第3話:脳内の陣取り合戦
翌週の、月曜日の昼休み。
会社の人気のない屋上で、生ぬるい春の風に吹かれながら俺は愕然と膝から崩れ落ちていた。
「アカウント設定が根本からダメすぎます。やり直しですね」
「な、なぜだぁっ!?」
俺の悲痛な叫び声が、雲ひとつない青空にむなしく吸い込まれていく。
土日の二日間を丸々使って、俺は初めて「過去の自分への手紙」(壮絶な失敗談と、そこから得た血も涙もあるマネジメントの気づき)を書き上げた。
自画自賛したくなるほどの熱量と、読者の痛みに寄り添う圧倒的な説得力。
それ自体は、あの厳しすぎる麗子師匠も「まあ、初回にしては悪くない熱気ですね」と及第点を認めてくれたのだ。
だが、俺がウキウキで設定したnoteの「アカウント名」と「プロフィール文」を見た瞬間、麗子の表情が能面のように凍りつき、すべてを台無しにする駄目出しが飛んできたのだ。
「『次世代リーダー育成ラボ@ビジネス最適化研究所』……。凡太さん、この痛々しい中二病をこじらせたようなアカウント名は何ですか。ダサすぎて直視できません」
「い、痛々しいって言うな! そしてダサいって言うな! エリートとしての威厳と専門性をアピールするには、これくらいの無駄に壮大なハクが必要だろうが! これだからビジネスの最前線を知らない素人は……!」
「マーケティングの基本中の基本である『脳内の陣取り合戦』の概念はご存知ですよね?」
俺の抗議の声を冷たく遮り、麗子が静かに言った。
「……消費者の頭の中にある空席を見つけ、そこに自分というブランドを強烈に位置づける基本戦略のことだろ? 強豪がひしめく市場で、あえて『うちは業界二位です(だから一位より一生懸命頑張ります)』と宣言してシェアを奪ったレンタカー会社の事例などが有名だ」
「知識としては相変わらず優秀ですね。では、見てください」
麗子は俺のスマホを取り上げ、noteの検索窓で『マネジメント』や『ビジネス』と打ち込み、検索結果を俺の目の前に突きつけた。
ズラリと並ぶのは、「元外資系コンサル」「フォロワー5万人の現役社長」「スタンフォードMBA卒の起業家」といった、肩書きからしてバケモノ級のアカウントたちだった。サムネイル画像からして、すでに圧倒的な『強者』のオーラが漂っている。
「いいですか? 何かに悩み、解決策を探している読者の頭の中には、すでに彼らのような圧倒的強者が『プロフェッショナル層』として陣取っているんです。そこに、ド無名で副業収益0円の凡太さんが『次世代リーダー育成ラボ』なんていう滑稽な看板を掲げて乗り込んで、勝てると思うんですか? 読者に選ばれる理由が一つでもありますか?」
「ぐっ……そ、それは……」
「強者と同じ土俵で戦ってはいけません。エリートぶる無意味なプライドはすべてドブに捨てて、『強者が絶対に参入したがらないカテゴリ』を見つけ、そのカテゴリにおける唯一無二の第一人者になるんです」
麗子の細い指が、俺のスマホの画面を滑るようにタップしていく。
入力され、確定していく新しいアカウント名とプロフィール文を見て、俺は文字通り白目を剥きそうになった。いや、少し剥いていたと思う。
『アカウント名:ぼんた@ポンコツ管理職のド底辺副業記』
『プロフィール:某上場企業の課長補佐(31歳)。会社ではエリート(自称)の顔をしていますが、副業の世界では「タイパが悪い」と言い訳ばかりして収益0円のクソダサい男です。数々のマネジメント大失敗(チーム崩壊など)と、副業での恥ずかしい赤字体験をさらけ出し、底辺から這い上がる生存戦略をリアルタイムで赤裸々に綴ります』
「ちょ、待て待て待て! 待ってください師匠! なんだこの情けない文章は! 俺の人権が! 上場企業エリートとしての威厳と社会的地位が!」
「威厳で借金が返せるんですか? 自尊心で月20万稼げるんですか?」
「ひぃっ、命だけは!」
麗子の絶対零度の瞳に見つめられ、俺は完全に沈黙した。
「よく考えてください。本物のエリート層は、自分のポンコツな大失敗や、副業で0円という惨めな数字を、リアルタイムで赤裸々に世間に語ったりしません。彼らは『成功した後の綺麗な成功譚』しか語らないからです」
麗子は少しだけ声のトーンを落とし、諭すように口を開いた。
「だからこそ、『優秀なはずなのにダメなやつが、血反吐を吐きながら頑張っている』というポジションは、誰の頭の中にもぽっかりと空いているんです。読者は、自分と同じように泥水をすすって、時には言い訳しながらも失敗している『ぼんた』の姿に共感し、応援したくなるんです。これぞ究極のブルーオーシャン戦略ですよ」
――読者の頭の中にある、親しみやすく、応援したくなる『ポンコツエリート』という独自のポジション。
理屈は痛いほど分かる。セールス戦略としては、100点満点中120点だ。
ただ、俺の31年間大切に守ってきた自尊心が木っ端微塵に粉砕されただけだ。
「……わかったよ。お前がそこまで言うなら、この『ぼんた』でやってやる。這い上がってやるよ」
「……いい返事です。その『理屈で納得すればすぐに行動に移せる素直さ』は、凡太さんの本当に立派な才能ですよ」
麗子は、ふわりと微笑んだ。
普段の氷のような無機質な態度からは想像もつかない、柔らかくて、どこか安堵したような優しい笑顔だった。
俺みたいな口だけのダメ人間を見捨てず、真剣に向き合い、叱ってくれる。彼女のその無垢な笑顔を見た瞬間、俺の胸の奥で何かが弾け、思わず手元のスマホを落としそうになった。
ドキン、と心臓の音が嫌に大きく鳴る。
俺は自分の顔が急速に赤くなっていくのを自覚し、それを誤魔化すように、ふいっとそっぽを向いた。
「ふ、ふん。当然だ。お前の教えるロジックが、少しは筋が通っているって認めただけだからな」
「そうですか。では、さっそくこの第一号の記事を無料公開で投稿しましょうか。……ふふっ、本当に素直じゃない人ですね」
麗子がくすりと、少しだけ楽しそうに笑う。
屋上のフェンス越しに見える、雲一つない真っ青な空より、その笑顔の方がずっと澄んでいて、眩しいように見えた。
俺の心の中で『noteの師匠』という存在が、『絶対に手放したくない特別な女性』という新たなポジションを強烈に確立した、決定的瞬間だった。




