達とは趣の違う怪物達がいた。
「国一つも守れないお前たちだが、子供一人ぐらいは救ってみせろ!」
大量の魔力が吸い取られ意識が朦朧とする中、レイは自分を守るように背を向ける彼らにそう言うと、意識を手放すのだった。