英雄未満、無名以上――一次史料の中の坂本龍馬
肖像画の解像度
坂本龍馬と聞いて、どんな男を思い浮かべるだろう。
長い髪をなびかせ、袴姿で刀を差し、豪快に笑う。
薩長同盟を成立させ、大政奉還を実現させ、新しい日本の姿まで描いた幕末の英雄。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』以降、龍馬はそういう人物として日本人の記憶に定着した。
もちろん、そのイメージがすべて間違いというわけではない。
龍馬は実際に人と人をつなぎ、薩摩と長州の間を動き、海援隊を組織し、政体についての構想も残した。
ただ、一次史料を追いかけていくと、少し妙なことに気づく。
そこにいる坂本龍馬は、私たちが知っている「坂本龍馬」より、ずっと小さい。
そして、その小ささが妙に面白い。
巨大な権力を持っていたわけではない。
藩主でもない。
政府の高官でもない。
軍隊を率いたわけでもない。
維新後の新政府に参加したわけでもない。
それでも、幕末の重要な人物たちの間を縫うように動いている。
英雄というには肩書きがない。
無名の人物というには、人脈が広すぎる。
そんな中途半端な場所にいた男だった。
だからこそ、一次史料の中から龍馬を見直してみたい。
英雄の肖像画を一度壁から外して、もっと解像度の高い写真に置き換えるように。
第一章 薩長同盟の部屋にいた男
坂本龍馬を語るとき、まず登場するのが薩長同盟である。
一般には「龍馬が薩摩と長州を結びつけた」と語られる。
これは龍馬の代表的な功績だ。
ただし、龍馬一人が薩長同盟を作ったわけではない。
薩摩と長州には、それぞれの政治的事情があった。
長州は幕府との戦争を前に薩摩の軍事力を必要としていた。
薩摩もまた、幕府と長州の対立を利用しながら、独自の政治的立場を築こうとしていた。
そこに木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通らがいる。
龍馬は、その中心にいた大名でも家老でもない。
それでも、両者の間を動いた。
慶応二年、薩長同盟が成立した際に残された史料には、木戸孝允が龍馬に同盟内容の確認を求めたことが分かる書簡があり、同盟の盟約書にも龍馬の関与を示す裏書が残されている。
ここで重要なのは、「龍馬が薩長同盟を一人で作った」という話ではない。
龍馬が、実際にその場にいたことだ。
政治の中心に座っていたわけではない。
むしろ、中心と中心の間を動いていた。
薩摩と長州。
武士と商人。
土佐藩と脱藩浪士。
幕府と反幕府勢力。
龍馬は、こうした境界線を越えていく。
それは、権力者には難しい仕事だった。
立場がある人間は、その立場から逃げられない。
龍馬には、それがなかった。
だから動けた。
薩長同盟の主役だった、というより。
主役たちが同じ部屋に入るための道を作った男だった。
このくらいが、一次史料から見える龍馬の姿に近い。
第二章 海援隊と船中八策――大きすぎる看板
龍馬をさらに大きく見せる二つの言葉がある。
「海援隊」と「船中八策」だ。
海援隊は、龍馬が土佐藩を脱藩した後に組織した集団である。
後世には「日本初の商社」や「近代海軍の先駆け」のような説明もされる。
だが、実際の海援隊は、そんな巨大な組織ではない。
船を使った交易や運送、政治活動などを行い、幕末の複雑な状況の中で龍馬たちが活動する拠点になった。
つまり、近代的な会社というより、龍馬の人脈と行動力を具体化した小さな組織だった。
ここでも龍馬の特徴が出ている。
何か巨大な制度を作ったわけではない。
人を集め、船を動かし、情報を運び、交渉し、商売をし、政治にも首を突っ込む。何でも屋である。
そして、もう一つが「船中八策」だ。
大政奉還、議会制度、官制、外交、軍制など、新しい国家の仕組みを示した八項目の構想だったとされる。
慶応三年六月、後藤象二郎が山内容堂へ大政奉還を進言する際、龍馬と相談して作成した時局救済策が、いわゆる「船中八策」である。
ところが、ここには少し面白い問題がある。
私たちが「船中八策」と呼んでいる文書そのものは、現存していない。
船の上で龍馬が語り、後藤に示したという逸話は伝わっているが、その場で書かれた原本は見つかっていないのだ。
一方、「新政府綱領八策」は違う。
こちらは龍馬自身の署名「坂本直柔」が入った文書として、現物が二通残っている。
「亡友帖」という文書群に収められ、慶応三年十一月――龍馬が暗殺される直前の日付だ。
つまり、「龍馬は新しい国家構想を持っていた」これは史料から言える。
しかも、それを自分の字で書き残していたことまで分かる。
しかし、「龍馬が一人で日本の新国家構想を完成させ、それを大政奉還へ導いた」となると、話が大きくなりすぎる。
龍馬は政治家ではなかった。
それでも政治を考えた。
制度を作ったわけではない。
それでも制度を語り、最後には自分の字で書き残した。
伝説になった「船中八策」ではなく、地味な自筆の「新政府綱領八策」の方に、むしろ龍馬らしさがある。
第三章 何でも屋の強さ
龍馬を肩書きで説明しようとすると、うまくいかない。
土佐藩士だったが、脱藩した。
海援隊を率いたが、正式な政府組織ではない。
薩長を仲介したが、薩摩藩士でも長州藩士でもない。
政治を語ったが、政治家にはならなかった。
大久保利通は薩摩藩士として動く。
木戸孝允は長州藩士として動く。
龍馬には、そこまで重い看板がなかった。
だから、薩摩にも長州にも土佐にも、商人にも志士にも行ける。
彼の資産は、土地でも金でも兵力でもない。
人脈だった。
そして人脈は、本人が死ねば消える。
龍馬は国家も組織も制度も残さなかった。
残ったのは、生前に結んだ人と人との関係と、いくつかの手紙と、後世の物語だけだった。
それを「偉大ではない」と見ることもできる。
だが、幕末という変化の中を、彼が絶えず人と人の間を走り回っていたことは確かだ。
龍馬は歴史の中心人物というより、歴史の中心を横切っていった人物だった。
第四章 近江屋で死んだ男
慶応三年十一月十五日。
坂本龍馬は京都の近江屋で中岡慎太郎とともに襲撃され、命を落とした。
龍馬暗殺については、長い間さまざまな説が語られてきた。
しかし、実行犯については京都見廻組説が有力である。
その重要な史料の一つが、今井信郎の供述だ。
明治初年の取り調べで、今井は、佐々木只三郎の指示によって、佐々木、今井、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の七人で近江屋へ向かったと供述している。
その供述では、龍馬を捕縛する目的だったものの、二階で斬り合いになり、龍馬らを殺害したとされている。
ここは重要だ。
龍馬は、実際に幕末の政治的対立の中で殺された。
ただし、殺されたから大物だった、とは限らない。
暗殺された人物は、後世になるとどうしても大きく見える。
死んだ人間には、その後の人生がない。
反論もできない。
失敗もできない。
その人物がその後何をしたかではなく、「何かしたかもしれなかった」で語られるようになる。
龍馬も、その例外ではなかった。
もちろん、龍馬が政治的に無害だったという意味ではない。
彼は倒幕派と接触し、人脈を広げ、幕府に対抗する政治構想にも関わっていた。
ただ、龍馬を「幕府が恐れるほどの超重要人物だったから暗殺された」とまで説明するには、別の証拠が必要になる。
少なくとも、今井の供述から直接見えるのは、龍馬を捕らえる、場合によっては討つという具体的な命令と、その実行である。
そこから「維新を左右する最大級の黒幕だった」とまで膨らませるのは、史料より物語の仕事になる。
そして龍馬が死んだ後も、歴史は止まらなかった。
大政奉還はすでに行われていた。
王政復古が続き、戊辰戦争が始まり、新政府が作られていく。
龍馬がいなくなっても、時代は進んだ。
そこに龍馬の悲劇がある。
英雄だったから歴史を動かしたのではない。
歴史が動いている最中に、龍馬という一人の男がそこを走っていた。
そして、その途中で死んだ。
第五章 龍馬はいつ英雄になったのか
では、私たちが知っている「坂本龍馬」は、いつ生まれたのか。
少なくとも、司馬遼太郎からではない。
明治時代には、すでに龍馬を英雄として描く物語が存在していた。
坂崎紫瀾の『汗血千里の駒』は、その代表例である。
国立国会図書館には明治二十三年刊の『汗血千里駒』が収蔵されており、龍馬を「天下無双の豪傑」として描く作品だったことが分かる。
つまり、龍馬の英雄化は明治から始まっていた。
司馬遼太郎がゼロから龍馬を作ったわけではない。
それでも、現代の龍馬像を語るうえで『竜馬がゆく』を外すことはできない。
司馬の龍馬は、史料に残された人物をそのまま再現したものではない。
歴史小説だから当然だ。
実在の人物を材料にしながら、会話を作り、心情を想像し、人物同士をつなぎ、一人の主人公として物語を成立させる。
その結果、史料の中では断片的だった龍馬が、一人の人格を持った人間として読者の前に立った。
豪快で、自由で、人懐っこい。
身分に縛られず、古い日本を飛び出して、新しい日本を夢見る。
非常に魅力的な主人公である。
そして、魅力的だからこそ、後世の人間はその姿を史実と混同しやすい。
ここに歴史小説の不思議な力がある。
歴史を知らない人間にも、人物を知った気にさせる。
そして、ときにはその人物のほうが、本物の史料より有名になる。
龍馬もそうなった。
史料の中にいる龍馬と、『竜馬がゆく』の龍馬。
どちらが本物なのか。
答えは簡単だ。
前者は史料から復元できる人物。
後者は史料を材料にして作られた文学上の人物である。
優劣の問題ではない。
ただ、同じではない。
エピローグ――英雄未満、無名以上
一次史料の中にいる坂本龍馬は、巨大な英雄ではない。
大きな権力を持っていたわけでもない。
維新後の国家を設計して、その国家を自ら運営したわけでもない。
自分の名を冠した制度を残したわけでもない。
それでも、無名の人物でもなかった。
薩長の間を動いた。
人をつないだ。
船を動かした。
商売をした。
政治を語った。
そして、最後には京都で殺された。
その最期には、一つだけ妙な符合がある。
龍馬が近江屋で命を落としたのは、慶応三年十一月十五日。
数え年で見れば享年三十三、満年齢で数えれば三十一。
そしてこの十一月十五日は、龍馬自身の誕生日でもある。
生まれた日に、死んだ。
偶然としてはできすぎているが、これも史料が示す事実の一つだ。
何者でもなかったから、何者にもなれた。
しかし、結局は何者にもならなかった。
だからこそ、後世の人間は彼に好きな姿を与えることができた。
英雄にもできる。
自由人にもできる。
政治家にもできる。
商人にもできる。
革命家にもできる。
だが、史料の中にいる龍馬は、もっと曖昧な男だ。
その曖昧さこそが、坂本龍馬という人物の一番面白いところなのかもしれない。
英雄になるには、少し早く死にすぎた。
無名で終わるには、人と時代に関わりすぎた。
だから龍馬は、その中間にいる。
英雄未満、無名以上。
歴史を変えた英雄だったのか。
それとも、歴史の波間を器用に泳いだ一人の男だったのか。
一次史料を追えば追うほど、その境界は曖昧になる。
ただ一つ確かなのは、幕末という巨大な時代の片隅で、坂本龍馬という男が、自分の誕生日に、人と人の間を走り抜けたまま命を落としたことだ。
その姿だけは、後世の肖像画よりずっと小さい。
だからこそ、妙に生々しい。
一次史料を漁っていて、一番戸惑ったのは、龍馬の輪郭がなかなか定まらないことだった。
薩長同盟の場面を追えば、彼は「立会人」程度の存在に見える。
海援隊の帳簿を追えば、彼は「経営に苦労する小さな組織の長」に見える。
新政府綱領八策の自筆を追えば、彼は「最後まで政治を語り続けた男」に見える。
近江屋の供述調書を追えば、彼は「政治的対立の中でたまたま巻き込まれた標的」に見える。
どの史料を選ぶかで、龍馬という人物は少しずつ違う顔をする。
これは龍馬に限った話ではないのかもしれない。
歴史上の人物というのは、一つの完成した肖像として史料に残っているわけではなく、断片の集合として残っている。
その断片をどう並べるかで、英雄にも、凡人にも、悲劇の男にも見えてくる。
司馬遼太郎は、その断片を「豪快な自由人」という一本の線でつないだ。
だから面白いし、だから多くの人に読まれた。
今回、自分がやったのは、その線を一度外して、断片をもう一度ばらばらに並べ直す作業だった。
結果として出てきたのは、英雄でも無名でもない、輪郭の曖昧な男だった。
これが「本当の龍馬」だと言うつもりはない。
線の引き方を変えれば、また別の龍馬が出てくるはずだ。
ただ、少なくとも今回引いた線は、後世の物語よりも、史料の手触りに近いところを通ったつもりでいる。




