ずーっと、ずーっと一緒だよ?
「ねえ、あかねさん」
それから何事も無く時間が過ぎ、四限を終えるチャイムが鳴った。拘束を解かれたクラスの人間が揃って帰り支度を始める中、クラスの担任の女性があかねを呼び止めた。
「はい、なんでしょうか?」
あかねが手を止めて担任の方を見ると、担任は持っていた茶色い紙袋を渡しながら言った。
「これ、今日の私の授業で使ったプリントなんだけど、これをあゆみさんの家に持っていってほしいのよ」
「ああ――」
それを受け取りながら、あかねはあゆみが座っていた目の前の座席に目をやった。
結局、あれからあゆみは学校に来ることは無かった。あかねとのしがらみは無くなったが、それでも学校に来るにはまだ抵抗があるのだろうか。
責任を感じたあかねは、二つ返事でそれを引き受けた。
「いいですよ。持っていきます」
「ありがとう。お願いね」
そう言いながら教室を出ていく担任を見つめながら、あかねはあゆみのことを考えていた。
「あゆみ、大丈夫かな…?」
それと同じ時刻、あかねの母親は、いつの間にか夫が帰宅していることに驚いていた。
「あら庄一さん、おかえりなさい」
「ああ、ただいま、雪」
「随分早いわね。ひょっとして、担当してる事件が解決したの?」
あかねの母親――雪の問いに、夫――庄一は申し訳なさそうに答えた。
「いや、事件が片付いた訳じゃないんだ。着替えとかを引き取ってほしくてね」
「あら、残念」
「それよりも雪」
庄一がそう言って、雪の両肩を両手でしっかりと掴む。
「な、何?どうしたの?」
「雪、さっき事件が片付いた訳じゃないって言ったよな?」
「え、ええ」
「俺の担当してるヤマなんだが、その犯人がこの近辺に居るらしいことが判明したんだ」
庄一の言葉に、雪が表情をこわばらせる。庄一が続ける。
「俺たちの追ってる犯人がどういう奴か、ニュースや新聞でお前も知ってるだろう?」
「連続殺人犯……」
雪がそう呟きながら、世間を騒がせている一つの事件を思い出した。
始まりは五か月前にさかのぼる。公共のゴミ捨て場に、男の死体が野ざらしで遺棄されているのが発見されたのだった。五体をバラバラにされ、胴体を損失した状態で。さらにその二十日後、今度は違うゴミ捨て場で男の死体が発見された。その男もバラバラにされ、右腕を失っていた。
警察は同一犯による犯行とみて捜査を開始したが、一向に進展の無いまま時間だけが過ぎていった。そして二ヵ月後、市民が事件の記憶を忘れかけた頃にそれは再び起こった。今度は女の死体で左腕が無かった。そしてつい最近にはまた男が殺され、両足を無くしていた。そしてそれまで被害にあった人間は、どれも十代後半だった。
連続バラバラ殺人事件。世間ではそう呼ばれていた。
「このヤマは、俺たちが必ず解決する。だから、それまでの間、外出するのは出来る限り控えてほしいんだ。万一出かけなくちゃならない時は、いつもよりずっと気をつけてくれ。いいね?」
庄一が力強く言い放ち、神妙な面持ちで雪がうなずく。
「ええ。それと、あかねにも言っておくわ」
「助かるよ。それじゃ、俺はもう行くから。洗濯よろしくね」
「庄一さん」
出ていこうとする庄一を雪が引きとめる。雪の方に向き直る庄一に、両手を胸元に当てながら雪が言った。
「気をつけてね?」
「ああ」
庄一が今度こそ出ていき、玄関に一人きりとなる。雪は新聞やニュースで連日報道されている、自分の夫が追っている事件のことに思いをはせた。
「まさか、私たちの近くに…」
少女時代に鍛えられたメンタルを持つために、雪は自分が標的となった時を想像しても、それほど恐怖することは無かった。それよりも、愛するあかねが巻き込まれることが何よりも恐ろしかった。
「あかね…ちゃんと帰ってきてね…」
雪は最悪のイメージを振り払おうと必死になった。
「ここか……」
担任の頼みを受けてから数十分後、あかねは目的の場所に来ていた。
あゆみの住まいはあかねの家のような一軒家ではなく、マンションの一室だった。そこで親元から離れ、あゆみは兄と二人暮らしをしているのだった。あかねが最初にあゆみと出会った時には、既に二人でここに住んでいたらしい。
「えーと、三二四号室、三二四号室」
管理人から言われた部屋の番号を探しながら、あかねは酷く緊張していた。あゆみとの付き合いは長いが、あゆみの家を訪れることは一度も無かったからだ。
「三二四…あった」
真上に「三二四」と書かれた鉄製の扉の前に立ち、呼吸を整える。友人の家に遊びに行くだけでこんなにも緊張している自分自身に苦笑いしながら、手の甲で扉を二回ノックした。
「すいませーん、あかねでーす」
返事がない。もう一度ノックする。
「すいませーん」
何の反応も無い。誰もいないのか?
「まさか、学校サボって二人でデート?」
あり得る。いや多分そうだ。
生来の生真面目さからくる怒りがふつふつとこみ上げてくる中、あかねは試しにドアノブに手を掛けてみた。
軽く回して引いてみる。苦も無く開く。
「え……?」
突然のことにどこか空恐ろしさを覚え、あかねが咄嗟に手を離した。ドアノブの一点を見つめながら、あかねの中で一つの結論が浮かび上がる。
「これって、ひょっとして…?」
家の中に誰かいて、寝てるのならまだいい。しかし。
連続バラバラ殺人事件。あかねの中にその単語が浮かび上がる。
襲われたのは全員十代。
もしあかねの想像した通りの事態が起こっているとしたら――。
「あゆみ!」
気付いた時には体が動いていた。恐怖を押し殺し、ドアノブを回し、一息に中に入り込む。
玄関口は電灯がついておらず、窓にもカーテンが敷かれ中は真っ暗だった。玄関からリビングにかけて廊下が真っ直ぐ伸びており、あかねはそれに従って、壁に手を当てながらゆっくり進んだ。
「あゆみ?」
やがてリビングと廊下を隔てる引き戸の前に立つ。ペンキをぶちまけたように赤い。取っ手を握る手が震えている。
「あゆみ!」
意を決し、あかねはリビングへ足を踏み入れた。
夕日が沈みうっすらと宵闇が空を覆い始める。夕飯の支度をしている時も、雪の心中は穏やかではなかった。庄一との会話で自ら思い描いた最悪の光景が、雪の脳裏に焼き付いて離れないのだった。
「ああ、でもそんなまさか、あかねに限ってそんなことは…でももし万が一そんなことが起きたら…」
心配のあまり、包丁を動かす手が止まる。その時、テレビから流れていたコマーシャルが中断され、いくつものテレビが並んだ壁面を背景に、緊迫した表情のキャスターが画面に映った。キャスターが努めて平静を保とうとしながら、手元の紙に書いてある内容を読み上げた。
「速報です。五か月にわたって関東一帯にその名を轟かせていたあの連続バラバラ殺人犯が、たった今逮捕されたそうです。繰り返します。あの連続バラバラ殺人犯が逮捕された模様です」
キャスターが同じ語句を何度も繰り返し言い続ける。台所でそれを聞いた時、雪の全身から力が抜けていった。夫が追い続け、夫が自分に警告してきたあの犯人がついに捕まったのだ。これであかねや自分が襲われることも無くなる。雪は暫く立ったまま放心状態でいたが、ポケットから携帯電話がなったことで我を取り戻した。
「雪、いるか?」
「ああ、庄一さん!」
電話を開き、夫の声を聞く。それだけで雪は絶対的な安心感に包まれた。
「庄一さん、犯人捕まったのね?今ニュースを見たわ」
「ああ、これでもう大丈夫だ。お前もあかねもな」
「良かった……でも、庄一さん?」
「なんだ?」
雪がほっとしたように庄一に尋ねた。
「あなたがこっちに来てから、随分早かったわね。何か大きなきっかけがあったのかしら?目撃者がいたとか?」
「ああ…そいつは…」
「ご、ごめんなさい。そういうのってやっぱり、話しちゃいけないのよね。私、気が緩んじゃってたわ」
「いや、そのことなんだが」
庄一が渋い声で言った。
「……」
「どうしたの?」
「…犯人のアジト見つけたって通報したの、あかねなんだ」
通報を受け、犯人の深山歩美が住んでいたマンションの一室に踏み込んだ捜査官たちは、常軌を逸した光景に正気を失いかけた。
床や壁や天井、窓にかけたカーテンや家電、調度類に至るまで、ありとあらゆるものが真っ赤に染められ、部屋の中は錆びた鉄のような匂いが充満していた。床には空になった消臭剤の瓶が散乱し、隅に置かれた空気清浄機が重々しく音を立てながら稼働していた。
立てかけられていた円筒状の容器の内側は血で真っ赤になっており、台所には真ん中に赤い染みの出来たまな板や包丁がきちんとしまわれていた。排水溝に溜まっていたモノを見て、嘔吐しない者はいなかった。
テーブルには赤く血化粧を施された裁縫セットと接着剤。そしてソファには、それらを使って両手足と首が胴体に強引に接合された、一人の男の死体があった。
解剖の結果、胴体と四肢はそれまでに殺害された被害者の物とそれぞれ一致した。そして残された首の部分は、深山歩美の兄、深山浩二のものと判明した。
「お兄ちゃんね、好きな人がいたの」
数日後、深山歩美は取調室に居た。自分の置かれた状況に憤慨するでも、悲嘆するでもなく、淡々と刑事の質問に答えていった。
「あたしもお兄ちゃんのことが大好きだった。でもお兄ちゃんは、あたしよりもその人もことばかり見てた。お兄ちゃんがどんどん離れていくようで、あたしは嫌だった。でも、ある日、閃いたの」
眠らせて、首を切って。
「作ろうって、思ったの」
外に出かけて、パーツを見つけて。
「その間、お兄ちゃんにはお留守番してもらって」
持ってきたパーツを組み合わせて。
「お兄ちゃんを作りかえるの」
あたしのお兄ちゃん。
「あたしだけを見てくれる。あたしだけを愛してくれる。あの女に汚されたお兄ちゃんを一度ばらして、本当のお兄ちゃんに生まれ変わらせようって思ったの」
歩美がクスクスと笑う。邪念の無い、恋に生きる少女の笑顔。刑事は逃げ出したくなった。
「あたし、お兄ちゃんと結婚するの!」




