第2話:ペルソナ設定の鉄拳
週末。
駅前の騒がしいチェーン系カフェではなく、あえて少し外れた裏路地にひっそりと佇む、焙煎珈琲の香りが漂うレトロな純喫茶。静かで落ち着いたこの場所が、俺と麗子の、記念すべき初コンサルの舞台だった。
ステンドグラス越しの柔らかい光が差し込むボックス席。
そこに座っていたオフの麗子は、会社での地味なグレーのカーディガンとは打って変わり、ゆったりとしたシルエットの白いニットに、鼈甲縁の丸眼鏡という出で立ちだった。年相応の、いや、それ以上に洗練された可愛らしさがあり、俺は店に入った瞬間、相手が同じ会社の事務員だと気づくのに数秒を要してしまったほどだ。
だが、そんな少しだけ高鳴った俺の動揺をよそに、彼女の口から出た言葉は、相変わらず可愛げゼロの絶対零度だった。
「で? これが、あなたが徹夜で考えたという、自慢のnote記事案のプリントアウトですか」
「そうだ。名付けて『次世代を生き抜くためのロジカル・マネジメント論〜KPIと心理的安全性のハイブリッド〜』。対象は20代から30代のビジネスマン全般だ」
俺はドヤ顔で、十ページにも及ぶ企画書をテーブルに差し出した。
これなら文句のつけようがないだろう。需要の多い巨大なパイ(読者層)を狙い、かつ本質的な正論を突いた、完璧なビジネス文書だ。俺のエリートとしての威信をかけた力作である。
麗子はそれを手に取り、三秒だけパラパラと捲り――。
ビリッ、ビリリリッ。
「ああっ!? ちょっと待て! 俺の完璧な企画書があぁぁ!」
「ただのゴミ資源ですね」
麗子は一切の表情を崩さず、真っ二つになった企画書をテーブルの端へと追いやった。え、この子こわい。手首のスナップだけであんな分厚い紙束を……。
いや、感心している場合ではない。
「な、なぜだ!? ターゲットも20〜30代と広く取っているし、論理構成も完璧だ! これをロクに読みもせずに全ボツにするなんて、俺の五十時間を無駄にする気か!? コスパが悪すぎ……っ」
彼女の目が据わったので慌てて口をつぐむ
殺気を孕んだ麗子の丸眼鏡の奥の瞳が、俺を射抜いた。
「一切実績がないのにプライドだけはいっちょ前なエリートさん。知識として『ターゲットを絞れ』ということは知っていても、どうして実践の場でやらないんですか。教えてください。『20代〜30代の全ビジネスマン』なんて、ターゲットを一切絞っていないのと同じです。万人に嫌われないように丸く整えられた無難な正論は、結果的に誰の心にも刺さりません」
麗子はアイスティーの入ったグラスを置き、身を乗り出して俺を真っ直ぐに見据えた。
「これは凡太さんの、そして頭でっかちなエリートの典型的な悪い癖です。ターゲットを広げればパイが広がり、たくさん読まれると計算上の勘違いをしている。本当は『狭く絞って、もし誰ひとり読まなかったらどうしよう』という失敗が怖いだけですよね?」
「う、ぐっ……」
図星だった。鋭利なナイフのような指摘が、俺の心の一番柔らかい部分をえぐった。
俺は自分の本心を誤魔化すように、無意識に手元のコーヒーカップを両手で包み込んだ。「誰からも評価されないのが怖い」という本音を悟られないよう、必死に無表情を取り繕う。そんな俺の無惨な抵抗など意に介さず、麗子は言葉を続けた。
「凡太さん。よく聞いてください。noteという独自のプラットフォームで読者がお金を払うのは、『今の私の切実な悩みに、ピンポイントでぶっ刺さる特効薬』を見つけた時だけです。一般的な教科書的な正論は、Google検索するか、本屋に行けばいくらでも手に入ります。あなたが戦う場所はそこじゃない」
「特効薬……。でも、顔の見えない読者のピンポイントの悩みなんて、どうやって見つければ……」
「一番手っ取り早く、かつ最も深い『痛み』を知り尽くしているペルソナが、この世界にただ一人だけ存在します」
麗子はさらに身を乗り出した。
丸眼鏡の奥の大きな瞳が、俺の顔の数センチ先まで迫る。ふわりと、柑橘系の爽やかながらも甘いシャンプーの香りが鼻をくすぐり、俺は思わず喉をゴクリと鳴らした。
「――過去のあなた自身です」
「過去の、俺……?」
「凡太さんがこれまでの人生で一番、『自分はダメだ』『死ぬほど後悔した』というビジネス上の大失敗は何ですか? それを書き出してください」
俺は無言で俯いた。
エリートとして完璧な仮面を被って生きてきた俺にとって、過去の失敗や惨めな思い出をわざわざ掘り下げるのは、火かき棒で傷口を広げられるような苦痛でしかない。
「……失敗を堂々と語るとか、ブランディングとしてタイパ悪くないか? それよりも成功体験のメソッドを語った方が……」
「コンサル初日で、まだ言い訳しますか。そもそもあなた、まだ何一つ成功なんてしてないでしょうが」
「はい。おっしゃる通りでございます」
俺は即座に白旗を上げた。この女に口答えしても絶対に勝てない。
「失敗して、もがいて、のたうち回って、それでも這い上がった血の通った経験。それこそが、何物にも代えがたい最強のコンテンツになります。私が見た凡太さんは、口先だけのどうしようもないダメ人間ですが、本業においては死ぬほど苦労して、今の課長補佐という地位にしがみついているはずです。その『泥臭い過去の凡太さん』を救うための特効薬を、自分の胸を切り裂くつもりで書いてください」
それは、ただの正論じゃなかった。
麗子の厳しい言葉の奥には、俺の本質を見透かしたような熱、あるいは祈りのようなものが籠っていた。
俺の生半可なごまかしなど全て見透かし、その上で「逃げるな」と真正面から突きつけている。そんな彼女の真剣な瞳から、俺はどうしても目を逸らすことができなかった。
「……わかった。話すよ。三年前に、俺の『正論』と『完璧なタスク管理』のせいで、チームの若手が次々とメンタルをすり減らして休職していった地獄の時期があったんだ。あの時の俺は、どうしていいか分からず、毎晩吐きそうになりながら一人残業していた……。あの頃の俺に……『お前のやり方は間違っている』と、手紙を書くように、やってみる」
俺が絞り出すように素直に答えると、麗子は初めて、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
窓から差し込む光が、彼女の笑顔を優しく照らす。
「いいですね。その素直さに免じて、先ほどの企画書の件は許してあげます。凡太さんの数少ない武器ですよ、それ」
ドキン、と俺の胸が大きく跳ねた。
なんだ、今の笑顔。
普段の「絶対零度の氷の事務員」の仮面の下に、こんなにも無防備で柔らかい表情が隠れていたのか。
俺は自分の動揺と、顔が急速に熱くなっていくのを誤魔化すように、慌ててMacBookを開き、不格好な「過去の俺への手紙」を書き始めた。
不思議なことに、いつも俺の口をついて出ていた「タイパが悪い」なんて言い訳は、もう一ミクロンも浮かんでこなかった。




