素直になってよ、お兄ちゃん!
「それでね、困ってたあたしに、あかねちゃんが教科書貸してくれたの!」
あかねが母親と夕飯を食べていた時、あゆみは大好きな兄と一緒にテレビを見ていた。正確には、ソファーに座りテレビを見ていた位置に居た兄の隣に、あゆみが強引に座ったのだった。
さりげなく兄の左腕を取り、そっとしがみつく。そして甘えるように、兄の肩に自分の頭を乗せる
「いやー、ホントに助かったよー。あかねちゃんが貸してくれたおかげで今日やる範囲の分のコピー取れたし。やっぱり持つべきものは友達だよね!」
やや大げさにそう言って、あゆみは兄の方を見た。それでも兄は微動だにしない。
「お兄ちゃん……」
――わかってる。
兄妹で関係を持つのがどれだけ非常識なことかくらい、あゆみにもわかっていた。
もし二人の関係がばれたら、ただでは済まないだろう。有象無象の噂が飛び交い、それまでの友達は気持悪がって自分から離れていくかもしれない。
そして兄はそんなことを考えて、誹謗中傷から自分を守るためにあえて無表情を貫いているということも、あゆみは知っていた。
それでも、その態度に少しだけ哀しくなって、あゆみは頬を膨らませながら小声で呟いた。
「わかってるよ。そんなことくらい。兄妹だってことくらい」
それでもやっぱり。
「お兄ちゃん、大好きなんだよう……」
翌日。昼休み。
あゆみは今日もあかねと一緒に居た。しかし今日のあゆみはいつもよりずっと深刻そうな顔つきをしていた。
そんなあゆみからの相談に、あかねが首を捻った。
「相手を振り向かせるにはどうしたらいいかって?」
「うん。その人ってば、あたしがどんなにアプローチかけても全然気付いてくれないんだもん。昨日だってあれだけ構ってオーラ出してたのに。鈍すぎて困っちゃうよ。どうしたらいいかな?」
「いや、そう言われてもねえ……」
恋愛経験ゼロのあかねにはどうアドバイスしたらいいのか全然わからなかった。
「大体、その人の特徴もわからないし……」
「あ、そうだったね。全然言ってなかった。ええーっとね……」
指をこね合わせ、あゆみが頬を染めながら言った。
「身長は私より高くって、手足はスラッとしてて細身かな。でもひ弱って訳でも無いし、ちゃんと筋肉もついてて力仕事も得意なの。あととってもカッコいい!」
「名前はなんていうの?」
「ああ……ごめん。名前まではちょっと……」
「あ、そうなんだ。変なこと聞いてごめん」
「ううん。こっちこそごめんね。それで何か、いい案ないかな?」
「うーん……」
あかねが必死に頭を捻る。駄目だ。
何も出てこない。
「ごめん、あゆみ。私そういうの全然わからないのよ」
「ううん。それにあたしこそごめん。あかねに変なこと聞いちゃってさ」
あゆみが申し訳なさそうに俯く。そこで会話が途切れ、きまずい空気になりかける。そしてそれを敏感に察知したあかねが、必死で弁解した。
「い、いや、気にしないでよ。むしろ困ったことがあったら何でも聞いて。あたしが答えられる範囲でなら答えるから」
「あかねちゃん……」
「その……友達、だからさ……」
「……うん、ありがとう!」
あゆみが満面の笑みであかねに言う。それを見るだけで、あかねは心から救われた気がした。
やっぱりあゆみは笑ってる方がいい。
「やっぱりさ、プレゼントとかどうかな?」
その日の帰り道、あかねはあゆみと一緒に下校する途中で、そうアドバイスをしてみた。
「プレゼント?」
「片思いなんでしょ、その人に?だったらまずはこっちに気付いてもらわなくちゃ」
「で、でも、もしだよ?もしそれが失敗して、あの人に嫌われちゃったら……」
「だからって怖がってたら一生そのままだよ。両想いになりたいんでしょ?世界を変えたいんでしょ?」
「あたしの世界……」
あゆみが俯いて噛み締めるように呟き、やがて顔を上げて力強く言った。
「うん、そう、そうだよね!まずは気付いてもらわなくちゃ!」
「そうそう、それがいいって」
「ありがとう、ありがとうあかねちゃん!」
あかねの方を向いてそう言った後、まわれ右して駆けだすあゆみを見て、あかねが思わず叫んだ。
「ちょっと、今から探しに行くの?」
「うん。やっぱりこういうのは早い方がいいからね」
「駄目よ。今日はもう遅いから、また別の日にしましょう」
「えー?だってまだ六時じゃん。大丈夫だって」
「もう六時よ。今から買い物したとして、帰る頃には早くても八時は過ぎるわ。お兄さんを心配させたら駄目でしょ?」
「うー……わかったよう」
渋々納得するあゆみを引き連れて、あかねは陽の沈みかけた帰り道を悠々と歩いていった。
「……ていうことがあってさあ」
「あらあら」
その日の夜、あかねは夕飯の席で当然のように、母親に帰り道であったことを話していた。概略を聞き終えた母親がシチューをスプーンで掬うのをやめ、考え込むように言った。
「プレゼントは確かにいいかもしれないわね」
「やっぱり?」
「でもプレゼントする時に大事なのは物の金額じゃないの。何か分かる?」
「気持ちでしょ?」
「ええ、そうよ。それにしても素っ気なく言うわね」
「いや、こういうのってもう定番でしょ?」
「まあそうかもしれないけど」
そこで母親が思い出したように、あかねに尋ねた。
「ところであゆみちゃんの彼氏って、どういう人なの?」
「確か、細いんだけど力持ちとか、そんな感じのこと言ってたかな。あとカッコいいってさ。名前は言わなかったけど」
「名前を言わないのは仕方ないわね。世の中には誰が彼氏なのかを教えたがらない人もいるから。特徴聞けただけでも万々歳よ」
「聞いた相手が友人でも?」
「友人でもよ。こういうのはかなりデリケートなものなの。あなたが思っている以上にね」
そう言って再びシチューをすすり始める母親を尻目に、あかねはどこかモヤモヤした気持ちを払い切れずにいた。
その夜、あかねは椅子に腰かけながら、自室で一人懊悩としていた。あゆみが誰を好きになっているのか、片思いのことを聞かされてからずっと気になっていた疑問が、日を追うごとにあかねの心を支配していったのだった。
「誰なんだろ、あゆみの好きな人って」
母親は自分が思っている以上にデリケートな問題だと言っていた。自分は恋をしたことが無いから良く分からないが、それでもそれは友人の私にも話せないほどの深刻なことなのだろうか?たとえあゆみから名前を聞かされても、私は誰彼構わずに言いふらすような真似は絶対しないと断言できるのに。
もしかして、私は頼りにされていないのでないか?
ありとあらゆる思案が次々と湧き上がって、脳がパンク寸前になる。それらを振り払おうと必死になって頭を左右に振り、ひとしきり振り終わってから大きく深呼吸をした。
「……ひょっとして……」
ふと、空っぽになったあかねの脳内に不意に一つの考えが浮き上がった。それは腹から食道へと登って行き、言葉という形を得て口から解き放たれた。
「あゆみ、お兄さんのことが好き?」
一瞬、自分で何を言ってるのか分からなくなる。
自分の言ったことを自分で理解するために、あかねは体の動きを止め、持てる力を総動員して思考回路をフル稼働させた。
思えばあゆみは、昔から兄のことを自慢し、尊敬していた。兄の話題になれば必ず『お兄ちゃん大好き!』と人目も憚らずに言っていた。だが昔のあかねにとってそれは、二人の仲の良さを示すものでしかなかった。
今は?
時計の針が時を刻む乾いた音が、部屋の中に虚しく響く。そして時が一つ刻まれるごとに、あかねの中で清濁入り混じった妄想が次々と現れては消えていった。
「ま、まさか、まさか」
数分後、あかねは顔を真っ赤にしながら自分の考えを全力で否定していた。
「そんな訳無いよね。自分のお兄さんだもんね。そんなわけないよね」
自分の兄と。
血の繋がった兄と。
兄と。
「……ありえない」
努めて冷静になろうとしたあかねだったが、とてもそんな余裕はなかった。
「不潔だよ」
汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い。
あかねの心は、それを全力で拒絶していた。




