第1話 かしおり持参
ピンポーン。
1月の中旬、まだまだ寒さの残る日曜日の朝。私、近藤優里は、インターホンの音とキリキリとした寒さで目が覚めた。タイマーでつくはずのストーブが動いていない。重いまぶたを必死に開けてみると、『給油』のランプがピカピカと光っている。
……最悪だ。気分が滅入ると、体調までむしばまれてしまうのだろうか。なんだか頭がズキズキと痛い。もしかして風邪? 明日からまた仕事だっていうのに、それは困る。今日は休日だし、ベットの中でのんびり過ごそう。一日中寝てれば、すぐに直るはず。そう思っていたのに……、
ピンポーン。
しつこいようだけれど、日曜日。世間一般でいう休日の朝っぱらから、私の部屋のインターホンが元気よく鳴り響く。
ピンポーン。
ベットの枕もとにある時計の針は、まだ朝の七時を指したばかり。こんな朝っぱらから押しかけてくるなんて、どうせろくな用件じゃないに決まっている。相手が誰なのかも分からないまま、私はそう決めつけた。だって私の周りには、こんなふうに他人の休日をぶち壊すような、非常識な人間はいないはずだもの。どうせ化粧品とか、変な宗教とかの勧誘に決まっている。
私は覚醒し始める意識をふたたび眠らせようと、タオルケットを頭まですっぽりと被った。うるさい音を遮るように。
ピンポーン、ピンポーン。
それでもなお、インターホンは鳴りやむ気配を見せない。くり返し鳴りつづけ、私の意識を確実に呼び覚ましていく。
…ダメよ。今日はゴロゴロして過ごすの。そう決めてたんだからっ! 私自身の意識とは逆に、どんどん鮮明になっている頭のなか。半ば苛立ちながら、私は自分自身に言い聞かせた。
ピポピポ、ピンポーン。
「……もうっ」
ピポピポピポ、ピンポーン。
「うるさーい!」
頭までスッポリと被っていたタオルケットを投げすてるようにして、私は跳びおきた。刺すような寒さが身体全体をつつみ、ブルッと身体を震わせる。心持ちひどくなった気がする頭痛に苛立ちつつ、私は重い腰を上げた。
ぎしっとベットが軋む音と同時に足をおいたフローリングが、まるで氷のようだ。そのことに顔をしかめながら、ふと気がついた。ベットのすぐ横の鏡に映し出された自らの姿。そこには、よく見慣れた格好の自分がいた。
だがそれはいつも眠るときの寝間着代わりに着ているスウェット姿ではない。ジーンズに七分丈のシャツといった、昼間の、仕事をしているときの私だ。それを見て、私は頭痛の正体をおもいだした。
「…ああ、そっか」
確か昨日は、同僚の香織ちゃんの結婚を祝って一杯飲んだのだ。まあ一杯、なんて可愛らしい量ではなかったけれど。年下の香織ちゃんに先を越されたこともあって、少し意地になっていたのかも知れない。
そんなにアルコールに強いわけでもないのに、昨日は飲み過ぎてしまった。ゆうべの記憶がひどくあやふやだ。きっと家までたどり着くので精一杯で、着替える気力もなく眠りについたのだろう。
「…いい歳して、バカみたい」
のぞきこんだ鏡のなかの自分は、ぼさぼさの頭に化粧も崩れていて、とても見られたものじゃなかった。だがそのことさえ、もうどうでも良くなってしまう。
ピンポーン。
自分の不甲斐なさを痛感しながら、私は飽きることなく鳴りつづける音へと向かって歩く。七、八歩あるいたところで、すぐにドアの前へとたどり着いた。
「どちらさまですか?」
脂ののった女の一人暮らしなんだから、ドアを開けるときと洗濯物を干すときは注意しなさいよ。そう言っていたのは、たしか実の母親だった気がする。一人暮らしをはじめて三年ちょっと。母親の忠告なんてまったく聞いたことはなかったけれど、今回ばかりは有り難くきかせて貰うことにした。やっぱり用心するにこしたことはないでしょう?
「あ、近藤さん?」
「…そうですけど」
黒っぽいドア越しに男の声が私の名前を呼んだ。たぶん、二十代後半くらい。低すぎず高すぎず。聞き心地の良い爽やかな声。
「あ―…、桐野です」
「…は?」
悪いけれど、私には桐野なんて知り合いはいない。あなた誰よ? 思わずそう言いそうになったその時、
「だから俺、きのう隣の202号室に越してきた桐野って言いますけど」
「……」
言われてみて思いだしたのは、一週間ほど前の管理人のおばさんの言葉。
『優里ちゃん、来週から優里ちゃんの隣の部屋に新しい人が入るからよろしくね』…なんて、そう言えば言われたかも知れない。だとしたら、挨拶をしないわけにはいかない。そう思ってドアを開くと、そこには想像もしないとんでもない姿があった。
ボサボサの無精ひげに、同じくボサボサの頭はまるでウニみたいだと思った。来ているワイシャツとパンツは何日も着ているのかシワくちゃだし。かけている眼鏡も……なんか歪んでない? お風呂に何日も入っていないのも、なんとなく雰囲気で分かった。
なに、この人。まるでホームレスだわ。
「……」
「…近藤さん?」
あまりにも個性的なその姿に見入っていると、ホームレス…じゃなかった。桐野さんは訝しげに眉を寄せながら、もう一度わたしの名前を呼んだ。その姿からは想像も出来ないほどの爽やかな声で。
「きのうも伺ったんですけど、なんか留守だったみたいだったので…」
そう言って桐野さんは、ごそごそとカバンのなかを漁りだした。格好と同じく薄汚れた汚いカバンを…って。ちょっとまってよ。そのカバン、ひょっとしてあれじゃない? ブランドに大して興味のない私でも知っている、超有名ブランドのビジネスバック。たしかこの間テレビでそれと同じものを見たのよ。セレブ社長のオシャレチェック、とかいうやつで。
それの記憶が正しければ、たしか一のあとにゼロが五つついていた気がする。そんな高価なカバンを、どうしてホームレス…じゃなくて。こんな洒落っ気の『しゃ』の字もないような人がもっているの?
混乱する私に気づくこともなく、桐野さんは相変わらずカバンのなかを漁っている。
「あ、あったあった」
そう言って桐野さんが差し出したのは、一冊の本。
「…なんですか、これ」
いきなり本なんか差し出されても困るんですけど…。そんな私の動揺を知ってか知らずか、桐野さんはにっこりと笑って見せた。
「何って、本ですけど?」
「いや、それは分かってますけど…」
「じゃあ良いじゃないですか。お近づきの印ですよ」
「……は?」
「これから宜しくお願いします」
そう言ってぺこりと頭を下げると、桐野さんはあくびをしながら隣の部屋へと帰っていく。私は桐野さんが部屋の中に完全に消えるのを見届けてから、手もとの本へと視線を落とした。それからまたもう一度となりの部屋を見て…呟く。
「つまりこれって…菓子折ってこと?」
痛いほどの寒さと二日酔いの頭痛のなかでの出会い。このことが私の平凡な生活を大きく変えるなんて、このときは思っても見なかった。