お兄ちゃん、こっち向いて?
その少女は台所に居た。水色のショートヘアを小刻みに揺らし、楽しそうに鼻歌を歌いながら、自分の作業に没頭していた。
ざくり。ざくり。
包丁の持ち手を持った右手の上に左手を乗せ、まな板の上にある物を切るために自分の全体重を掛ける。小柄な彼女にはかなりの重労働だが、しかし額から汗を流しながらも彼女にとっては全く苦ではなかった。
「待っててねーお兄ちゃん。今あゆみがとっておきの持ってってあげるから!」
あゆみと名乗った少女が、左手で額の汗を拭いながら、自分の首までの高さのあるカウンター越しに見える兄にそう言った。視線の向こうには白い三人がけのソファ、そしてソファの斜め左前方には大きな黒いテレビがおいてあった。ソファの正面には白いカーテンのかかった窓、そこから視線を右に動かし、右隅には空気清浄機が音を立てて稼働していた。
白いソファに座っていた兄は深く腰掛けていたのか、台所からはその後頭部しか見えていなかった。兄の方から振り向くことも無かった。
しかし、たとえ顔が見えなくても、兄の姿を見るだけであゆみは胸が張り裂けそうな気持になった。
(ああ、お兄ちゃんってば、なんであんなにカッコいいんだろ。見てるだけであゆみ、溶けちゃいそうだよ)
包丁から手を離し、目を瞑り、両手でほんのり赤くなった頬を包みながらあゆみが思った。やがて暗闇の中から浮かんでくるのは、どれもこれも兄のことばかり。
「ああ……お兄ちゃん……」
笑った兄。
怒った兄。
泣いた兄。
優しい兄。
今まで見てきた兄の全てが脳裏に投影される。小さい頃は大好きな兄の姿を思うだけで満足だったが、高校二年ともなり、心身共に成熟してきた頃合いともなると、それだけではもはや足りなかった。体の中で燻ぶる熱情に、あゆみが思わず身をよじる。
「お兄ちゃん、大好き……」
あゆみは、兄に恋をしていた。
「それで?好きな人のこと考えてトリップしてたらご飯出すのが遅れて、お兄さんに怒られたってわけ?」
都内の公立高校。その昼休み。
多くの学生がたむろする教室の右隅で、あゆみと黒のポニーテール姿の少女が机を挟んで雑談していた。
あゆみは前に、もう一人の少女は後ろにいた。
「うん……そうなの……」
「あんたねえ……」
しゅんとするあゆみに、お前が悪いとばかりにポニーテールの少女がため息をつく。
「そりゃ怒られるのも当然よ。恋愛するのは自由かもしれないけど、だからって誰かに迷惑をかけるのは良くないと思うわ」
「で、でも、あかねちゃん」
「でももヘチマもないの」
「うぐ……」
あかねと呼んだ少女にピシッと言いつけられ、ぐうの音も出ずに俯くあゆみ。言い過ぎたと思ったのか、あかねが語調を抑えて言った。
「大体あんた、自分のお兄さんと二人暮ししてるんでしょ?」
「うん」
「全部当番制なんでしょ?」
「うん。掃除するのもご飯作るのも決まってる」
「お兄さんのこと、好き?」
「……うん。世界で一番好き」
「だったらちゃんとやらなきゃ。そこら辺はメリハリつけた方がいいよ。ね?」
「うん……」
あゆみが弱く頷くのを見て、あかねは再びため息をついた。だがそれは失望ではなく、「またやったのか」という、幼馴染みの天然さ加減に対する苦笑のものだった。
あゆみとあかねは家こそ離れているが小学校からの親友だった。奔放だがどこか抜けてるあゆみと父親譲りの真面目さと頑固さを持ったあかね。一見合わなそうな二人だったが、むしろ互いの長所短所を補い合い、小学六年ごろには互いを無二の親友と認識しあうまでに信頼し合っていた。
二人の友情は鋼のように硬かった。
そしてあゆみの兄のことも、あかねはあゆみを通して知っていた。昔は良く顔を合わせることもあったが、中学に入ってからとんと姿を見なくなっていた。だがあゆみの会話から察するに生きてはいるらしい。
「それにしても」
あかねがそれまでのしかめっ面から一転、にやけ顔になりながらあゆみに言った。
「まさかあのあゆみに恋人がいるなんてねえ。最初聞いた時はびっくりだよ」
「な、なんでよ。彼氏が出来たって別にいいじゃない」
「いや、ごめん。悪い意味じゃなくてさ。あのちっこかったあゆみが人並みに恋愛するのが、なんというか不思議な気がしてさ」
あかねがそう言いながら窓越しに外の風景を眺め郷愁にひたる。
「時間が経つのって、速いよね」
「そういえば二人で動くようになってから随分経つよね。それよりさ。あかねのほうこそ、もう少し恋とかに興味持った方がいいよ?世界観変わるって。絶対いいって」
数年前よりも格段に輝きを増したあゆみの笑顔を見ながら、あかねが冷静に返した。
「あたしは特に興味ないからいいよ。それより次の授業の準備大丈夫?ちゃんと予習復習しなきゃだめだよ?」
「……その性格も直ると思うんだよなあ」
「何か言った?」
「う、ううんなんでも!」
こっそりと言ったのに聞きつけたあかねの地獄耳具合に軽く戦慄しながらも、あゆみが自分のカバンの中を探り始める。が、すぐに蒼白な表情になってあかねの方に向き直った。
「あかねちゃん……」
「うん?どうしたの?」
「教科書忘れちゃった……」
「……」
あかねが落胆のため息をついた。
その夜、あかねは自宅で、母親と共に夕飯を食べていた。遠くのテレビで刑事ドラマが映されている中、あかねが母親に聞いた。
「お父さんは今日も仕事?」
「ええ、最近大きな仕事が出来ちゃったらしくて、今日も帰れないみたい」
そう言って顔を曇らせる母親を横目で見ながら、あかねがテレビに視線を向けて呆れ半分に言った。
「お父さんもさ、なんであんな仕事してるのかな。働き口は他にいくらでもあったと思うのに」
「あら、警察官も立派な仕事の一つだと思うわよ。確かに一緒に居られない日の方が多いけど、それでも私は、いつもみんなのために体を張ってくれてるお父さんのことが大好きなんだから」
「はいはい、お母さんは本当お父さんに甘いよね」
「あなたも好きな人が出来れば、私の気持ちがきっとわかるわよ」
「好きな人ねえ……」
それを聞いたかねが、ためらいがちに母親に尋ねた。
「あのさ――」
「なに?」
「あの、私の友人の話なんだけどさ。好きな人がいるみたいなんだ」
「あら、その子青春してるじゃない」
「そいつ、今まで見てきた中で一番嬉しそうにしてたんだ……誰かを好きになるって、そんなに嬉しいのかな?」
「そりゃ嬉しいわよ」
即答する母親にあかねが思わずたじろぐ。母親が続けた。
「好きになるとね、もうその人のためなら何やったっていいって気分になるの。その人を自分だけのものにしたい。独占したいって思うの。世界が変わっちゃうんだから」
「ふーん……」
「外見から中身に至るまで、恋は人間を変えるの」
「へーえ」
力説する母親を前に、あかねは冷めた反応をするのみだった。それを見た母親が興を削がれたように不満げに言った。
「もう、なによ。自分から聞いといてその反応は」
「いや、ごめん。なんか実感わかなくてさ」
「あなたも誰かを好きになれば分かるわ。本当に凄いんだから。私なんてね――」
またしても熱を入れ始める母親に、あかねは内心ため息をついていた。




