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第6話 見知らぬ男


「…し、失礼します!」


 …そうして202号室を飛びだしたのが、ついさっき。もうすでにリビングの時計は二時十分を回っている。


「うそ、なのかなぁ…」


 頭では分かっている。こんな上手い話があるわけない。きっとだまされているだけ。でももしも本当の話だったら?

 頭のなかで99%が嘘だと警笛を鳴らしても、残りの1%がその音をかき消す。


 ずっと探してた独立の、成功のきっかけになるかもしれない。しがないアシスタントから脱出できるかもしれない。夢が叶うかもしれない。

 たった1%だった『希望』が、私のなかでムクムクと大きくなる。


「…どんな結果でも、何もせずに後悔するよりはマシよね」


 そんな呟きが私のなかのGOサインだった。

 それから私は急ピッチで料理を始めた。大急ぎでポットのなかのお湯を鍋に移し、塩を入れパスタを茹でる。茹で時間も無駄にはできない。一緒に鍋のなかで、玉子とブロッコリー、インゲンを茹でた。


 茹で上がるまでの間に、いちょう切りにした人参と、ジャガイモを電子レンジにかけてつぶし、キュウリ、たまねぎを合わせてポテトサラダを作る。

 つぎに茹で上がったブロッコリー、インゲンにトマトを添えて、これまたサラダを作り、玉子は潰してサンドイッチにした。


 茹で上がったパスタは簡単に、和えるだけの明太子スパ。

 最後はデザート。インスタントコーヒーに浸したビスケットに、マスカルポーネチーズをのせてココアパウダーをかければ、即席ティラミスの出来上がりだ。


 パッと顔を上げると、電子時計の時間は二時二十七分。ギリギリ間にあったようだ。

 私はすべての料理をむりやり盆にのせると、202号室へと向かった。


「いやぁ、よくこれだけ作ったねぇ」


 部屋へ入るなり、平野さんは目を丸くして言った。それだけで私は嬉しくなる。なんとなく自分の料理のうでを認めてもらえたような気がしたのだ。


「平野さんの仰るとおり、作り置きしていたものも持ってきました。…どれが作り置きか説明したほうが良いですか?」


 やはり決められた時間内で出来た品は、知らせておかなければ不公平だろう。そう思って言った言葉だったが、意外にも平野さんは首をふった。


「いや、いいよ。近藤さんの手際の良さはこれで分かったし」


 そう言って、平野さんは煮しめの椎茸をつまんで口に運ぶ。


「うん。腕も確かみたいだ」

「あ、ありがとうございます」


 嬉しい。料理を評価してもらえるのは、素直に嬉しいと思う。たとえそれがその道のプロでも、そうでなくても。『おいしい』その言葉だけで、私は幸せになれるのだ。


「いい笑顔だね」

「え、」


 平野は笑った。いままでの意地の悪い笑みではなく、へらっとした優しい笑み。


「俺、近藤さんの笑顔はじめて見たかも」

「それは…だって、とても笑える状況じゃなかったですし」

「ま、それもそうか。でも笑ってたほうが良いよ。よく言うじゃん、笑う門には福来たるってさ」


 今度はぬか漬けを一枚つまむと、平野さんは私からお盆を取りあげて、そのままリビングへと向かう。どうやら重い盆をかわりに運んでくれるらしい。


「聖のやつも、もうすぐ来るから待ってね。そしたら採用試験始めるから」

「は、はい」


 平野さんのあとをパタパタと着いていきながら、緊張に声が上ずる。


「とりあえず料理並べて待っていようか」

「はい」


 男の人らしく、平野がいささか乱暴に皿を並べていく。私も一緒になって並べていると、キッチンの向こう、廊下のあたりからカタン、と音が聞こえた。

 反射的に振り向くと、そこには見たこともない男の姿。


「え、」

「え?」


 私の部屋とおなじ造りだから分かる。この男はキッチンの向こう、つまり浴室から出てきた。

 濡れて頬に張りついた黒髪。細身だが、ほどよく筋肉のついた胸板。引き締まった腹筋。そして…、


「あんた、誰?」


 どこかで聞いたような爽やかな声。けれどそれがどこでかなんて、考える余裕はなかった。


「へ、変態~っ!」


 男は裸だった。なにも身につけていなかった。布の一枚すらも。そしてそれは、私の理性を吹き飛ばすには十分すぎるものだった。


「うわっ、ちょっと近藤さん! それは止め…っ」


 平野の言葉はすでに手遅れだった。平野の叫び声とともに、私は手にしていたお手製ドレッシングを男に向かって投げる。アンチョビをきかせた自信作。そしてそれは、驚くほどのクリーンヒット。


「……」


 私の横には、暴走する私の腕をとめようとした平野さん。そして前方には、全裸で頭からドレッシングをかぶった男。静まりかえる部屋のなかで、私の荒い息がみょうに響く。


「ちょっと、いくらなんでもヤバいって」


 平野さんが顔を引きつらせる。


「真っ裸で出てきたあいつも悪いけど、今のは近藤さんも…とにかく謝って」


 静寂をやぶった平野さんの言葉に、私はようやく冷静さを取りもどした。一気に血の気が引いていく。


「あ、ああの、私…っ、すみませ」

「旨い」

「…え?」


 見ないようにしていたのに。私は見知らぬ男の裸をもういちど見る羽目になってしまった。

 いま、旨いって言った?

 顔を上げたままポカンと口をあけて固まった私のまえで、男は頭から垂れてきたドレッシングを舌でペロリとなめた。


「さきにメシ食わしてよ、(ひら)さん」

「え? あ、ああ。いいぞ」


 動揺する私と平野さんを通りぬけて、男は食事のならんだテーブルの前に腰を下ろす。両手で箸をもって、


「いただきます」


 ご丁寧に一礼してから、ぬか漬けへと箸をのばした。

 バリバリバリ。キュウリをかじる音だけが、部屋のなかに響く。なに、この人。

 呆然とする私の横で、平野さんは困ったように頭を掻いた。


「なぁ、せめて下着くらい着ろよ」

「好きで裸でいるわけじゃない。シャワー浴びるとき着替え持ってくの忘れた」


 ポテトサラダが気に入ったのか、まるでリスのほお袋のように口の中にほおばる。


「…じゃぁ、せめてタオルまけよ」

「別に平さんしかいないから良いかなと思って」

「今はちがうって分かったろ。いつまで真っ裸でいる気だよ」


 止まることなく動いていた箸の動きが止まり、男がジッと私の顔をみた。いや、見られているというよりも、観察されている、というほうが正しいかもしれない。


 目、鼻、口。顔の細部をじっくりと見て、最後に全体の印象をみる感じ。うまく言えないけれど、とにかく『観察』されていた。

 どうすれば良いかわからずに、私はあわてた。


「え…と、あの…」

「誰だっけ?」

「え、」

「どっかで見たことあるような気がするんだけど。あんたのこと」

「…はぁ」


 男の言葉に内心うなづく。見たこともない相手のはずなのに、なぜか男の声が気になった。爽やかで優しげな声色。乱暴な言葉づかいなのに、その声はどこまでも優しい。


 その声を聞いたことがあるような気がしたのだ。でもどこでだろう。それが思い出せない。

 はっきり思い出せないのは気持ちがわるい。でも今はそれよりも、


「…すみません。やっぱり先に服だけ着てもらえませんか? …目のやり場に困ります」


 大事な部分はテーブルで隠されているけれど、やっぱり落ち着かない。


「いいよ、別に。減るもんじゃないし」


 見たければ見れば。男はサラッとそんなことを口にする。

 悪いけど私には他人の、それも異性の裸をみてよろこぶ趣味はない。まるで私が変態みたいじゃない。頬がぴくりと引きつる。


「…私が嫌なんです」

「じゃぁ見なければいいだろ。後ろでも向いておけば。俺は困らない」


 その瞬間、私のなかで何かが切れた。さきほどから感じていた不満がいっきに噴きだす。


「あなたが良くても私が困ります! だいたい、どうしてあなたがソレを食べるんですかっ」

「え、近藤さん?」


 平野さんのおどろいた声が聞こえた気がしたけれど、無視した。いま私の怒りメーターは急上昇中。とりあえず発散しなければ下がりそうにない。


「私はその食事を桐野さんのために作ったんです! それをどうして見知らぬ男に、それも露出魔なんかが食べてるんですか!」

「…露出魔って、それは俺のことかよ」

「あなた以外、この部屋のどこに裸の男がいるのよっ」


 ばしんっと音をたてて、男は箸を置いた。鋭い視線が、私をとらえる。


「他人の部屋に勝手に上がりこんでるような女に言われたくないね」

「勝手にって、私は平野さんに言われて…」

「部屋の主は平さんじゃない。桐野聖だ。本人の許可がなければ、不法侵入だろ」

「そ、そんなこと」


 ないですよね? 私は助けを求めるように平野さんを見た。だが同時に平野さんは反対方向へと視線を向ける。どうやら助ける気はないらしい。


「だいたい、ここは俺の部屋だ。自分の部屋でどんな格好をしようと本人の自由だろ。あんたに責められるいわれはない」


その瞬間、怒りのバロメーターは急激に下降した。冷水を浴びたように頭のなかが、いっきに冷める。


 いま、なんて言った?



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