第3話 謎の住人と謎の訪問者
「え…っ?」
突然のことに状況が飲み込めない。ただ分かるのは、温かくて柔らかい感触から、ソレが人間だということだけ。
ちょうど私の肩に顔を埋めるように倒れこんできたから顔は見えないが、202号室から出てきたのだ。きっと、おとといのホームレスに違いない。
「桐野さん…?」
ぐぐっと首をまわして確認する。やはり桐野さんだ。顔は見えないけれど、ウニ頭が私の頬をくすぐったので分かる。
「ちょっと、大丈夫ですか? 桐野さん!」
「……」
「具合悪いんですか? もうっ、だったら無理して出てくることなかったのに」
「……」
「…聞いてます? ってか、聞こえてます? 桐野さ~んっ」
思いきり耳もとで叫んでいるというのに、桐野の反応はまったくない。
もしかしてこれって救急車よんだほうが良いのかな。でも呼ぼうにも、まずは桐野さんを退かせなければ。悶々と考えこむ私の耳に、蚊のささやきのような声が聞こえた。
「……シ」
「え、なに? いまなにか言いました?」
肩の上で、ウニ頭がかすかに頷く。
「…メシ、食わせて…」
「……は?」
まるでダイイングメッセージだ。とても信じがたい一言をいうと、今度こそ力尽きたのか、桐野さんは全体重を私へと預けてきた。
お、重い…っ。ほっそりとした痩せ型の桐野だが、やはり成人男性。女の私に支えられるはずもない。
「ちょ、無理…っ お願いだから、桐野さん! お、起きて…」
まるで生まれたての子鹿みたいだ。プルプルと震える私のひざは、すでに限界寸前。
「も…っ、限、界!」
いっそのこと突き飛ばしてしまおうか。そんな思いが脳裏をよぎった瞬間、腕で…いや、体全体で支えていた重みが一瞬で消えた。
「おい、聖! 何してんだよ」
それが第三者のおかげだと気づくまで、数秒かかった。桐野は見知らぬ男に首根っこをつかまれて、目の前でぐったりしている。
「もしかしてお前、また何も食ってないのか?」
桐野よりもいくぶんか年上に見えるその男は、呆れた声とともにタレ目がちな目をさらにタレさせた。
「お前、俺が今日来なかったら、どうするつもりだったんだよ」
「……」
「おい、しっかりしろって!」
見るからに体育会系な大柄の男は、大声とともに、桐野の頬をペチペチと叩く。
「聖、死ぬのはまだ早い。せめて仕事あげてからにしてくれ」
男の言葉に、思わずギョッとする。冗談にしても過激すぎる一言だ。私はなんとなく慌てて口をひらいた。
「あ、あのぉ」
「え? ああ、すみません」
まるでいま気がついたかのように、男が私のほうを見た。かっこいい、とはお世辞にも言えないが、愛想のいい笑顔が浮かぶ。
「こいつがご迷惑をおかけしたみたいで」
「はぁ…」
まさか、「はいそうですね」とも言えない。返答に困っていると、私の微妙な表情をみた男は苦笑する。
「直接見てなくても大体わかります。大方こいつがドアを開けると同時に、倒れこんできたんでしょう」
「え、」
「で、あなたはどうすれば良いか困り果てていた。…どうです?」
「大方どころか、大正解です」
本当は見ていたのでは? そんな心の声が届いたのか、男は桐野に視線をおとしながら続けた。
「こいつは、いつもそうなんです。いちど仕事に集中すると、食事も風呂にはいるのも全部忘れる。で、突然こんなふうに力尽きるんです」
「はぁ…」
「たぶん俺だと思ってドアを開けたところで、力尽きたんだと思います。びっくりしたでしょう?」
カラカラと笑う男の声に、少しだけ緊張がとける。だから聞いてみた。別に興味があるわけではないけれど、なんとなく。話の流れに合わせたつもりだった。
「まぁ、それなりに…桐野さんって何か特殊なお仕事されてるんですか?」
「…え?」
「だって食事やお風呂を忘れるくらい集中して、しかも一気にやる仕事なんてあまりないから。…特殊なのかな、と思ったんですけど」
「……」
何かまずいことを言っただろうか。男は驚いた表情をして数秒かたまると、今度は眉根をよせて考えこみだした。桐野さんと私を何度も交互にみて、不思議そうに口をひらく。
「まあ、特殊っちゃあ特殊だけど…お嬢さん、お名前は?」
「は?」
「聖の彼女じゃないの?」
「ち、ちがいます!」
大慌てで否定する。両手を目のまえでブンブン振りまわす。
「隣の部屋に住んでる近藤っていいます。今はたまたま、私のところに近藤さん宛の郵便物がまぎれ込んでたから届けようと思って来ただけです」
「…そう」
だが男にとって、彼女かどうかはあまり問題ではないらしい。表情を変えることなく、次の質問がとんでくる。
「ところでさ。こいつ見て、なにか気づかない?」
「はい?」
唐突すぎる問いかけに、思わず素っ頓狂な声がでた。
「まあ今はこんな格好だから無理ないかも知れないけど…そうだ、名前! 名前は?」
「え? だから近藤ですけど」
「ああ、そうじゃなくて。こいつの名前、こいつの名前見てなにか気がつかない?」
いったい何が言いたいんだろう。
なぜか必死な男の態度を不審に思いながら、私は202号室の表札をみた。書かれているのはローマ字で『KIRINO』。それだけだ。さっきから目のまえの男が何度も呼んでいたから、下の名前は聖と言うのだろう。
『きりのひじり』
頭のなかで何度も反復するが、まったく心当たりがない。私は思ったままに答えた。
「すみませんけど、わたし桐野さんとはおとといが初対面なんです。何をそんなに気になってるのかは分かりませんけど、私には…」
「本当に? ほんっっっとうに! なにも思い浮かばない?」
さきほどからの意味不明な問いだけでも、気分が良いとは言えなかったのに、話の腰まで折られて思わずムッとしてしまう。するとそれをみた男は、ようやく平静を取りもどしたようだ。
「ああ、ごめんね。つい…、でもさ、本当にこいつ見て思うこと、何もない? 何でもいいからさ」
桐野さんを見て思うこと…?
思うことはたくさんある。ウニみたいな頭のことや、ホームレスみたいな身なりなのに持っていた高級バック。それに謎の職業。思うことはたくさんある。あるけれど…こんなこと、言っていいものなの?
私は男と、男に支えられている桐野さんを見た。桐野さんはまだ意識がないまま。もうひとりの男のほうは、何やら私の答えを目を輝かせながら待っている。
なにか、なにか言わないと。でも…ああ、言いづらい。
「…おととい初めて会った人に言うべき言葉じゃないですけど」
「いいよ、いいよ」
何がいいのだろう。とりあえず言葉を選びながら言ってみる。
「ちょっと、なんて言うか…、個性…的? な、人なのかなと」
「それだけ?」
「え、」
それだけって。
「あとは…」
ほかに何を言えと? 必死に言葉を探しているその時、桐野の頭がかすかに動いた。それを見た私の口は、勝手に動きだす。
「頭が、ウニみたいだなぁって思いました」
「は? ウニ?」
「そうウニって…あっ」
しっかり復唱されてから気がついた。初対面なのに、思いきり失礼なことを言ってしまった。いや、今のは初対面でなくともダメだろう。
「えぇっとですね、今のは、その…」
「ク…ッ、アハハハハ!」
冷や汗をかいて動揺する私のまえで、男は高らかに笑った。失礼なことを言っておいてなんだけど、おもしろくはない。
「…そんなに笑わなくても良いじゃないですか」
「いや、ごめ…っ でも『ウニみたい』だなんて。はじめて聞いたから…っ」
そして再び笑いだす。なんだか居たたまれなくて、言い訳じみたことを呟く。
「し、仕事柄たべものに敏感なんです。毎日食材ばかりみてるから、たぶんそのせいです」
「え? 仕事柄って、近藤さん、ご職業は?」
「料理教室のアシスタントです。だからもう忘れて下さ…」
「近藤さん!」
「えっ、きゃぁ!」
私の言葉はまたしても、最後まで言い切ることが出来なかった。なぜなら、目のまえの男がいきなり私の手を握りしめてきたからだ。