私たち、友達だよね!
三日後。あゆみは愛する兄が待つ自宅へと急いでいた。以前にあかねの言っていた作戦を実行に移すため、休日を利用して自分が選んだプレゼントを兄の元へと持っていこうとしていたのだった。
「待っててね、待っててね、お兄ちゃん」
小さな紙袋と、螺旋状に白くテーピングされた自分の手と同じくらいの長さと太さの円筒を二つ、両手で抱えながら。
「今あゆみが、とっておきを持って行ってあげるから」
不安と期待と興奮の入り混じった感情で顔を赤く染めながら。
「絶対、あたしの思いを伝えるんだから!」
荷物を落とさないよう慎重に、それでもはやる気持ちを抑えきれずに小走りで帰路についていた。
「ただいまー!」
あゆみが元気良くドアを開け、乱暴に靴を脱ぎ捨てながら一目散にリビングを目指した。
あゆみの予想通り、兄はリビングにいた。いつもの白いソファに深く座り込み、じっとテレビに映っている番組を見つめていた。
「やっぱり、お兄ちゃんってば今日もテレビ見てる」
紙袋と円筒をソファの前にあるテーブルの上に置き、空気清浄機のスイッチを入れる。興味の無いようにピクリとも動かない兄を見ながら、あゆみが言った。
「今日はねー、お兄ちゃんにプレゼントがあるんだ。びっくりしないでよー?」
やけにテンションの高い調子でそう言いながら、紙袋から裁縫セットと瞬間接着剤を取り出し、次いで円筒を覆うテープをはがしていく。
「もう、とっても大きくって、持ってくるの頑張ったんだからね?」
笑顔でそう言いながら、慣れない手つきでテープをはがしていく。その間も、あゆみの心は穏やかではなかった。
どん引きされたらどうしよう。嫌われたらどうしよう。
兄の好みをあゆみは知らなかったため、プレゼントは自分の直感で選んできていた。そしてそれが兄に受け入れられるかどうかは、はあゆみには全く分からなかったのだ。
やがて先端部分で茶色い円筒本来の色が見え始めると、その先端を鷲掴みにしてねじりながら、強引に引っこ抜いた。怯える心を笑顔で隠し、あゆみが言った。
「じゃーん!お兄ちゃんへのプレゼントー!」
ゆっくりと円筒の中身を兄に見せる。むわっとした匂いが部屋中に広がる。緊張の瞬間。
「……」
それを見た兄は、目の色を変えた。ようにあゆみには見えた。
気のせい?ううん、気のせいじゃない。
「お、お兄ちゃん、気に入ってくれた?」
そっと兄の顔を横から見つめる。その時、あゆみの耳元で誰かが囁いた。
「え?」
それは良く聞きなれた、兄の声。初めて聞いた、男の声。
「それって……!」
あゆみは賭けに勝った。
次の日。あゆみは昼休みに、事の次第を嬉々としてあかねに話して聞かせた。
「本当なの!?」
「うん!あたしはっきりと聞いたんだよ!『好きだ』って!」
それを聞いたあかねが、まるで自分のことであるかのように嬉しさを爆発させた。
「すごいすごい!やったじゃないあゆみ!」
「うん!あかねちゃんのアドバイスのおかげだよ!」
プレッシャーから解放されたようにあゆみが笑う。その笑顔は小さいころに見たものよりも、あかねに片思いを打ち明けた時よりも、ずっとずっと輝いて見えた。
「なんかさあ、あゆみってさ、最近綺麗になったよね」
「え?そうかな?」
「うん、綺麗になったよ」
母親の言葉を思い出しながらあかねが言った。顔を真っ赤にして俯くあゆみを見ながら、あかねは本気で恋愛をしているあゆみのことを少し羨ましく思っていた。
「やっぱり、恋してるから?」
「え?そんなのあたしにもわかんないよ」
「私のお母さんも言ってたよ?恋は人を変えるって」
「人を変える……」
そう呟いた時、あゆみは気付いたようにポケットに手を入れて携帯電話を取りだした。
「どうしたの?」
「あ、ごめんね。誰かから電話が来たみたい」
「鳴って無かったじゃん」
「マナーモードにしてるのよ。誰かさんに言われたおかげでね」
「ああ――」
以前に授業中にあゆみの携帯が鳴ったことで、自分が彼女を強く注意したことをあかねは思い出した。
「でも常識だよ」
「ホントあかねはカタいんだから……ちょっと待っててね!」
「うん」
快活にあかねに言ってから教室を飛び出すあゆみ。あかねには、その時のあゆみがとても嬉しそうに教室を出ていくように見えた。
「うん、うん――大丈夫だよ。ちゃんと朝ご飯も食べたし、授業も真面目に受けてるって」
あゆみは、人がまばらに立ったり座ったりしている廊下の、その奥にある重厚な非常扉の隅に陣取って、小声で誰かと話していた。そしてあかねは、教室を出ていく時のあゆみの態度が気になって、その様子を遠目で見ていた。
自分から行動を起こしておきながら、あかねは自分のやっていることが信じられなかった。友人のプライベートを覗くことなど、真面目一辺倒な彼女からすれば唾棄すべき最低なことだったからだ。
それでもあかねは、自分の中にある好奇心、あゆみの恋の真相を暴かずにはいられなかった。心のモヤモヤを晴らしたいという欲求が己の良心を打ち負かしたのだった。
「それとさ、昨日のプレゼント、どうだった?あたしこういうのよくわからなかったから、気に入ってくれるかどうか不安だったんだけど……」
その一方であゆみは、あかねの苦悩など知る由も無く、恐らく彼氏との会話に興じていた。頬を紅潮させながら、背景に花を咲かせんとするほどの勢いで、己の幸せを周囲に見せつけていた。
「今も身につけてくれてるの?やったあ!気に入ってくれたのね!……え?四回も言わせるな?あはは、まあ電話するたびにこれ聞いてるよね、あたし」
あかねなど眼中にない。周りの人間など論外だ。あゆみの世界に居るのは自分と彼氏だけ。私達は背景ですらない。
ちょっとだけ疎外感を覚える。恋をするってああいうことなんだ。目線に力がこもる。
ちょっと嫉妬した。
「でもそれを言うなら、何度も電話かけてくるそっちも悪いよ。カノジョのあたしを心配してくれるのは嬉しいけど、あたしだって子供じゃないんだよ?」
遠くで聞きながら、あかねは、あゆみが自分からどんどん離れていくような感じを覚えた。自分でも捉えられないほど遠くに、あゆみが一人駆け足で向かっていく。
ちょっと寂しかった。
「それと、そのさ、今日も一緒に晩ご飯食べてもいい、かな?――いいの?ありがとう!」
「……」
やめよう。
これ以上聞いてても惨めになるだけだ。
どこか空っぽになった心を引きずりながら、あかねが教室に戻ろうとしたその時。
「じゃあまたね、お兄ちゃん……大好き」
「……え?」
思わず足を止める。
何かが心にひっかかる。
妄想が再び鎌首をもたげる。
何をバカな。何十回と聞かされてきたフレーズだ。
聞きなれた言葉のはずなのに、その調子はそれまでとは明らかに違っていて。
恍惚としていて、吐息交じりで、どこか甘くて熱っぽくて。
「あゆみ――?」
あかねが振り向く。振り向かずにはいられない。
最悪のパターンが展開されているかもしれない。確かめずにはいられない。
あゆみは携帯から耳を離し、液晶画面をじっと見つめていた。
名残惜しそうにあゆみが携帯を閉じ、そこで。
あかねと視線が重なる。
「あ――」
あかねが口を開く前に、あゆみの表情が崩れた。満面の幸せが消え去り、驚愕と絶望と悲哀とがない交ぜになった感情で顔を真っ青にする。
「あ、あゆみ?」
あかねがあゆみの名を呼ぶ。それを無視して、あゆみが顔を伏せながら早歩きであかねとすれ違い、その場を立ち去る。目尻に涙を溜めながら。
「違うの。そんなつもりじゃ――」
突然のことにあかねの頭はパニックになった。自分が何をしたのか?心当たりはいくつもあった。でもそれは軽蔑とか敬遠とか嫉妬とか、そんなんじゃなくて。
「あゆみ!」
それから二人は一言も会話をしなかった。
その日の夜、あかねは抜け殻のようにリビングのテーブルに突っ伏していた。
「ちょっと、大丈夫なの?」
「うん」
「ごはん食べる?」
「お腹すいてない」
突っぱねるあかねを見て、母親がため息をついた。
「もう、どうしたのよ一体」
「何でもないよ」
「何でもない訳無いでしょ。何かあるんだったら、話してみたら?」
あかねがゆっくりと顔を上げ、母親に言った。
「誰かを好きになるのってさ、誰でもいいわけ?」
「まあ、誰を好きになるかはその人の自由ね」
「年上とか、年下とかでも?」
「歳は関係ないわよ」
「兄妹でも?」
「ええ」
あまりにも軽い母親の返答に、あかねはその後の言葉に窮した。
「え、お母さん、え?」
「あら、いいじゃない。そういうのでも」
「でも、兄妹だよ?」
「だから何なの?相手を好きになるのは当人たちの自由じゃない。それこそ異性だろうと同性だろうと、恋をすることに変わりは無いのよ」
そうきっぱりと言い切る母親を、あかねは生まれて初めて格好いいと思った。
「でもそういうのって普通じゃないよね」
「恋に普通も何もないわよ。大体それを言うなら、私の恋愛だってちょっと普通じゃないんだから。あかねは私が昔何やってたか、知ってるでしょ?」
「暴走族でしょ?前に聞いたよ」
「レディースって言ってよ」
困ったように小さく笑いながら、母親が続けた。
「私もあの時は随分やんちゃなことをしてねえ、何度も補導されたわ。で、ある時私たちを補導した新人警官の一人が、今のお父さん」
「あり得ないよ」
「しょうがないじゃない。一目惚れだったんだもん。それで私居ても立ってもいられなくって、解放されたらすぐにその人の所に行って付き合ってくれって言ったわ。そしたらなんて言ったと思う?」
「さあ?」
「せめてもうちょっと丸くなってくれって言ったのよ。先輩の警官たちは、まさか真剣に答えるとは思ってなかったらしくって苦笑してたし、周りの仲間も呆然としてたわ。でも私は真剣に言ってくれて嬉しかった。本気で変わろうと思った」
あかねの中で、己の価値観が音を立てて崩れ始める。今までの自分の考えが、全て古臭いもののように見えてきた。
「それでチームを抜けて、丸くなったってわけ?」
「そう。恋なんてね、そんなものよ。常識なんて通用しないの」
母親の言葉が心に深く刻まれる。あかねはこの時、一つの決心をした。
夕飯を食べた後、あかねは自室にこもって携帯をいじり始めた。
電話番号を打ち、一度大きく深呼吸。気持を落ち着かせて、通話ボタンを押す。
震える手で携帯を持ち、耳につける。リズムのいい電子音が耳に響く。心臓はバクバクいっていたが、頭の中は思っていたより冷静だった。
「……はい?」
あゆみの声。いつもよりずっと調子が低い。その後ろで、何か機械の動くような重低音が響いている。臆することなくあかねが言った。
「あゆみ?」
「あかねちゃん……?」
「うん、私だよ」
暫しの沈黙。そのほんの少しの沈黙がとてつもない重みとなって、あかねの体を押し潰さんとしてくる。しかしあかねは怯むことなく、一番に言いたいことを口にした。
「あかね、その」
「……」
「ごめん」
「え?」
その一言で、あかねは自分の体が軽くなったような、許されたような気がした。しかし、そこで自分だけ満足する訳にはいかなかった。あかねが続ける。
「今日の昼休みのこと、謝りたくって。私のせいなんだよね?あれって」
「あかねちゃん……」
あゆみの声が冷たく響く。あかねが次にどう切り出そうか迷っていると、今度はあゆみの方から切り出してきた。
「あかねちゃんさ」
「うん」
「あの時のこと、聞いてた?」
「……うん」
「そうなんだ」
「あ、あのね、あゆみ、私」
「あかねちゃんはさ」
あかねの言葉を遮ってあゆみが言う。あかねは黙ってそれを聞くしかなかった。
「私のこと、変って思う?」
「変って?」
「お昼休みのこと、聞いたんでしょ?あたしとお兄ちゃんのことも全部」
「うん」
「じゃあ、あたしたちの関係も、気付いてるよね?」
「……やっぱり、そうなの?」
「……うん」
そうなのか。あかねの全身から何かが抜け落ちていく。あかねが言った。
「あゆみがあの時逃げたのって、私がそれに気付いたから?」
「うん」
「どうして私がそれに気付いたってわかったの?あの時は目を合わせただけなのに」
あかねの問いに、あゆみが小さく笑いながら答えた。
「あたしとあかねちゃん、小さいころからずっと一緒だったんだよ?大体のことは顔を見ればわかっちゃうの」
「そんな顔してた?」
「うん。びっくりしてたような、呆気にとられてたような、そんな感じだった」
「それだけで?」
「それだけであたしにはわかった。あかねちゃん、心の中で軽蔑してたでしょ?」
あゆみの一言が、あかねの心中に深々と突き刺さる。
図星だ。
「あゆみ――」
「あれを見た時、あたし思ったんだ。ああ、これであたしも終わりだって。あかねちゃんだって思ってるんでしょ?自分のお兄ちゃんと恋するのは汚いことだって」
「あゆみ!」
激しく痛む心を抑えつけながら、あかねが叫んだ。
「あゆみ、聞いて」
「な、なに?」
「私ね。確かにあの時は、あんたのこと軽蔑してた。でも今は違うの」
「違う?」
「私のお母さんが言ってた。相手が誰であれ、恋をすることに変わりは無いって。誰が誰に恋してもいいんだって」
「……ふえ?」
「私ね、それを聞いた時、あんたの関係で悩んでた自分がバカらしく思えちゃったの。だって、あんたは本気でお兄さんのこと好きなんでしょ?」
「う、うん」
「じゃあそれでいいじゃない。他人がどう言おうと、あんたがいいならそれでいいじゃない――みたいな感じにね。思うようになったのよ。うん」
「あかねちゃん…!」
受話器の向こうからすすり泣く音が聞こえてくる。あかねも思わずもらい泣きしながら、自分の思いをぶつけた。
「だからね、あのね、あの時はごめんね。本当にごめんね。それと――」
「ぐすっ……それと?」
「が、がんばってね?」
「……うん!」
翌日、あかねはいつも通りに学校に来た。その心はとても晴れやかだったが、体は鉛のように重かった。
あれから改めて友達でいることを誓い合った二人は、それまで以上に固い結束で結ばれることとなった。そしてしがらみが解かれたあかねをまっていたのは、その後二時間にも及ぶあゆみの兄自慢だった。
「砂糖吐きそう」
電話を切った時、あかねはそう呟いた。おまけに会話を終えた時の時刻は午前一時過ぎ。まだ風呂にも入ってない。
故に教室に着いて自分の机に座った時、あかねがまずとった行動は睡眠であった。
「やれやれ、他人のノロケ話を聞くのも楽じゃないわね」
机に突っ伏しながら、あかねがそうこぼす。それでもあの時のあゆみの幸せそうな話しぶりを思い出すだけで、あかねの顔には自然と笑顔が浮かんできた。
「そう言えば……」
あゆみとの会話を思い出していた時、ふと、あかねの中で疑問が浮かんできた。自分はあゆみが兄と付き合っていることを知っているのだが、その肝心の兄が現在どういう人となりをしているのか、全然知らなかったのだ。あゆみの兄に関する手持ちの情報は、小さいころのおぼろげなものでしかなかった。
「今はどこの学校に行ってて、プレゼントも何送ったんだろ?」
あゆみの兄に関する疑問は次々と浮かんでくる。だがあかねは深く考えようとはしなかった。
実際に恋をしているのはあゆみの方なのだ。自分が首を突っ込むべきではないのだろう。
「ふあ……」
とにかく、今自分に必要なのは睡眠だ。大きく欠伸をしながらそう考え、あかねは全ての思考を放棄して眠りについた。
そして意識が途切れる寸前、あかねはあゆみに向けて心の中で呟いた。
「幸せにね」




