猫と学園交響曲 白井 優奈編
ふぁ〜、と私は欠伸をし、思い切り伸びをする。寝ている間に凝り固まっていた筋肉がメリメリと音を立てて解され、気持ちがいい。
「じゃ、行ってきまーす」
そんな声が聞こえ、寮のドアが閉まる音が聞こえた。もうそんな時間か、専用の出入り口から出てご主人様を追う。燦々と輝く日光が私に残った最後の眠気を吹き飛ばした。全く、もう9月だというのにこの暑さだ。これで雨でも降ってくれれば少しは暑さが和らぐというものだがこっちの方はとんとそんな様子もない。と、こんなことを考えているうちにご主人様が学校に着いたようだ。私はひょいと校舎の脇の木に登ってご主人様のいる教室を眺める。ここまでは何も変わらない、いつも通り。しかし私の隣にいつもとは違うものがあった。
『今日は、黒猫さん』
相手もこちらに気づいたようで先に声をかけてきた。
『どうも、君もご主人様を見守りに来たのかい?』
相手は白猫。頭のてっぺんから尻尾の先まで真っ白な毛に覆われている。私とは正反対だ。それに首輪をしているから野良、というわけでもないだろう。
『そうねー、どうしても心配でね』
ご主人様達が通う学校は全国から様々な”問題児”が集められ、その克服を旨とするプログラムが組まれている。と、言っても実際は普通の高校とほとんど変わらないのだが。ともかく、この学校に来ているということは彼女のご主人も何か”問題”を抱えているのだろう。だから彼女に何か親近感のようなものが湧いてきた。そこで私はもう少し話を続けてみよう、そう思った。
『ところで君はなんていう名前なんだい?』
『あら?もしかして口説いてる?まあいいわ、私はシロよ、あなたは?』
『私はクロ、見たままだよ。ちなみに私のご主人様はほら、一番後ろの窓際の席だ』
私はその席を鼻先で指す。
『あら、私のご主人様の隣じゃない』
シロはそう言うが私はご主人様の隣に人が座っているところを見たことがない。この5カ月間ずっとだ。最近はひょっとして空席なのではないかと思い始めたほどだ。
『ああ、あなたの言いたいことはわかるわ。私のご主人サマはね、ずっと学校を休んでたのよ。5ヶ月間ずっとね』
「あー暑」
俺は外の熱気から逃げるように教室に駆け込んだ。教室の中はクーラーが効いていてとても快適。教室を見渡してみるといつもとは違う、違和感を感じた。席に座ってその元を考えてみる。隣りだ。この5ヶ月間、ずっと空席だった席が埋まっているのだ。名前は……確か白井、とかいったはずだ。
「よう白井、何で今まで休んでたんだ?」
「……」
無視だ。まあ同じ質問をもう何度もされただろうし、言いたくなくなるのもわかる。だからこれ以上は深入りしないことにした。何か訳ありなのかもしれないし、何より興味があるわけでもなかったし。
『どうして君のご主人はこんなにも長い間休んでいたんだい?』
私はご主人様が聞けなかった疑問を代わりに聞いてみることにした。別に言いたくないようであれば強要する気もなかったのだが。
『別に深い理由があるってわけでもないのよ。ただね、ご主人サマはひどい人見知りだから……学校に行きたくない、ただそれだけ。でも夏休みも終わったしちょうどいい節目だってことでね』
『なるほど』
それから恙無く時は流れ、いよいよホームルームが終わる、という時、私の鼻先にポツリと水滴が垂れた。『雨が降ってきた』
『本当?ご主人サマ傘持ってきてないわよ』
その間にも雨はみるみる強く、激しくなり、しまいにはバケツをひっくり返したような土砂降りとなった。
『これはひどい。私はもう帰るよ、君も気をつけて』
木から飛び降りる。雨で木が湿り、滑りやすくなっている。シロは大丈夫かと思った瞬間、
『きゃっ』
小さな悲鳴が聞こえた。それがシロのものだと気づくのにそう時間はかからなかった。なぜなら私の後ろにシロが倒れていたからだ。
『だ、大丈夫か?』
『大丈夫……いっ』
慌ててシロの元に駆け寄る。見ると右の前足が青く腫れていた。濡れた木に足を滑らせたのだろう。皮肉にも雨のおかげで地面がぬかるんでいたから大事には至らなかったものの、折れていないことを祈るばかりだ。
やっと授業が終わり、幸せな放課後が訪れる、そんな俺の期待は一瞬で砕け散った。外は土砂降り。傘なんて持ってない。だって今までずっと超快晴でこの二週間くらい曇すらなかったんだ、俺だけじゃなく誰も持ってないんじゃないか、まあここで色々考えても仕方ない。寮まではほんの百メートル程、走ればそんなに濡れ……るけど他に方法がない。覚悟を決めて校舎からダッシュ、すると足下で、何やらニャゴニャゴ聞こえた。
「お前……クロか?何でこんなとこにいるんだよ」
しかし俺の驚きはそれに止まらなかった。クロに引かれるままついて行くとそこには白猫が転がっていた。まだ生きてはいるようだが脚が腫れている。折れてはいないだろうがヒビくらい入っているだろう。このまま放っておくこともできず、俺は白猫とクロを抱えて再び寮まで走った。首輪をしているようだがこの際仕方がない。雨に濡れたままでは衰弱していくばかりだ。
家に帰り着く頃にはもうパンツの中までぐしょ濡れだった。取り敢えず制服を脱ぎ、クロと白猫にタオルをかけて自分の体を手早く拭く。まずは白猫の応急処置だ。本当ならば病院に行かなければならないけど生憎外はとてじゃないが出歩ける状況じゃない。と、いうわけでその辺の厚紙を適当な長さに切って包帯を巻いた。これで添え木の代わりくらいにはなるだろう。
シロの手当てが終わるとご主人様は食事を用意し、自分はシャワーを浴びに行った。
『何か悪いわね、手当てをしてもらった上にご飯までご馳走になるなんて』
『気にしなくていいよ、困った時はお互い様だろう?』
それを聞くとシロは本当に遠慮なく食べ始めた。よほどお腹が空いていたのだろう。
ちょうど私達が食事を終えた頃、ご主人様もシャワーを上がり、机に向かった。
『あら、あなたのご主人は日記をつけるのね』
『そうだね、もう日課になっているよ』
ご主人様は毎日日記をつける。日々起こった事を事細かに。
『そういえば私のご主人サマは大丈夫かしら、傘も持ってなかったし……風邪なんてひいてないといいけど……』
『君がいなくなったことを心配しているかもしれないね』
それを聞いた瞬間、シロの表情が変わった。そう。『しまった』という表情に。
『あああどうしよう、きっと心配してるわ、クロ、私帰る』
『ちょちょ、今外でどれだけ雨が激しいかわかるだろう?危ないからせめて今日1日は泊まって……』
そんな私とシロがドアの前で押し問答している時だった。私のすぐ側ードアの向かい側でドタン、と何かが倒れる音が聞こえた。
「ふう」
今日の分の日記を書き終えると何やらドアの方が騒がしい。クロと白猫がじゃれてるのか?気になって見にいこうとイスから立ち上がったその時、俺は妙な音を聞いた。ドタン、と何かが倒れる音だ。じゃれているクロ達を横目にドアを開けてみる。するとドアのすぐ前、寮の廊下に誰かが倒れていた。
「おーい、大丈夫……なわけないか」
その人物を抱え、部屋に引っ張り込む。ベッドに寝かせると何処か見覚えのある顔。記憶を辿ってみる。確か……学校の……そうだ白井だ。それよりもはあはあと息が荒いのでおでこに手を当ててみる。……熱い。すごく。このままじゃ流石にヤバイだろ。
「つーか何であそこにいたんだ?」
当たり前の疑問だ。いや本当に何でだよ、ここ男子寮だし。取り敢えず服脱がすか。足元でニャゴニャゴと騒いでいる白猫とクロを尻目に上着を脱がす。全く、お前らは気楽でいいよな。幸いにも服装は制服だから脱がし易い……いやこれ問題だろ。そんなことを思いながらスカートも剥ぎ取る。白井は下着までぐしょ濡れだった。
『ちょっと!あんた!ご主人サマに何するのよ!クロも離して!』
私は白井さんの服を脱がすご主人様を尻目に暴れて爪を振り回すシロを必死に押さえつける。
『シロ!落ち着いて!別にご主人様に下心があるわけじゃないから!このまま濡れた服を着せておく訳にもいかない……だろ?』
爪をかわしながら必死に説得する。
『そうだけど……そうだけどでも!』
まあシロの気持ちもわからないでもない。自分のご主人様を心配するのは当然のことだ。その間にもご主人様は服を脱がせ終わり、残るは下着。流石にこの線を越えると私も止めに入らざるを得なくなるがそこはご主人様。ドライヤーで乾かし始めた。
『あれ以上脱がそうとしたら私は原型をとどめなくなるまで引っ掻いてやるところだったわ』
そう言いながらシロは爪をしまった。
「ん……こ……こは?」
「よう白井」
「えっ……く、玄野君!?どうして……はっ、ここは?」
「落ち着けって、お前は俺の部屋の前で倒れてたの。服もぐしょ濡れだったから乾かしといた。ほれ」
ご主人様は白井さんに乾かした制服を放る。その時になって初めて白井さんは自分が下着だけだということに気づいたようだ。赤い顔をリンゴのようにさらに真っ赤にした。
「え、あの、その、えっと……ありがとう」
白井さんはタオルケットを被ったままモゾモゾと着替えをした。こういう時に別の方を向くという気遣いはご主人様にはとんと無いようでタオルケットがモゾモゾと動くのをぼーっと見ていた。シロが言うような下心があるわけではないのだろうが。
しばらくの後、タオルケットの中から制服をきちんと着た白井さんが姿を現した。
「で、何であんな所にいたんだ?」
「えっと、か、帰る時に玄野君が白猫を抱えてるのを見て、家に帰ったらシロが居なかったから……あの時の猫はシロだったんじゃないかって……」
なるほど、ご主人様がシロを抱えている所を見ていたのか、だからご主人様の部屋まで来た、と。でもそうなると一つ疑問が残る。
「じゃあ何でドアの前で倒れてたんだ?まさかずっと待ってた?ずぶ濡れのまま?」
白井さんは黙って頷く。
『ここまで人見知りがひどいとはね……』
インターホンも押せないレベルとは。それでもシロを探してご主人様の部屋まで来た。それだけシロは大事にされているということなのだろう。
『それでも私の自慢のご主人サマよ』
話が終わるとシロは白井さんの膝に飛び乗った。
「あ……シロ!その腕……」
「その腕、ヒビくらい入ってるだろうからちゃんと病院に連れて行けよ」
「これ……玄野君が?」
シロの腕に巻かれた包帯を指差す。ご主人様は頷いた。
「あ、あの……あり、がちょ」
噛んだ。少し治っていたがまた顔を真っ赤にしてクッションに顔を埋める。そして大きく深呼吸。
「シロを助けてくれて、あ、ありがとう」
窓を見ると雨は上がり、雲の切れ間から太陽の光が漏れ出していた。来るのが一瞬なら去るのも一瞬。明日はいい天気になりそうだ。
嵐が二匹と二人の運命を引き寄せるーなんてあらすじで書きましたがはい。そんな大層なものではないです。ここまで読んで頂きありがとうございました。
夏休み、ということで夏休みっぽいのを書きたかったんですが……結局こうなってしまいました。今回は短編ということで出しましたが続編も出そうかなー、なんて考えてます。
交響曲←気にしないで!