露骨な侵入者
推理にジャンル分けしましたが、実際はもどきです。ご注意下さい。
仮にYという名前で記述しようか。
私の友人であるY氏がその現象に見舞われたのは格別に奇妙なことではなかった。
彼は過剰労働の傾向があり、そして自他共に認める神経質な性でもあった。加えてこれは彼は認めていないことだが、かなり変わった心理構造をしていた。
そんな彼が疲労の末にこの世のものとも思えぬものを知覚したとて、不思議でもなんでもないことだった。むしろ、彼の現在の状況を考えれば、もっと早くそうならなかったことに違和感さえ覚える。
彼は現在、妻と子の三人家族でアパート暮らしをしている。しかしながらこのたび、夢のマイホームを購入することになったらしい。まだ若いのに大したものである。
だがそこでひとつの問題が持ち上がった。彼曰く「福の神」が、不服を申し立てているのだという。
最初、私は彼が、彼の奥方を福の神に例えているのかと思ったが、どうやらそういうことではないらしい。
妻も子も、狭かった現在の家を捨て、新しい住居へと移れることには大賛成なのだという。反対しているのは件の福の神のみだということである。恩のある存在を捨てては行けない。というより、その存在に依るところの大きい彼は、それを捨てた後の生活が不安になったのだ、本当のところは。
そこで、彼は私の存在を思い出したわけである。高校時代にオカルト研などという現在の世において存在を認められるかも怪しい部に所属していた、風変わりな友人を。
「というわけで、来たよ。」
「ああ、久しぶりだな。ヒコ。」
別に私は新聞の父と呼ばれる知る人ぞ知る有名人の家系でも、宝石や時計を扱う某専門学校に関わりがあるわけでもないのだが、奇抜なあだ名を与えられている。これで本名に関わりがあれば少しは納得できるのだろうが、自己紹介の際にこの奇抜なあだ名まで想像できる人間は殆ど全くいないといっていいほど、関連性は低い。
「まあ、上がってくれよ。」
「今日は奥さんと娘さんはどうしてるんだい。」
「久しぶりに羽根を伸ばしてくるといいと言って、遊園地のチケットを渡したんだ。俺は昔の友人が出張ついでにやってくるのを接待する、と言ってある。」
「そう言ったからには本当に接待しろよ。美味い酒と肴は必須だな。」
「ああ、問題が片付いたら考えないこともない。こいよ、こっちだ。」
私がY氏に連れられて入った部屋は、Y氏の個室だった。一歩踏み入れ、すぐに壁に目がいった。書斎という使い方をしているらしく、本棚がぎっちりと並んでる。
「地震が起きたら真っ先に潰されるだろうな。支え棒もないし。」
「そうなる前に居を移せて万々歳、のはずだったんだがな。」
そういって彼が視線を向けたのは壁にかかったハンガーの向こう側だった。スーツの影になって入り口からだとよく見えない。私は一歩踏み出し、影を覗き込んだ、そして、驚愕した。
「あら、こんにちは。お客さんかしら。」
若々しい声で私にそう言ったのは、茶髪の若い女性であった。彼女の右手にはブラシが握られている。スーツのほこりを取っていたのだろう。
「あっ……。えっ……。こ、こんにちは。」
「なに焦ってんだよ、ヒコ。」
「いや、今焦るべきなのはお前だろ。なんだよあの女。まさか浮気――」
「おいっ、人聞きの悪いこと言うな。あの女が例のやつなんだよ。お前になんとかして欲しいんだって。」
しかしそんなことを言われたところで私は困ってしまうのだった。想定していたものは霊体とか、妖怪お化けの類とか、またはY氏の気のせいである。このような修羅場をどうにかしてくれなど言われることは考えてもいなかった。
「お前、コレ、奥さん知ってるのか。」
「知ってるはずないだろ。あいつには見えないんだそうだ。」
「じゃあ娘さんは。」
「見えてるかもしれないしそうじゃないのかもしれない。俺にはわからんよ。」
「おい、わかってるのか。これっていうかこの方は、実在してる人間だぞ。それ以外のなにものでもない。」
「わかってるよ。だって妻と娘意外には普通に見えるんだから。」
「じゃあ私なんか連れてきたってしょうがないだろう。申し訳ないが帰らせてもらうよ。」
失礼しました、彼女に向けて言いざま踵を返した私のシャツを、友人はがっちりと掴んだ。無言で振り払ってはみたものの、彼の右手は掴む場所を裾から腕に移しただけで、解放してはくれない。振り返って文句をつけようとすれば、彼は案外真面目な顔をしていた。真面目に困った顔をしていた。常に自信満々に振舞う彼にしては珍しいことである。私は足を止め、彼に向き直ることとした。
「お前がからかうつもりじゃないことも、本当に困ってることもわかった。けど、私にはどうにもできそうにないよ。相手は人間なんだから。」
それを聞いたY氏はにやりと笑った。さっきの困惑顔が嘘のように。
「それを聞いて安心した。そういうことならやっぱりお前に頼みたい。」
「私に何をしろっていうんだい。」
「妻を説得してくれよ。」
「どんな風にさ。第一、彼女の存在がばれて困るのはお前の方じゃないのか。」
「いやいや、そんなことはないんだ。俺はむしろ妻にあいつの存在を認めさせて、その上であいつと離れたいと思ってる。」
「どういうことさ。福の神なんていって大事にしてるようだったじゃないか。別れてもいいのかい。」
「それはあいつが自分で言ったんだ。お前に説明するのになんて言っていいかもわからなかったからそのまま流用させてもらっただけだ。その目で確認もしたことだし、いいからちょっと話を聞けよ。」
彼の話は荒唐無稽だった。いや、彼らしく、その口調は淀みなく構成は論理的で非常にわかりやすかった。ただ、内容が奇天烈だったのだ。
彼が妻と結婚し、それまで住んでいた独身寮からアパートへと移ったことが、契機だった。幸せに暮らす一つの家族に闖入者が現れたのは、その数日後だったという。
その日仕事から帰宅した彼を迎えたのは、身重な妻と、それから若い女だった。リビングでまったりとくつろぐ二人を見て、Y氏は彼女を奥方の友人かなにかと思ったらしい。しかし、夜が更けても一向に帰る気配のない彼女をみて、そっと妻を呼び寄せ帰らせるよう促した。
「お前も体がキツイんだし、今日はもう帰ってもらった方がいいんじゃないか。」
そう気遣う夫を見て、彼女はキョトンとした顔をしてみせた。
「誰もいないじゃない。」
奥方はそう返したらしい。
瞬間、頭にきながらも疲れているのだろうと妻を気遣った夫の行動により、その日は若い女は泊まる事となった。彼女の為に客用布団を出しながらY氏が考えたことを思うと、私も彼が不憫でならない。そして翌日、改めて「帰せ」「誰もいないじゃない」というやりとりを再度行ってはじめて、Y氏は異変に気付いたらしい。そして現在まで、奥方は彼女を認識することなく生活し続け、Y氏もそのことに頭の血管が切れそうになりながらも現状維持を続けていたらしい。
「おかしな話だなあ。」
「ああ、そうだろ。一体あいつはなんのつもりなのかなあ」
「いや、私が言ってるのはお前の態度のことだよ。家宅侵入罪でなんとでもできるじゃないか。お前が追い出したっていいし、警察に訴えたっていい。おおごとにしたくないってんなら親戚でも連れてきて視認してもらえばいい。なにも奥さんを巻き込まなくても解決できる問題だよこれは。どうして今まで放置してたんだ。」
「だってなあ、おかしなことが続くんだ。それも全部あいつが来てからなんだけどな。」
「言ってみろよ。」
「まず、気をふさぎがちだった妻が元気になった。仕事が上手くいくようになった。具体的に言えば、マタニティーブルーってやつで躁鬱状態だったのが積極的に習い事や近所づきあいをしだす精力溢れるようになってな。最近じゃあ、料理ブログもつくって結構な来訪者があるらしい。そういえばこの前、新居に越したら知り合った仲間と持ち寄りパーティーするとか言ってたな。」
「それは無事に生まれて心配事がなくなったんじゃないか。子供が出来て生活に張り合いができたとか。」
「仕事もなあ、上司が目をかけてくれるようになって。すんなり通してもらえた企画がひとつあったんだけど、そこからトントン拍子でことが進むようになったんだ。」
「確かにそれは不思議かなあ。得体の知れない女の登場で苛立ってるのに、前より仕事がはかどったってことだろ。うーん。」
「それから娘だけど、あの子はやっぱり喜んでるんじゃないのかなあ。」
「さっきの話の続きか。見えてるか見えてないかってやつの。」
「妻が言い聞かせてるから知らない振りをしてるだけで、本当はわかってるんだと思うんだがな。俺も妻も忙しくてあの子を相手にできないときなんか、会話は交わさないけどあの子とあの女で二人仲良く寄り添ってるように見えるし。」
「ふうん、そうか。」
私は相槌を打ちざま、今度は顔を左に向けた。
「ということです。どうなんですか、貴女。」
「ちょっと話を聞けよ。」といって連れて行かれたのは最初に足を踏み入れた部屋だった。若い女はまだそこにいたから、Y氏が私に語って聞かせた荒唐無稽な話は、勿論彼女にも聞こえていた。あてつけるような友人の仕打ちにも、彼女は笑って聞いていたから、この問題は案外平和的解決を見ることになるのかもしれないぞ、と私は思った。しかし、結局話が終わっても女性は一言も喋る気配がなかった。だから私は、仕様がなく、前述のように彼女に話しかけたのだった。
しかし彼女は合いも変わらず口を開かない。焦れた私達の二対の視線をその顔に受けても、にこにこと微笑むばかりであった。その様子を見てY氏は腰を挙げた。掴みかかる気かと身構えたが、どうやらそういうことではないようで、入り口へ向かって歩いていった。そういえば、人間だと断定したが、友人は彼女に触ることを試みたことがあるのだろうか。浮かんだ疑問を投げかける前に、友人は私を手招きした。
「おい、ちょっと来い。」
私は立ち上がろうとした。部屋の中央に居座る彼女と友人との距離はわずか三メートル程である。近づいたり離れたりしたところで内緒話などできない距離ではあったが、呼ばれたならば仕方ない。腰を上げ、彼のほうへと一歩二歩と近づいたとき、友人の顔が突如歪み、眉尻をあげて声を張り上げた。
「止めろっ。」
物理的に形を持ったその声に頬を殴られるようにして身体を捻れば、件の女性がベランダに向かって掛けていくところだった。
あっと思う間もなく、外へと続く窓を開け、彼女は飛び出した。
たなびくカーテンが私達二人の男の視界を遮っていた。一瞬の間のあと、慌ててベランダへと駆け寄れば、そこには人の姿はなかった。おそるおそる足元のはるか下に広がる下界も確認したが、そこには無人の駐輪場の屋根があり、人どころか動物の姿さえ見当たらなかった。
私とY氏は、呆然としたまま顔を見合わせた。
三日後、Y氏は予定通り新居へと移っていった。引っ越しましたという手紙には、Y氏と奥方と娘との三人が、幸せそうな顔で微笑む写真が映っていた。
この写真をいつどの時点で撮ったのかなど私の預かりしることではないが、それでも私は、彼の言う“マイホーム”にもあの女性は住み着いているのだろうと考えていた。
私は性格上、久しぶりに会った長らく付き合いもなかった友人に対して「新居祝いに遊びに行きたい」なんてことは言い出せない。事前に相談を受けており、なんの力にもなれなかったという出来事があってはなおのことだ。だが私は、あれから考えたことがある。
彼は何故私を呼んだのか?
私にそういったものが見えるというのは高校時代に既に周囲の友人には知れ渡っていたことだ。だがY氏は、霊や妖怪その類を平然と口に出す私自身のことを面白がってちょっかいをかけても、事象それ自体は全く信じない人間ではなかったか。実際、形式的に問いかけて見ただけで、彼は自分の中で彼女を人間だと断定していた。
とすると、私でなければいけない理由はない。もしあるとすれば、周囲の人間では困る何かがそこに存在したはずだ。そして親戚にも頼らなかったわけは――。
私はこう結論した。
あの女は奥方の身内ではないかと。
Y氏のぎっちりつまった本棚の一角、目立たない隅の方に相互依存症と書かれた書籍が並んでいた。家庭の医学等のポピュラーな書籍に混じって置かれていたので目立たなかったが、もしかしたらそれは友人が必死に現状打破を目指した苦悩の後なのかもしれなかった。それにこれはY氏には申し訳ないことだが、私はこの世のものでない友人からひとつ得た情報があった。重要な鍵を握るのは、彼の妻の妹だ。
彼女の妻の妹、即ちY氏にとっては義妹となるわけだが、彼女は若いうちにY氏の勤め先の重鎮へと嫁いでいた。が、当時から姉離れができない妹として有名だったらしい。結婚後、往復に半日を有するようになった距離を苦にすることもなく、なんと一週間に一度は姉の元へと通っていたというから驚きである。といいながら実際のところ私が驚いているのはそんな奇行を許していた義妹の夫たる人物の寛容さなのだが、彼はふたまわりも若い妻にベタ惚れであるらしいので、まあ、そういうこともあるのだろう。
Y氏はおそらくその事実を知っていたのではないか。結婚する相手の家族の写真ぐらいは当然見たことがあるはずだろうし、見知らぬ相手を家に置き続けて家族の身を危険に晒すような男でもない。私以外の第三者の介入を拒んだのも、妻の名誉と仕事先での関係を守りたかったからだろう。それと、もしかしたらであるが、私を信じてくれたのではないか。人間でないものの力を借りて私が真相に辿りつく可能性を。
Y氏の妻も義妹も、傍から見たら異常な人物と評せられてしまっても仕方がない言動をとっている。妹もさることながら、見えない振りを貫く妻の言動は不気味ですらある。愛情深い男故に彼女達の奇妙な振る舞いを甘受していたY氏だが、そろそろ誰かに断罪して欲しくなったのかもしれない。自分を含めた三人の過ちにピリオドを打つことで。
或いはこれは考えすぎで、Y氏がまた、高校時代の延長で私をからかったのかもしれないし、もしかしたら全く別の理由があるのかもしれない。全ては私の想像であり妄想である。女がベランダから飛び降りたように見えたのは何らかのトリックだろうか、正直それだけは私にもわからないのだが、彼女が霊体でもなんでもないことは私の異常なオトモダチが証言してくれている通りである。世の中とは、実に異なもの奇なるものである。
さて、新居祝いと共に郵便受けに届けられていたもう一通の葉書。Y氏とは別の友人から来たこの手紙には、またしても救いを求める声が書き連ねられている。
私が向かうことに意味があるものかどうか。
今回の件を鑑みれば、実に怪しいものである。