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第7話 不安と後悔


「わかったらさっさと出て…」

「ちょっとまって」


 もしかして私は、とんでもない相手にけんかを売っていたのかもしれない。嫌な予感が頭をよぎる。どうか違っていますように。


「もう話すことはないだろ。いいから出ていけ」

「桐野、聖…?」

「は?」


 泣きたいくらいの絶望感が、心のなかを支配する。


「いきなりなに」


 ほら、間違いない。どこかで聞いたことのある爽やかで柔らかい声。見た目が違いすぎてすぐには分からなかったが、なぜか忘れられなかったその声の主を、たったいま思いだした。


「あなたが、桐野聖さんなの…?」

「…本当、何なのあんた」


 刺すような冷たい視線が、私をさらに落ち込ませる。何も言えずに唇をかむことしか出来ない。そんな私を見限り、桐野は平野へと視線を移した。


「平さん、なんなの? この女」


 平野さんは桐野さん、そして私をだまって見ると、深いため息を吐いた。ただ息を吐いただけなのに、そのなかに『失望』や『呆れ』が含まれているような気がして、逃げだしたくなる。


「…浴室に行くとき話しただろ。おまえの食事管理をお願いしようと思って、…俺が入れた」


 俺が入れた。つけ足すように言われたその言葉は、きっと平野さんの気遣いだろう。


「となりの201号室に住んでる近藤さんだよ」

「201…?」


 桐野が、まっすぐにこちらを見る。なにかを考えるような、どこかぼんやりとした瞳。


「聖?」

「ああ、思いだした。おととい挨拶しに行った時とは、ずいぶん違うんだな」

「え?」

「格好は同じような感じだけど、顔がちがう。このまえは髪はボサボサだし、化粧もくずれてグチャグチャだった」

「……」

「まるで、失恋してヤケ酒飲んで、そのまま酔いつぶれて朝になりました、って感じだった」

「おいっ、聖!」


 何の話なのかと、頭にクエスチョンマークを浮かべていた平野が、ギョッとして口を挟む。


「お前…っ、女性に向かってなんてことを…!」

「事実なんだから仕方ないだろ」

「お前はまた、なんでそう口が悪いんだっ」

「あいにく口の悪さは生まれつきでね」


 桐野の視線がふたたびこちらへと戻ってくる。

 今度はなにを言われるのか…。もうどうでもいい。投げやりになっていた私に、彼は意外な言葉をかけた。


「俺、いま何か悪いこと言ったか?」

「…え?」

「悪いだろっ」


 まるでボケとつっこみ。絶妙のタイミングで平野さんが言った。


「まったくお前は! いいか? 女性に向かって見た目のことをどうこう言うのは男として最低だぞ。たとえ相手がブサイクでもだ」


 …人のことは言えない。平野さんも十分、いや、個人的には平野さんの言葉のほうが胸に刺さる。


「この俺が経験談を教えてやろう。いいか、たとえばだな」


 コホン、と咳払いして自慢げに口をひらく。


「たとえば、たとえばだぞ。太ってる子には、肌にハリがあって若いね~とか、もち肌だね~、という感じで…」

「それって平さんの奥さんのことじゃん」

「な、なんで分かったっ?」

「……」


 幸か不幸か、話が脱線している。この隙に逃げてしまおうか。そんな考えが脳裏をよぎった瞬間、あの爽やかな声が私をとめた。


「本当にわるい意味じゃないんだけど」


 心持ち、優しさのこもった声がつづく。


「すっぴんの方がかわいい、って意味だったんだけど」

「…え、」


 まるで故障したロボットみたいに、ぎこちない動きで桐野を見よう…として止めた。とつぜん桐野が立ち上がったのだ。もちろん真っ裸のままで。


「平さん、とりあえず俺、シャワー浴びなおしてくる。…なんか、あたま生臭いし」

「あ? ああ、そうだな」


 ギュッと目をつぶって桐野さんの気配がなくなるのを待つ。うっかり目を開けたら、見たくないものまで見てしまいそうだ。

 桐野の気配が後方へとうつり、ドアノブを回す音がする。そろそろ開けても大丈夫だろうか。そう思った瞬間、


「あ、そうだ」


 背中ごしに、声が聞こえる。


「逃げるなよ。俺がシャワー終わるまで待ってろ。でなきゃ、不法侵入で訴えてやる」


 恐ろしい一言とともに、桐野さんは浴室のなかへと消えていった。


「……」

「……平野さぁん」


 無意識に泣きそうな、頼りない声がでる。逃げたいのに逃げられない。助けをもとめる相手は、もう彼しかいない。


「平野さん、私どうすればいいですか」

「う、うーん?」


 あさっての方向を見ながら、平野は力のない笑みをうかべた。


「失礼な態度は謝ります! 私が大人げなかったです。本当にすみませんでした。だから、どうか…」


 涙声、どころじゃない。本当に涙がにじんできた。


「訴えるのだけは止めてください。そんなことされたら私、仕事クビになっちゃうっ」

「ま、まぁこの部屋に入れたのは俺だし、助けてあげたいのは山々なんだけど…」


 ちらり、と私をみて、すぐに視線をそらす。平野さんのガッチリとした腕をつかんで、私は叫んだ。


「見捨てないでください!」

「見捨てるって、そんな人聞きの悪い」

「だってそうじゃないですか! お願いします。頼れるのは平野さんだけなんですよ~」

「そ、そう言われると…」


 頼れるのは平野さんだけ。この言葉は彼のこころに大きく響いたようだ。ヘラリとした締まりのない表情で、照れたように頭をかく。


「あ、そう言えば」


 さきほどの桐野さんと私の会話を思いだしたのだろう。とつぜん、平野さんが思いだしたように聞いてきた。


「近藤さんて聖に会ったことあったの?」

「え? ああ…、一度だけ。引っ越しのあいさつに来て下さったんです」

「あいさつ? …それっていつ?」

「おとといですけど」

「おとといねぇ…」

「…平野さん?」


 あごを撫でるようにして考えこみだした平野さんに、私は首をかしげた。それっていま重要なの?

 怪訝そうな私に気づいたのか、「なんでもない」そう言って首をふった。


「でもおととい会ってたんなら、あいつが浴室から出てきたとき気づかなかった?」

「会ったっていっても、ほんの二、三分ですよ?」

「だけど聖ってかなり個性的な風貌でしょ。記憶に残りやすいって言うか」


 確かに個性的だけど。


「でもさっきの桐野さんメガネ外してたし、髪も濡れてて印象が違ったから。…それになにより、あんな格好じゃマジマジと見られません」

「ああ…それもそうか」


 納得したのか、平野さんは小さく息をついてイスに腰掛けた。


「まぁ、とりあえずは聖の出方をみようよ。あいつにも何か考えがあるみたいだし」

「考えって…訴えることじゃなくてですか?」

「うん。確証はないけど…たぶんあいつ、ほんとうに訴える気はないと思うよ」

「え、本当ですかっ?」

「いや、だから確証はないんだってば」


 飛び上がらんばかりに喜ぶ私に、平野さんは苦笑する。私が期待しすぎないように、かといって心配しすぎないように。言葉を選んで話す。


「あいつ口は悪いけど、性格まで悪いやつじゃない。むしろ優しい奴だよ」


 そうは見えないけどね。そう言って、平野は笑った。


「口が悪いから誤解されやすいけど、根はいい奴なんだ。だから訴えるなんて酷いこと、よっぽどでなければしない。それに、近藤さんの料理も気に入ってたみたいだしね」

「え?」

「いくら空腹だからって、普段のあいつなら頭にドレッシングかけたまま食事したりしないよ」


 まぁ、普通の人ならそうよね。


「頭にドレッシングかけられた時、あいつが言った第一声、おぼえてる?」


 コクン、と頷く。


「旨い、ですよね。てっきり怒りだすと思ってたので、驚きました」

「うん、普段のあいつなら怒ってただろうね。でも怒らなかったのは、きっとあのドレッシングがおいしかったからだよ。怒りを忘れてしまうくらいね」

「…そうでしょうか」

「きっとそうだよ。ま、とりあえず俺を信じてみてよ。ね?」

「……」


 信じて安心しろ。平野さんには悪いが、はっきり言ってそんなのは無理だ。無条件で信じられるほど、桐野さんのことも平野さんのことも知らない。


 訴えられるのではないか。大手出版社へのコネをつくるどころか、恨みをかったのではないか。隣室の相手とトラブルなんて、この先ずっと気まずい思いをしなければならないのだろうか。

 桐野さんが浴室から出てくるまでの間、私は()のループに迷い込んで抜け出せなかった。平野さんが気にかけて何度か優しい声をかけてくれたけれど、その言葉さえ思い出せない。


 なにより今まで夢のために頑張ってきたものが、桐野さんの出方によっては消えてなくなるかもしれない。それが怖かった。

 生きた心地のしない時間は刻々とすぎていき、浴室のドアをあける音とともに桐野の声が聞こえた。


「あれ、ちゃんと逃げずに待ってたんだ?」


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