第12話:たった一つの絶対条件
初収益の祝杯をあげた金曜日の夜から明け、俺はまたいつも通りの、味気ないエリート会社員としての月曜日を迎えていた。
オフィスの自席で、俺は周囲にバレないよう、PCのモニターの陰に隠したスマホの画面をそっと立ち上げた。
ダッシュボードの数字は、金曜日の夜からさらに一件だけ増え、『購入者四名・売上2,000円(手取り約1,350円)』となっていた。
あの日、あの帰り道で感じた熱は、まだ俺の胸の奥で静かに、けれど確かに燃え続けていた。
エリートのプライドを捨て、自分の過去の生々しい無能さと向き合い、泥臭く文字を紡いだ結果、四人の見ず知らずの人間がお金を払ってくれた。その事実が、週明けの淀んだオフィスの中にあっても、俺に確かな活力を与えていた。
「おはようございます、平民課長補佐。……朝からずいぶんと気持ちの悪いニヤケ顔ですね」
いつものように音もなく背後に現れた麗子が、俺の耳元で淡々と囁いた。
「うおっ! び、びっくりさせないでくれよ。……それに、気持ち悪いとはなんだ。こっちはクリエイターとして、次の記事の構想を練っていただけだぞ」
「それは失礼しました。ダッシュボードの数字を何度もリロードして、一人で悦に入っているだけかと思いましたので」
図星を突かれ、俺は思わずむせ返った。
相変わらず、この最強の事務員には何から何まで筒抜けである。
「……まあ、正直嬉しかったのは本当だよ。週末はずっと、次にどんな記事を書こうか考えてて、ろくに眠れなかったくらいだ」
俺はスマホを慌てて内ポケットにしまいながら、少しだけ声を潜めて続けた。
「でも、分かってるよ。俺が稼げたのは、俺の実力じゃない。全部、お前が教えてくれた『プロの商売のノウハウ』のおかげだ」
俺は、偽らざる本音を口にした。
「ターゲットの絞り方も、キャッチコピーのフックの作り方も、無料と有料の残酷な壁の引き方も。もしあの夜、お前のスマホの圧倒的なダッシュボードを見て、お前に弟子入りしていなかったら……俺は今でも『万人に向けたフワフワした無難なテキスト』を書いて、タイパが悪いと文句を言いながら、月の売上0円のままだったはずだ」
俺が自虐交じりに苦笑いすると、麗子は不思議そうに首を傾げた。
「あの完璧なノウハウの型さえあれば、正直、誰がやっても同じように結果が出たと思う。俺はただ、お前の言う通りに忠実に手を動かしただけの、ただの作業ロボットだからな」
言い終わるか終わらないかのうちに、ドンッ、と鈍い音が響いた。
麗子が、持っていた分厚いキングファイルの角で、俺の机を強く叩いた音だった。周囲の社員が何事かと一斉にこちらを振り返る。
「……な、なんだよ。急に机を叩いたりして」
「訂正してください」
麗子の声は、普段の冷え切った、あるいは呆れたようなトーンとは全く異なっていた。
その声には、明確な『怒り』が、静かに、けれど激しく籠もっていたのだ。
「誰がやっても同じ? ただの作業ロボット? ……ふざけないでください」
彼女は俺の目の前に立ち、その丸眼鏡の奥の瞳で、俺から一切の逃げ道を奪うように真っ直ぐに見据えてきた。
「私はあなたに、『型の使い方』を教えました。でも、その型に流し込むための『血の通った言葉』は、私が教えたものではありませんよ」
「血の通った、言葉……?」
「はい。ビジネス書の丸写しではない、あなたが三年前に部下を休職させてしまったことへの、どうしようもない後悔。自分だけがサービス残業をしてすり減っていく、中間管理職としてのリアルな絶望。……あの記事の無料部分で、読者の心を鷲掴みにして離さなかった強烈な『痛み』の描写は、凡太さん、あなたが自分自身の醜い傷口を開いて、血を流しながら言葉にしたからこそ生まれたものじゃないですか」
麗子の言葉に、俺は息を呑んだ。
「読者は、私の教えた『ノウハウの型』にお金を払ったのではありません。あなたの流した血と、そこから這い上がろうとする足掻きに、自分の姿を重ね合わせてお金を払ったんです。誰がやっても同じだった? 違います。その『痛み』を知っている、そしてそれを文章という形に昇華できる底力を持っていた――あなただから、できたんです」
それは、俺が今まで生きてきた三十年間の人生の中で、上辺だけの「優秀なエリート」としての評価ではなく、自分という人間の最も泥臭く、最も弱い部分を、根こそぎ肯定された瞬間だった。
麗子の厳しい表情が、ふっと崩れた。
そして、あの初デートの土曜日の書店の時と同じ、いや、それ以上に柔らかく、そして誇らしげな笑みを浮かべた。
「自分自身の努力と苦しみの価値を、一番身近で見ていた私に向かって『誰でもできた』なんて安売りしないでください。……私の自慢の弟子なんですから」
その無垢な、花がほころぶような笑顔を至近距離で見た瞬間だった。
ドクンッ、と。
初収益を見た時よりも、はるかに大きく、心臓が跳ね上がった。
周囲のオフィスの喧騒も、電話のベルの音も、同僚たちの話し声も、すべてが遠くにフェードアウトしていく。
俺の視界には、目の前で少し恥ずかしそうに伏し目がちになった、彼女の小さな姿だけが鮮烈に焼き付けられていた。
……ああ、そうか。
俺は、無意識のうちに自分の口元を手で覆っていた。
全身の血が、信じられないほどのスピードで駆け巡り、顔面がカッと熱くなっていくのが自分でもはっきりと分かった。
借金返済という切実な目的で始まった、スパルタ事務員とポンコツ管理職による秘密の師弟関係。
月20万なんていう遠すぎる目標を目指して、泥にまみれ、罵倒され、それでも食らいついてきた一ヶ月。
このどうしようもない熱の正体を、俺はついに正しく直視せざるを得なくなった。
――俺は、この人のことが、好きなんだ。
「……凡太さん? どうしました? 急に顔が赤くなって、風邪でも引いたんですか?」
「い、いや! なんでもない! なんでもないから、少しだけ俺から離れててくれ! 俺の心臓のタイパに悪い!」
「は……? 心臓のタイパ? 何を意味不明なことを……」
不審そうに首をひねる彼女から、俺は逃げるように視線を外した。
ただのビジネス上のタスクとして始まったばかりのこの副業ゲームに、俺は自ら、史上最大にして最悪の特大エラー項目を抱え込んでしまったらしい。
『月20万稼いで、この女にふさわしい男になる』
そんな借金返済よりも遥かにハードルの高い最終目標を胸に、俺の――俺たちの第二の戦いが、今ここから始まろうとしていた。




