第十六話
ネイとボスとの戦闘が幾ばくかの時間が経過した。
大猪は突進するしか能がないようで、先程からずっと走ってばかりだ。反対にネイは大猪の動きに慣れてきたのか、回避が上手くなっていた。最終的には盾で受け流し、すれ違いざまに短槍で反撃する余裕まで出てきていた。
だが、大猪はボスだけあって無尽蔵と思える体力を持っており、体の至る箇所を刺され血を流しているのに突進の勢いが衰える様子は無い。逆にネイの方が限界に近づいていた。
肩で息をし、全身から汗を流している。肌に張り付いた濡れた髪を払う余裕も無い。
「……無駄な力も抜けて調子良かったが、そろそろか」
クロウが白い煙を吐き出しながら呟く。ネイにボスを任せてずっと傍観していた彼は呑気に一服していたのだった。
「ハ、ハラハラしましたわ。それでは私がこの痺れ毒を塗ったクナイで……」
「どこから出したという疑問と物騒さは無視するとして、ちょっと待て。あと一回だけ待とう。その頃には吸い終わってるから」
「自分の都合ですか!?」
クロウは酒以外にも煙草も嗜むのだが、ネイが傍にいる時は吸っていない。特にダンジョンに潜っている時はそんな機会はなく、その我慢を解消するようにクロウは美味そうに喫煙していた。
それでもネイの危機にはすぐに飛び掛れる構えを最低限とって見守っている。
全身から血を流していても動きに衰えを見せない大猪が、もう何度目かになる突進をネイに仕掛けた。
「あっ」
大猪とネイとの距離が縮まった時、不意にセエレが声を漏らした。
「このタイミングで不吉な声出すなよ!」
「ハァ、ハァ、ハァ…………」
剣山のような牙を向けて迫り来る大猪を正面に捉えながらネイは自分の体から熱を感じていた。
運動による発熱だけではない。内から炎のような力が湧き上がってる。
疲労が溜まり、盾で捌いていようと大猪の突進は骨に響いていた。どう考えてもそんな力が残ってるとは思えない。
けれどもネイは疲れからではなく、純粋な力が体の節々に行き渡っているのを感じた。今はまだ糸のように細々としたものだが、動けばそれが一気に爆発するとネイ自身分からないがそう云う確信を何故だか抱いていた。
幾度も迫る大猪の牙から来る緊張感に長時間の先頭活動から消耗に反して脳が活性化しているのかも知れない。
視界が狭くなり、大猪の姿だけが明瞭に見える。あれほど凄まじい勢いの突進が遅く感じる。
「ハァ、ハァ――フゥーー……フッ!」
荒い呼吸を大きく息を吐くことで無理やり整え、吸って止めると同時にネイは前へ駆け出す。奥底で疼く力を開放するように。
実際に踏み込みからの一歩からしてネイは過去最高の速度を発揮していた。どころか、周囲では発火現象が起きて走るネイの尾を引いている。
今まで横に受け流していた大猪の突進を受け止め――はせずに跳躍し、槍衾のような牙の隙間を縫って盾で大猪の頭を叩く。その衝撃を利用して体を回転させ短槍を大猪の背中に向ける。
「ガァーーッ!!」
獣のような声を上げ、ネイが大猪の背に槍を突き刺した。少女の体には刺青のような橙色の光る紋様が浮かんでおり、そこから炎が起こっている。
彼女の腕にも紋様が浮き出ており、そこから炎が噴き出る。炎はコートの袖を燃やし、蛇のようにネイの腕に絡みつくとそのまま手から槍へと移動して大猪の体を内部から焼いた。
悲痛な叫びを上げ、大猪の体が傾いて倒れる。
巻き込まれる前にネイは突き刺した槍を支えに逆さまのまま身を屈め、全身のバネを使って槍を引き抜きながら飛び降りる。
そして、大猪が倒れて土煙を上げた地面に着地した。
「フゥーー……わっ!?」
直後、頭から水が降り注いだ。
「おーい、正気か?」
全身が水浸しになったところで、クロウが警戒しながらゆっくりと近づいて来た。
「え? あ、うん。なんともないよ」
濡れたネイからは炎が消えていた。紋様はまだ残って水を蒸発させてはいるが、それも徐々に熱を下げて最後には肌に溶け込むようにして消えた。
「漫画みたいにいきなり覚醒なんかしやがって。体の方は何か異常はないか?」
異常があったのに異常がなかったかなどと訳が分からないと自ら思いつつ、クロウはネイの頬に触れる。
「まだ熱いが、許容範囲か。お前、自分が何をやったか覚えてるか?」
「ん……覚えてる。でも、さっきのは何か勝手に出た気がする」
触れたクロウの手をくすぐったそうにしながらネイがはっきりとした口調で答えた。どうやら、セエレと戦った時のような暴走では無いようである。
「ふむ。どう思う?」
大丈夫そうだと判断しながらも、先程ネイが起こした現象にクロウはセエレに意見を求めた。
ネイに魔法で水を掛けた張本人であるセエレは空中に浮いてネイを見下ろす。
「多分だけど、前のが切っ掛けで表に出やすくなったのかもしれないわね。体に馴染んだと言うべきか。正体が分からない以上、憶測でしかないけれど」
「前は本当に獣みたいだったからな。これが良い事なのか悪い事なのか」
そう言って、クロウはタオルを荷物の中から取り出してネイの頭に被せた。
「ありがとう。あっ、それと、ごめんなさい。せっかく買ってくれた服、燃えちゃった」
「気にすんな。冒険者やってればその辺は消耗品だ」
ネイのコートの袖が燃え尽きていた。大猪を倒した際に炎が纏わりついた腕の部分だ。冒険者が着る物なので多少の熱は平気だったが、炎が直接触れていては流石に燃えてしまった。
炎を纏った点で言えば短槍もそうなのだが、柄の部分に少し焦げ目が付いた程度で済んでいる。
クロウが言ったように武具というのは使うほど消耗していく物だ。しかし、今度はまた炎が出現する事を考えて火に強い物を買わなければならないだろう。
ネイには悟られず頭の中で出資の計算をクロウが行っていると、サクヤが近づいて来る。
「あのう、先程ネイさんが使ったのは一体? 魔力を感じましたが、何だか無意識で使っていたようですし」
事情を知らないサクヤの声にクロウは振り返ると、彼女の顔をじっと見つけた。
「あの、何か?」
「……いや、別に。ネイには出処不明な力があるんだ。前はそれで正気を失って暴れまわった事があったってだけだ。大した事じゃない」
「出処不明って時点で心配なんですが。というか、目撃してしまった訳ですけど、そう易々と話してしまってもよろしいんですか?」
「この力自体には分からない所があるってだけで別になぁ…………」
「その言い方ですと、他に厄ネタがあるように聞こえるのですけど?」
「ハハッ――またパーティー探しの旅に出たいか? ところで関係の無い話だが、人の悪い噂って広まりやすいよな」
「ド畜生ですわ、この人!」
「サクヤ、抜けるの?」
「いや、別にそうと決まった訳ではありませんけど…………」
「サクヤのおかげでここまで安全に来れた。私はサクヤと一緒にパーティー組みたいな」
「――ああっ、ありがとうございますネイさん!」
感極まった勢いでサクヤはネイの手を両手で握った。目の端には光るものがあった気もするが、それは気のせいだろう。
「…………ネイの純真っぷりに反して我らがリーダーの人間性はクズね」
「やっぱ俺がリーダーか。まあ、どうでも良いからそろそろ帰るぞお前らー」
◆
四十層のボスである大猪を倒した事で現れた転送ゲートを通ってエノクの糸から脱出したクロウ達は『翠海の渡り鳥』亭に戻り、クロウが借りている部屋に集まっていた。
「一人部屋だから分かっていた事だが、狭い」
容量的には一人の人間が最低限寝泊りする程度の広さしか無い部屋が三人で埋められているのだから当然だった。
クロウは備え付けの椅子に座り、セエレは小さなテーブルの上に立ち、ネイとサクヤはベッドの上に座っている。
「あのぅ、わたくしは何でこんな所でネイさんと向かい合っているのですか?」
「言ったろ。狭いんだ」
「いえ、そういう事では無くてですね」
綺麗な正座のままサクヤは首を傾げた。ダンジョンから帰ったと思ったら休む間もなくここに連れ込まれたのだ。意味が分からなくて当然だ。
「ボス戦の時で分かったでしょうけど、ネイには力があるわ。でも正体が分からないのよ。だから超能力者である貴女の力で何か分からないかと思って」
わざとふざけるクロウの代わりにセエレが説明した。
「私の力? それはもしかしてテレパシーと透視の事を言っています?」
超能力にはいくつかの能力があり、その一つにテレパシー能力がある。相手の心を読む読心や自分の考えを伝達するなど言葉に頼らない送受信の力だ。
そして透視は言葉通りに物体に隠れた物を見るだけでなく、五感に頼らない第六の感覚で対象の本質を見抜く力がある。
「確かにテレパシーと透視を併用すれば魔術でも呪いの類でも知覚できますけど。わたくし、それほど超能力者としての力は強くありませんわよ? テレパシーはせいぜい感情を読む程度の事しかできませんし」
「だろうな。ボス戦を見てる時に色々頭の中で、ポーカーフェイス決め込んでも様子が変わるようなネタを巡らせてみたけど、無反応だったもんな」
「一体何を考えていたんですの!?」
「本当にあった怖い話。因みに、誰にでも起こり得る現象」
「私はユリアス帝国の機密」
「止めて! そんな事を知っている理由も知りたくありませんわ!」
無表情で言うから尚怖かった。
「サクヤ」
耳を塞いでいやいやと首を振るサクヤにネイが真剣な声を出す。
「私はメトシュラに目的があって来た。同時に、この力の事も知りたい。目的とは関係ないのかも知れないけど、お母様に関係する事かもしれない。それに、私はこの力でクロウ達に迷惑をかけた。だから何とかしたい。お願い、私に協力して」
ネイは黄金の瞳で真っ直ぐにサクヤを見つめる。珍しい色の目は誠実さを現すように透き通っていた。
「お――お任せ下さいネイさん! わたくしに出来る事ならいくらでも手をお貸ししましょう!」
「ありがとう、サクヤ」
「お礼など結構ですわ。会って数日ですが、わたくしを勧誘してくれたネイさんには感謝しております。それを少しでも返そうというだけですわ」
「ほんなにボッチが堪えたか」
「わたくし決めました。この教育に悪いパーティーであなたの清純さを守ると」
「おっと、無視された上に有害認定されてしまったぞ。おいコラ」
笑顔でダミ声を出すクロウを見てセエレが小さく溜息を吐いた。
「ワザとやってる癖に。それにしてもちょろかったわね」
「シッ。思ってても口に出すな」
誰にも聞こえないように小さく話すクロウとセエレは、サクヤの言う通り確かに教育に悪かった。