第2話 風邪と恋愛小説
「……最悪」
ぼうっとする頭で手もとの体温計をみると、38.5℃。やっぱり昨日の朝、薄着でふらついたのがいけなかったのだろうか。そんなことを考えながら体温計を見ていると、視界いっぱいに黄色い液体がひろがった。
「どう? やっぱり熱あった?」
パッと顔をあげると、そこには上司であり雇い主でもある塔子さんの心配そうな顔があった。
「あ…はい。38.5℃って…」
「いやだ、そんなに高かったの?」
塔子さんの切れ長な瞳がおおきく見開かれる。
「たいへん、今日の仕事はもういいから。これ飲んだら早く帰りなさい」
そういって差し出されたのは、甘い香りのレモネード。さっきの黄色い液体の正体は、これだったらしい。こくりと、それを一口飲んでから口をひらく。
「でも午後の授業の準備もまだ終わってないのに…」
私の仕事は料理教室のアシスタント。塔子さんと私、それから新人アシスタントの香織ちゃんの3人しかいない教室。だから自分で言うのもなんだけれど、私がいないとかなり困るはず。
でも私のそんな心配を、塔子さんはケラケラと笑い飛ばした。
「大丈夫よ。午後の授業までまだ二時間あるし、昼ドラ見るのを我慢すれば間に合うわ」
昼ドラを見るのは、塔子さんの毎日の日課だ。一時三十分になると、休憩室のテレビにへばり付くようにして見ている。なんだか申し訳ない。
「本当に大丈夫よ、優里。そう簡単に弓野塔子料理教室は潰れたりしないから」
塔子さんは腰に手をあてながら、わざと怒ったような顔をしていった。
「それよりも、あなたの方が大丈夫じゃなさそうよ?」
思わず黙り込む私に、塔子さんはにっこりとほほ笑んだ。
「優里はうちの大事な戦力だもの。ゆっくり休んで、早く元気になってちょうだい」
「……はい」
「よし! じゃあ香織ちゃん、悪いけど優里を家まで送ってきてくれる?」
奥の部屋でジャガイモの数を数えていた香織ちゃんに、塔子さんが呼びかける。
「えっ…、大丈夫ですよ。ちゃんと一人で帰れますから」
「いいのよ、ついでに午後の授業でつかう材料を買ってきてもらうから」
「材料?」
材料ならば、業者に頼んでもうとっくに届いているはずだ。そんな私の疑問を感じとった塔子さんが、にっこりとほほ笑む。
「予定してたエビのソースは下ごしらえが大変だから、ガーリックソースに変更しちゃおうと思ってね」
フフッと笑う塔子さんの姿に、たしかにこの教室は簡単には潰れないだろうと確信した。
***
「先輩が風邪だなんて珍しいですよね」
送ってもらう帰り道。車を運転しながら、香織ちゃんの大きな瞳が不思議そうにこちらを見ている。お願いだから、まっすぐ前をみて運転してくれないだろうか。
「うーん。たぶん昨日の朝、薄着でふらついてたからだと思うんだけど」
香織ちゃんの運転に不安を感じつつ、一応質問には答える。
「えー、だめですよっ。昨日の朝っていったら確か雪ちらついてたし」
香織ちゃんのちょっと高めの声が、車の中と熱のあがった頭にひびく。
「そうなんだけど……昨日、朝から変なお客が来たもんだから」
なんだかまぶたが重い。私はしゃべりながら瞳をとじた。
「変なお客…ですか?」
見ていなくても、香織ちゃんが首をかしげているのが分かる。ズキズキと痛み出した頭を支えているのが辛くて、窓ガラスに額をあずけた。ひんやりとした感覚が火照った頭に気持ちいい。
「うん。なんか隣に引っ越してきた人なんだけどね…」
昨日のことを思い出して、眉間にしわをよせる。
「引っ越しの挨拶に本を持ってきたのよ」
「…本?」
「そう、本」
薄く瞳を開いてみると、香織ちゃんの瞳がパチパチと瞬いていた。
「えーと…、本って何の?」
「なんだっけ、確か…『スノウプリンセス』だったかな?」
「あ、それ知ってる」
香織ちゃんが手のひらを合わせて、パンと音をならした。信号が赤のときで、本当によかった。
「それって、聖さんの新作じゃないですか?」
「聖さんって?」
「いま人気のベストセラー作家ですよっ、知りません?」
興奮気味の香織ちゃんが、再びハンドルに手を戻しながら言う。
「せつなくて泣けちゃうような恋愛小説が大人気なんですよ」
「ふーん」
本なんて読む習慣のない私には、あまり興味のない話題だ。人気のある本だから、菓子折代わりに持ってきたってことなのかな? 昨日の桐野さんの行動をそんなふうに考えてみたりする。
「それになにより、聖さんってすっっごく! かっこいいんですよっ」
「…は?」
素っ頓狂な声を上げた私を気にもとめず、香織ちゃんの声に力が入る。
「そこらの俳優やタレントなんかよりも、ずっと素敵なんですから」
「へぇー」
「『へぇー』って…先輩、興味なさすぎ」
「だって実際に見たことがあるわけじゃないし」
実感がわかないじゃない? そう言うと、香織ちゃんはプウッと頬を膨らませた。
「それはそうですけどぉ…て、あれ?」
「なに? どうしたの?」
急停車した自動車に、ばつの悪そうな香織ちゃんの表情。なんだか嫌な予感がする。
「ごめんなさい、先輩の家って西木町ですよね?」
「…そうだけど」
言いながら、辺りを見まわす。見たことのない住宅街が広がっている。電信柱に貼られている町名は…え? みどり町?
「ちょっと…道を間違えちゃったみたいです」
「……」
「ごめんなさい、本当にごめんなさいっ!」
「…いいよ、ちゃんと起きてなかった私も悪いんだし…」
「本当にごめんなさい~っ」
泣きそうな香織ちゃんをなだめてマンションに着いたのは、それから三十分後。道を間違わなければ十五分でついたはずなのだけれど。
なんだかどっと疲れがでた気がする。私はエレベーター前にあるポストの中身をかき集めると、そのまま部屋へと向かった。
エレベーターを降りて一番おくにある自分の部屋。日当たりもよく風通しもいいので気に入っていたが、今ばかりはそれが憎たらしい。
「……しんどい」
部屋につくなり、私は滅多にあけることのない薬箱に手をのばした。そこから一年以上まえに風邪を引いたときに買って置いた市販薬を引っぱり出す。それを冷蔵庫のミネラルウォーターで流しこんで……その後は記憶がない。
でも起きたときにはしっかりと布団をかぶってベットの中にいて、ストーブもついていた。記憶がなくなるくらいボウッとしていても、人間どうにかなるものなのね。そんなことを思いながら時計を見ると、針は夜の八時を指していた。いったい何時間眠ったのだろう? でも体はだいぶ楽になっている。それからお風呂に入ってそのまま眠って…だから次の日になってから気がついた。
「…これって、桐野さん宛だよね?」
熱はだいぶ下がり落ち着いていたけれど、念のために仕事は休みをもらった。病院に行って薬をもらって、その後はとくにすることがなくなってしまって。そこで昨日とってきた郵便物を整理していて気がついたのだ。たくさんのダイレクトメールに混ざった、『桐野』とかかれた茶色い封筒に。ポストの位置がとなりだから、間違えて入っていたのだろう。
(どうしよう…また下のポストに入れるよりも、直接渡した方がいいよね)
私はさっそく202号室へと向かった。ホームレス男が相手なのだからと思い、すっぴんのまま。服装もいつものジーンズスタイルにロングカーディガンを羽織っただけ。べつに恥ずかしい格好ではないし…いいよね? そんなことを考えながらインターホンを押す。
ピンポーン。
「……」
ピンポーン。
「…留守なのかな?」
インターホンを二度ほど押してみたが、反応はない。考えてみれば、いまは平日の昼間なのだ。いないほうが自然だろう。
また夜にでも来てみよう。そう思って踵を返そうとした瞬間、がちゃりとドアの開く音が背後から聞こえた。音に反応してふり返ると同時に、なにか重いものがのし掛かってくる。