第8話 知らぬが仏
思わず拍子抜けしてしまいそうなほど、明るい声。
声だけで判断するなら、もう許してくれたのかも知れない。でも私は、顔を上げられなかった。床の木目をただジッと見つめる。
「泣いて逃げるかと思ったのに。意外と度胸あるんだ?」
「…それはないだろ。お前が待ってなきゃ不法侵入で訴えるって脅したんじゃないか」
「脅すだなんて大げさな。俺はそんなつもり1ミリもなかったけど」
「うそつけ」
「あ、あの…っ!」
ふたりの会話を大声でさえぎる。情けないことに声は震えて、頼りないかぎりだったけど。でも早く謝らなければ。
先手必勝とばかりに頭をふかく下げる。
「勝手に部屋に入ったり、ドレッシングをかけたり、…失礼の数々、ほんとうに申し訳ありませんでした!」
「…それで?」
ゆっくりとこちらに近づいてくるのが、気配でわかる。でもまだ顔は上げられない。申し訳なさと恐怖が80%、また裸かもしれないという不安が…20%。
「ただ謝ってすむと思ってるわけ?」
「…いえ、でもどうすれば」
「大人なんだから、それくらい自分で考えたら?」
…そう言われても。ヒヤリとした汗が流れおちた気がした。
「聞いてるとは思うけど、俺は締めきり明けなんだよ」
「え…? は、はい」
いきなり何を。そう思いつつ、慌ててうなづく。これ以上、彼の機嫌を損ねるようなことはしたくない。
「一週間ほぼ不眠不休、メシもろくに食べずに原稿仕上げて、ようやく解放されたと思ったら、さっきのあんたの仕打ち」
「……」
「勝手に部屋にあがって、頭から生臭いソースかけて、しかも変態? 露出魔?」
「……」
「あんたそれで、ごめんなさいだけですむと思うわけ?」
「…思わないです」
と言うより、思えないです。あらためて言葉にして聞いてみると、失礼の一言ではすまない。なんて事してくれたんだ、私。
「ただ謝ってすむのはガキの間だけ。でもあんたは大人なんだ。責任、とってもらう」
ああ、やっぱり訴えられるのだろうか。
「お、おい。聖」
「平さんは黙ってて」
救いの手を差し伸べようとしてくれた平野さんの言葉は、バッサリと切り捨てられてた。もう助けてくれる人はいない。どうしよう。
「自分じゃ分かんないみたいだから、責任のとり方は俺が決めてやる。いいな?」
「…はい」
ああ、もう本当に終わりだ。そう思った。なのに言われた言葉は、とても信じがたいものだった。
「じゃ、責任とって、明日から俺の食事管理よろしく」
「…え?」
「…は?」
信じられない言葉に、私と平野さんの声が重なる。それもひどく間抜けな声で。
「い、今なんて…」
私はようやく顔を上げた。震える声で確認しようとした言葉は、最後まで言えなかった。
さっきみたいに裸だからではない。いまの彼はきちんと服を着ていた。
「あんた耳ないわけ? 明日から俺の食事管理をしろって言ったんだ。それで許してやるよ」
「……」
「聞いてんのかよ。返事は?」
「……はい」
「ぼぉっとしてんな。平さん、本当にこいつで大丈夫か?」
許してもらえた喜びも、無事に仕事を得た嬉しさも、ぜんぶが吹っ飛んだ。目のまえにたつ男に釘付けで、それどころじゃない。
ふいに、数日前にきいた香織ちゃんの言葉を思いだす。
『それって、聖さんの新作じゃないですか?』
『せつなくて泣けちゃうような恋愛小説が大人気なんですよ』
あれは、桐野さんのことだったのか。ストン、とその事実が胸のなかに落ちてくる。
あの時は正直、香織ちゃんのことをバカにしていた。若い女の子にありがちなミーハーな想いだと。けれど実際に『桐野聖』をみて、私は自分の考えが間違っていたと気づいた。現にいま、私の胸は少女のようにときめいている。
『聖さんってすっっごく! かっこいいんですよっ』
シャワーの時に切ったのだろう。鼻のあたりまで伸びていた前髪は適度に切られ、ボサボサの無精ひげも綺麗にそられている。
そして現れたのは、Tシャツにジーンズ姿の美しい男。
『そこらの俳優やタレントなんかよりも、ずっと素敵なんですから』
いまなら香織ちゃんの言葉は間違いではなかったと、はっきりと言える。桐野聖という男はたしかに、私がいままで見たどんな男や芸能人よりも綺麗な顔をしていた。
「近藤さん? 近藤さ~ん」
気づくと、平野さんが目のまえで手をヒラヒラとふっていた。
「す、すいませんっ」
慌てて顔をひきしめる。きっと緩みきった表情をしていたに違いない。
それを見ていた平野は苦笑した。
「…惚れちゃった?」
「え?」
「ずいぶん長いこと聖のこと見てたから」
「あ、それは…」
「『ウニ男』じゃない、『桐野聖』の姿をみて惚れちゃったんじゃない?」
言い方はやさしい。でも平野さんの瞳は笑っていなかった。きっとここで惚れたと言ったら、平野さんは私を切るんだろう。彼が必要としているのは、『桐野聖』を好きじゃない人物なのだから。
「…そんなんじゃありません。ただ…あまりにも見た目が違ったから、驚いただけです」
ちょっと胸がときめきましたけど。そう心の中でつけ加える。
「ああ、確かにね。こっちが本当の姿。ウニ男は締めきり明けにしか現れない。ある意味貴重な光景だよ」
そう言って平野さんは笑う。私は彼に合わせるように、引きつった笑みを浮かべた。
「…なぁ、さっきから言ってるけど、ウニ男ってなに?」
いつのまにそこに座っていたのか。桐野はシャワーまえと同じ場所で、サンドイッチを頬張りながら言った。
「ああ、おもしろいだろ。近藤さんが」
「えっ? ちょっと、平野さん!」
まさか言うつもりだろうか。私がそう言っていたと。冗談じゃない。慌てて止めようとしたけど…遅かった。
「締めきり明けのお前の頭みて、ウニ男だってさ。うまいよな~、言われてみれば髪のあのハネぐあい、たしかにウニだよ。ウニ」
わははは、とお腹の底から楽しそうに笑う平野。なんて余計なことをしてくれるんだ。私はついさっき桐野にときめいて上がった体温が、いっきに冷めていくのを感じた。
「え、えっと、悪気はなかったんです。だから、その」
「…ふーん」
「き、桐野さん?」
怖い。怖くて桐野さんの顔が見られない。また怒らせてしまったかもしれない。そう思った。なのに、
「やっぱ、あんたおもしろい女だな」
「…は?」
「俺の勘は間違ってなかったってわけだ」
口のなかの玉子サンドを野菜スープで流しこんで、桐野さんは嬉しそうに口角をあげた。
「勘ってどういうことですか?」
「悪いけど、それはまた今度。メシも食べたし、そろそろ一眠りしたい」
ふぁぁ、と大きなあくびを一つ。どこまでもマイペースな人だ。
「いいだろ、平さん」
「あ? ああ、いいぞ。じゃぁ悪いけど、近藤さん今日はこれで」
「…はあ」
もう帰れ。そう言うことか。
「詳しい契約については、近藤さんの都合さえよければ明日にでも話し合いたいんだけど」
「明日ですか? 夕方まで仕事なので、その後でも良ければ」
「かまわないよ。じゃぁ、仕事終わったら名刺の番号に連絡くれる? 聖も交えて三人で決めよう」
「はい、分かりました」
私は桐野さん、平野さんにそれぞれ頭を下げる。
「じゃぁこれで失礼します」
「うん、また明日」
愛想よく笑顔で答えてくれる平野に対し、桐野はこちらを見てさえいない。今日の出来事を思い返せば、当然かもしれないけれど。
でもこれからは毎日顔をあわせるんだ。少しでもわだかまりを無くしておきたい。
「今日はいろいろとご迷惑をおかけしてすみませんでした。これからよろしくお願いします」
もう一度ふかぶかと頭を下げる。すると顔を上げたとき、桐野さんがヒラヒラと手を振っているのが見えた。顔はあいかわらず別方向を見ていたけれど、少しだけ心が軽くなる。
「失礼します」
ガチャン。202号室を完全に出て、ようやく一息つく。
いまさらだけど、風邪がひどくなったのかもしれない。なんだか頭がくらくらする。せっかくもらった休みだったのに、なんだか仕事をしているよりも疲れた。
「頭痛い…はやく部屋もどって寝よ…」
私は疲労感でふらつきながら部屋へ戻った。
だから知らなかった。私がいなくなった後で、あの二人がどんな会話をしていたのかを。
「聖、おまえ近藤さんをどうする気だよ」
「なにが?」
優里のいなくなった部屋で男達の会話はつづく。
「さっきだって、わざと彼女を困らせて楽しんでたろ」
「そんな悪趣味じゃない。楽しんでたんじゃなくて、確認してたんだよ」
「確認? 何をだよ」
平野はテーブルの上に残っていたティラミスへと手を伸ばした。だが皿に指先がふれる直前、桐野にパシンッと叩いて止められた。
「俺のでしょ」
「…いいじゃないか、少しくらいわけてくれても」
「ダメ。平さんも食べたいなら明日の契約につけ加えたら。平野良輔の食事も用意すること、ってね」
「…おまえな。俺にはれっきとした奥さんがいて、家で食事つくって待っててくれてるんだよ」
「じゃぁ要らないじゃん」
ハァ…、と呆れを含んだため息がこぼれた。
「お前って本当ひねくれてんな」
「お褒めの言葉をどうも」
「……」
あっという間にティラミスを食べきると、桐野は唇を舐めながら言った。
「さっきの話だけど」
カラン、とスプーンをおく音が部屋にひびく。
「引っ越した日の夜、ぐうせん見たときから思ってたんだ。酔って具合悪そうにグラグラしながら歩いて、あのおんな世の中の全部が気に入らないって顔してた」
「近藤さんがか?」
「そ、次の日あいさつのふりして見に行って、確信したね」
「何をだよ」
「自分の長所も短所もわかってない。『自分自身』も持っていないくせに、まわりにケチばかりつけてるバカ女だってな」
「おい聖、おまえ…」
「そして俺の創作意欲をかきたてる最高のモデルだ」
驚きと同時に不安が平野におそいかかる。なんとも複雑な表情だ。だが桐野はそんなことは気にしない。いや、見てさえもいなかった。
彼の瞳は、楽しそうにどこか遠くを見ている。
「俺決めたよ。次の小説はあいつを題材にする。もちろん、本人には秘密でね」
早々に202号室をでて、部屋に戻っていた私は知らなかった。
まさか私のいないところで、そんな話がされていたなんて。