ゆらゆら、ゆらゆら
このお話は、花来れんさま主催のお茶同盟企画の参加作品です。
――薄青の一枚布を広げたようなに空に、だーっと一斉に並んだ鰯雲。
そんな空の下、爽やかな少しひんやりとした風にのって、黄色や橙、紅と色鮮やかに変化した落ち葉がはらはらと舞い地に伏せ、その間を時折赤蜻蛉が舞い飛ぶ。
ゆったりとした秋の午後の時間であった。日差しも夏のように強くはなく、穏やかでどこかまったりとしていた。
しかし、彼らはそんな静かなゆったりとした空気に包まれながらも、全く穏やかでもまったりでも静かでもゆったりでもなかった。
迫っていたのだ。何がといえば。
「先生しばし休憩にしませんか。〆切に終われているときこそ休憩は必至だと思ってるんです」
「それをいうなら必要ではなかろうか! 必至は、とある事態を避けられなくなったときとかに使用すると思うのだが! しかもニュアンス的に、追われでなく、終われといったような気がしたんだが、今!」
今では珍しくなってしまった縁側のある和室にて、作家である彼女はちゃぶ台に向かって一心不乱にキーボードを叩いていた。見開いた目は画面に釘つけ、手は素早い速度でキーボードを叩きながらも、口はきっちり語句の訂正を鋭く突っ込んでいた。
「さすが賞を若くしてノミネートされるけど『あとちょっとー』という意見でソウナメにしちゃうだけあって鋭いですねーはやいですねー」
「棒読みだ!? 誉めてないだろう! しかも返答を待たないんだな!」
突っ込まれた相手である編集者の彼といえば、手元に用意してあった急須等を手に、お構い無しに手際よく茶の準備をしていく。形だけ問うたけれども、返答がどうであれ、結局は最初から茶を入れるつもりだったらしい。
〆切を明日に控えた彼女は鬼気迫る雰囲気をまとっていた。対し、彼は飄々としていて、どこか落ち葉を舞い踊らせる風のようだった。
「だって先生、あーた無理やりにでも休憩挟まないとぶっ続けてエンドレス執筆しやがるでしょう。また救急車呼んで点滴の針ぶっさされたいんですかそうですか呼びましょうか。病院ではパソコン打てませんよ執筆できませんよざまーみろこんちきしょーですよ」
急須から、こぽこぽと音をたてながら茶が湯飲みに注がれていく。香ばしい香りが、湯気にのって周囲に広がりを見せていく。まるで波紋のように静かに広がっていく。
そして、彼女の突っ込みが波紋と静寂を破るかのように鋭く放たれた。
「どこから突っ込んだらいいんだ!? まず息継ぎをした方がいいと思われるな!」
ぽんぽんと軽快に会話のキャッチボールをしながらも、両者の互いの手は止まらなかった……ように、見えた。
「あ」
編集者の彼の手が止まった。拍子の抜けた間抜けな、そして小さな声だった。
彼は、見たのだった。
――湯飲みのふちに、半纏にステテコ姿のちいさなハゲ親父があぐらをかいていた。
ちいさなハゲ親父は、はああと欠伸を噛み殺しながら釣竿を垂らしていたのだ、茶の水面に。
彼は、ごくりと唾をのんだ。こんな不思議な現象に立ち会うのは、生まれてはじめてだったから。
「釣れるかのぉー」
片目を瞑りながら、ちいさなハゲ親父が呟いた。ちいさなハゲ親父はしばらくうとうとしていたが、くいっと釣竿がひいた途端、びくんと体を大きく震わせ、かっと目を勢いよく見開いた。
「のぉあー!!」
謎の雄叫びをあげながら、ちいさなハゲ親父はおもいっきり釣竿をひきあげた。
彼はドキドキしていた。何が、何が釣れるんだと胸がばくばくと五月蝿かった。
自分がさりげなくいれた茶に、突如現れたちいさなハゲ親父。しかも茶に向けて釣竿をたらし、今まさに何かを釣り上げようとしている。
ごくり、と彼は再び唾を飲み込んだ。
「来たあああ!!」
茶を入れた本人の前で釣られたのは――
「茶柱釣ったどー!」
茶柱、だった。ぴんと垂直に立つ茶柱だった。
呆気にとられる彼の前で、ちいさなハゲ親父は彼を見上げて親指をぐっと立てた。その顔はどや顔であり、黄ばんで欠けた歯が輝いていた。
その顔は語っていた――ぐっじょぶ、と。
湯飲みからさっと飛び降り、釣竿を背負ってちいさなハゲ親父は去っていった。途中で陽炎のようにゆらめいて消えたが、そのハゲのてっぺんで二本の枝毛がぴんと立っていたのは、彼の脳裏にしっかりと焼き付けられた。その二本の枝毛は、まるで垂直に立つ茶柱のようだったから。
「おい、どうしたんだ?」
軽快なテンポの会話が切れたことを訝しんだ彼女が声をかけるまで、彼はずっと放心していた。
「何でも、ありませんよ」
――にへらと笑う彼の手元で、冷めかけた茶の水面には、まだ茶柱がぴんと立っていたのだった。
後に、このとき彼女がキーボードをモグラ叩きの如く叩きまくって執筆していたお話は、『いい仕事したねー』とその年の賞を総なめにするのだが、このときはまだ彼らは知らない。