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第4話 甘い誘惑


「ちょっ、なんなんですっ?」

「いや~嬉しいです! 俺が三年間ものあいだ探しつづけた人材が、まさかこんなかたちで見つかるなんて!」

「は、はぁ?」

「ささ、とりあえず詳しい話は中でしましょう、中で」


 男は片手で桐野をささえたまま、もう片方の手で私を202号室に押しこもうとする。


「ちょっと、やめてください! 大声出しますよっ」

「もう出てるけど…って、ああ、もしかして俺たちのこと怪しい人間だと思ってる?」


 当然だ。この状況で怪しむなという方が無理がある。私はキッと男を睨みつけた。だが男のほうは、たいして気にもとめていないようだ。


 緩みきった顔を隠すことなく、懐から革製のケースを取りだす。革のはしを口でくわえながら、器用に取り出されたのは一枚の名刺。


「申し遅れました。わたくし翔輝社(しょうきしゃ)の書籍編集担当の平野と申します」

「え、翔輝社って…あの有名な…?」


 普段本をまったくといって良いほど読まない私でも知っている、大手出版社。私が見るのはせいぜいファッション雑誌や料理本くらいだが、小説やマンガなど、扱うジャンルも幅広い大手のなかの大手だ。


 けれど、この人がその大手出版社の社員?

 私はもういちど目のまえの男を見た。体育会系ながっちりとした体に、ヘラヘラとした締まりのない顔。なにより、出版社の人間が何でこんなところに?


 ぐるぐると駆けめぐる私の頭のなかの疑問を、目のまえの男、平野さんは読みとったらしい。


「俺みたいなのが出版社で働いてるのは納得がいかない、そんな感じだね」

「えっ…そんなことは…」

「気づいてないみたいだから言うけど、近藤さんて思ってること全部顔に出るタイプみたいだから、下手に隠さないほうが良いと思うよ」

「……」

「嘘とか上手く付けたことないでしょ」


 むかつくけど、どんぴしゃ。私はウソが苦手、隠しごとも苦手。思ったことは全部顔に出て、酷いときには口からも出る。それも無意識に。

 そのせいで誤解されることも多く、なんども痛い目にあっている。でもこればかりは、直そうにも簡単には治らないようだ。実際にいまだって、私的には上手く隠していたつもりだったのだ。


 …本当につもりだけだったようだけど。


「じゃぁ、正直に言いますけど」

「うん」


 私は開き直った。


「こんな名刺を見せられても、あなたが大手出版社の編集者だなんて疑わしいし、たとえ本当だとして、そんな人がウニ…じゃなくて、桐野さんを訪ねてくるのも不思議です」


 平野と名のった男はうんうんと頷きながら、黙って聞いている。


「だいいち、それと私に何の関係が? 私を変なことに巻きこむのは止めてください!」


 思いきりきつい口調で言ってみた。なんとなく、このままだと平野のペースに流されそうな気がしたのだ。これだけはっきり言えば、大丈夫だろう。だがそんな思いはすぐに打ち砕かれた。


「うーん、前半は認める。でも後半は違うな」

「え?」

「今日のこの出会いを、妙な隣人に巻きこまれたただの不運で終わらせるか、それとも大手出版社へのコネをつかむチャンスにするか。それは近藤さん次第だ」

「チャンス?」


 一体どういう意味だろう。なぜこれがチャンスになるの?


「さっき料理教室のアシスタントをしていると言っていたけど、一生アシスタントで終わるつもり? 違うでしょ」


 予想もしていなかった言葉に、ヒュッと息をのむ。だって最近の悩みのタネを、ずばりと言い当てたんだもの。


 そう、一生アシスタントではいられない。

 もう、わたしも二十九歳。いまだ個人教室のアシスタント止まりの私を両親は心配し、「見込みがないのならば結婚を」としつこく迫られているのが現実。


 簡単に諦めたくはない。でも独立するだけの自信も実力もない。ついつい、今の安定を手放せないでいる。それが今の私だ。


「うちの出版社のことは知ってるみたいだから、その前提で話させてもらうよ」


 平野はニヤリと、意地のわるい笑みを浮かべた。


「たとえば、ここで大手出版社の人間に借りをつくっておくのも良いと思わない? いつか近藤さんが料理本を出したいと思うときが来たら、多少の力にはなれると思うんだけどな」

「……」

「ああ、それとも料理雑誌に近藤さんのレシピを載せるよう、担当部署に口添えしてあげようか?」

「…なんですか、それ」

「まぁとりあえず、俺の話を聞いてみませんかってこと。悪いようにはしないから。約束する」


 さっきまでの強引さはない。平野は202号室のドアを開け、視線だけで中にはいるよう促してくる。

 だがやはり、はいそうですか。と中に入ることはできない。


 頭のなかで危険だと警笛がなる。最近はテレビで物騒な事件の話を聞くことも多い。甘い話に誘われてついて行って、後悔し泣くことになる。今のこの状況がそれとは違うと、どうして言えるだろう。でも、


「不安だったら、ドアは開けたままにしますよ。ただこちらの都合で悪いけど、俺が今から話す内容は、他人にはあまり知られたくないんだ。だから、中に入ってもらえると助かる。コレも、そろそろちゃんと寝かせてやりたいしね」


 そう言って桐野の体をかるく持ち上げて見せる。確かにずっと支えているのは、見るからに筋力のある平野でも辛いだろう。

 選択を迫られている。私はどうして良いか分からずに、なんとなく、手にしたままだった封筒に視線を落とした。


 すべての始まりはこの封筒。この封筒が間違って私のポストに入っていなければ、今のこんな状況には絶対にならなかっただろう。

 危険。怪しい。詐欺。頭のなかで次々と警笛が鳴る。すぐに断って逃げるべきなのに、目のまえに差しだされた甘い蜜がそれを邪魔する。


 もう一度、平野に視線を向ける。彼は静かに微笑んで、私の返事をまっている。だがその表情は、まるで私の答えはYES。そうに決まっているという感じだ。


 私はもういちど手もとの封筒を見た。すると先程までは気づかなかったが、封筒の下のほうにあるものを見つけた。その瞬間、私の心は決まった。

 罠かもしれない。危険かもしれない。でも今は甘い誘惑を信じてみることにした。


「…おじゃまします」


 封筒の下のほうにあったのは、黒インクで押されたスタンプ。そこには『翔輝社 書籍編集担当部』と書かれていた。


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