episode-9
──じゃ、始めるか。
まだ幼さの残る優しい目元をした少年は、部屋の一角にある畳の上に横たわっている、中年の、無精髭をたたえた男を見下ろした。
「起きてくれ」
少年が声をかけると、
「もういいのか?」
男は自然に応じた。
「……やっぱ起きてたか。」
瞼を重そうに持ち上げ、眼球を動かして少年の顔を見やる。
「寝てた方がよかったか?」
「──いいや。」
少年は首を軽く振った。
「さて。」
「……なんだ?」
男は、上半身を起こした。
「あんた、名は?」
「名乗るほどの者じゃぁない。」
薄ら笑いを浮かべた男を、少年は睨んだ。
「──名乗れ」
鋭く言い放ったが、別段大きい声というわけでもなかった。
その勢いに圧されたわけでもないだろうが、男は名乗った。それが本名であるかどうかは定かではないが。
「いくつか質問をする。」
「その前に、いいかぃ?」
男は遠慮がちに、手を肩の高さに挙げた。
「──何だ。」
「ここは、何処なんだぃ?」
「……そんなこと、どうだっていいだろう。
──裏切り者の記者さん?」
その言葉で、男は眉を寄せた。
「? どうしてアンタはそれを知ってる?」
「カマを掛けたらすぐに引っかかりそうだな、アンタ」
「カマを掛けたのか?」
「いいや?
だが、はとはどういう意味だ?」
「そこ、単なる言い違いってことで流しちゃくれんのか?」
「その発言からして無理だ。」
「……私が記者だと知るものは、もういないはずなんだがな。」
男は記者であった。
少年と似たような職業の者の専門だといってもいいほど、この職種の者の取材は、この男が行っていた。
この職種の者についての詳しい、多くの情報を持っているのは、男だけのはずだ。
万一何かあれば、この男を消すだけでいい。
その安心感からか、男への信頼によるものからか、多くの者が、男に対しては、口が軽くなった。
だから男は、この職種に就く多くの者たちの秘密を知った。
そして、あることを知ってしまった。
だからそれが実行に移される前に、実行予定者とその情報を男に流した者を、依頼して消した。
消すことが可能な人物を特定できそうな者も、まとめて消した。
もちろん男は記者もやめた。
ついでとばかりに自分の存在すらも、書類上から抹消した。
その過程でどれだけの巻き添えがあったのかも、隠蔽されてしまっているためにわからない。
だが確実に、この職種の数割の者が、短期間のうちに消えた。
それ以来、この職種の者の中では男の名と記者が結びつけられることはなくなったが、別々の、全く関係のないものとして、どちらも語り継がれている。といっても、たかが数十年の話だが。
「アンタがそうするために雇った奴が知り合いなんだってことにしといてくれ。」
「アイツも消したはずなんだがな。」
ある意味で、この職種の者にとって最も恐ろしい男である。
「消せてなかったんじゃないか?」
「確実に消したさ。
アイツだけは、信頼できる奴に頼んだ。」
「じゃ、ソイツが実は信用ならんかったってだけだ」
今までヘラヘラとしていた男の顔が、急に引き締まった。
「──お前は、誰なんだ?」
「特別に本名を名乗ってやろうか?」
少年は、からかうように言った。
実際、からかっていたのかもしれない。
「本名を名乗られてもここいらじゃわからんだろう?」
「そうだな。
でも俺は、ただのしがない慈善家だ。」
意外とすんなりと少年が応答してくれるため、男は重ねて尋ねた。
「……誰のために?」
「友達。
──そう、アイツと俺はただの友達で、それ以上でも以下でもない。」
その虚空を見つめた呟きに、男はついに呆れた。
「なにがしたいんだ?」
「アンタを殺したい」
即答だった。
「……ならこんなまどろっこしいことをしなくても、さっきの彼女に依頼すればよかったんじゃないか?」
「物理的に殺すとか、命を奪いたいわけじゃないんだ。
──社会的に殺したいだけ」
「私はもう死んでいるんだが?」
「書類上だろ?
現実社会には興味ない。」
「……二次元?」
頭大丈夫か?といった目で男は少年を見上げた。
「マンガやらじゃない。
ネット上とか、この社会とかのことだ。」
少年の言うこの社会とは、少年と似たような職種の者たちの中でのコミュニティのことだ。
目を付けられると殺されるまで逃げられないような状態になる。死ぬまでではない。
「この辺でいいよな。
じゃ、俺からの質問。」
「答える義理はない。」
「義理はなくても義務はある。」
少年は面倒そうに前髪をかきあげた。
その下から現れた目は、珍しい色をしていた。
「──だが、ここから逃げればその限りでもない。
逃げられるとは思わないで欲しいが。」
「お前を殺せば逃げられるんじゃないか?」
「アンタに俺は殺せない。
アンタは弱いし、俺はしぶといんだ。
殺したら地上の警報が作動して、この辺はすぐに警察に囲まれるしな。」
男は嫌そうな顔をした。
それをみて少年もまた、苦い顔をする。
「まずひとつ目。アンタはあの女についてどの程度知っている?」
「あの女?」
「アンタを追い回してたアイツのことだ。
名を広めるなと言われている。」
「彼女についてなら、お前の方が知っているんじゃないのか?」
「知っていたとしてもどうでもいい事だ」
そう一蹴され、男はため息をひとつついて気分を切り替えた。
「お前が彼女のことをどう呼んでいるのかを、まず教えてもらいたい」
「なぜだ?」
「彼女は名前が多くてね。どれで呼ぶべきかわからないから馴染みのあるもので統一したいのさ」
そう言われ、少年は首をひねった。
「……俺はアイツをあまり名で呼ばない。
本名か、D.Hか、そのときの気分だ。」
「D.H? その由来は?」
「アンタ知らないのか?」
「知らないから尋ねるのさ。
やっぱり記者の性分なのかもしれんな。」
そう言いながら、男はどこからかメモ帳とペンを取りだす。
「そう言う俺も知らないさ。
アイツがそう名乗ってることがあるんだ。
確か、本の表紙にも書いてあった。──あれは著者名じゃないか?」
「D.Hという著者の作品を愛読していたのか?」
「……アイツがホワイトブックを持ち歩いていることは知っているか?」
「新情報だ。」
「──もうやめよう。
俺はアンタと話していると情報漏洩しかしない気がする。」
現にこの短い間、男から得た情報は少女が複数の名を有することくらいだが、少年は少女の、男が未知であった呼び名と、所持品の情報を与えている。
「私は構わないのだがな」
男は笑った。
「あいつに任せることにするか」
少年はそれに構わず、表情を消し去って呟いた。
「彼女に?」
「いいや?」
少年は座っている男の鳩尾に拳をねじ込んだ。
「……痛いな」
突然のことに防御できずまともにくらったが、男はメモ帳とペンを取り落として少し顔をしかめただけだ。
後ろに倒れなかったのは、少年が男の首を掴んでいるから。
「気絶しないか。」
「……しないだろう。
……マンガじゃあるまいに……」
男の首から手を離すと、少年の手には、ボタンのようなものが端についた直方体の小型機械が。
胸のあたりを押さえて軽く咳き込む男はそれに気付いていない。
男が取り落としていたメモ帳とペンは足を使って畳の外に落とした。
小型機械の中程に力を込めるが、折ることは叶わない。
少年はそのままゆっくりとした足取りで男から離れた。
途中メモ帳とペンを拾い、そのまま部屋にひとつしかない出入り口から部屋を後にする。
残された男はまもなく意識を失い、倒れた。