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ポンコツ管理職のド底辺note副業奮闘記 〜社内一の地味な事務員が、実は月20万稼ぐマーケティングの天才だったので弟子になります〜  作者: 肉球ぷにぷに


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第11話:1,012円の重み

 金曜日の夜二十一時過ぎ。

 俺たちは、喧騒に包まれた赤提灯の大衆居酒屋を出て、新宿駅の南口へと向かう緩やかな坂道を並んで歩いていた。


 初春の夜風はまだ少し肌寒かったが、アルコールの回った俺の身体には、その冷たさが逆に心地よかった。

 隣を歩く麗子も、普段は絶対に飲まないと言っていた梅酒を二杯だけ口にしたせいで、その色白の頬がほんのりと桜色に染まっている。


「……今日は、本当にごちそうさま。なんだか、年下の事務員に奢ってもらうなんてエリートのプライドが丸潰れだ。でも、不思議と嫌な気分じゃないな」


 俺が両手をスーツのポケットに突っ込んだまま夜空を見上げて言うと、麗子は少しだけ歩調を緩め、呆れたようなため息をついた。


「まだエリートなんて寝言を言っているんですか? 今日の凡太さんは、手取り1,012円の悲惨な現実を知って、居酒屋で泣きそうになっていたただのひよっこクリエイターですよ」


「うるさいな! 泣いてない! ちょっと目に煙が入っただけだ!」


 俺は慌てて強がったが、麗子はクスッと小さく笑うだけで、それ以上は追及してこなかった。

 駅に向かう人混みの中、俺たちはしばらく無言のまま、一定の距離を保って歩き続けた。


 靴音がアスファルトを叩く音だけが、やけに鮮明に聞こえる。

 俺は、自分の胸の奥で、まだ静かに燃え続けているあの不思議な熱の正体について考えていた。


「……なあ、麗子。俺、今日確信したよ」


 不意に俺が立ち止まって口を開くと、少し先を歩いていた麗子も立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

 街灯のオレンジ色の光が、彼女の丸眼鏡のフレームを鈍く光らせている。


「今日、俺のスマホのダッシュボードに表示された1,500円……手取りで言えば1,012円だけどさ。その重みは、俺が毎月会社から振り込まれる数十万円の給料とは、全くの別物だった」


「……別物、ですか?」


「ああ。別物だ」


 俺は一つ深く深呼吸をして、自分の正直な気持ちを、飾ることなく言葉にした。


「会社の給料っていうのは、極端な話、俺がサボっていても、誰にも読まれない無駄な資料を作っていても、ただ机の前に八時間座っていれば自動的に振り込まれる『時間と引き換えの安定』だ。そこに俺自身の純粋な価値なんて、本当はないのかもしれない。上司や会社の看板という強固なシステムに守られているからこそ、毎月お金という結果が保証されているだけなんだ」


 麗子は何も言わず、ただ静かに俺の言葉に耳を傾けていた。


「でも、今回の1,012円は違った」


 俺は右手を胸に当てた。


「会社の看板も、役職も、上司の権威も、一切ない。俺という一人の人間が、過去の自分の無能な失敗と泥臭く向き合って、キーボードを叩いて、見ず知らずの誰かの痛みに必死に寄り添おうとした結果だ。……俺が、俺自身の力だけで、ゼロからイチを生み出したんだ。その事実が、たまらなく恐ろしくて、そして最高に誇らしいんだよ」


 言葉にすればするほど、俺の感情は高ぶっていった。


 初めての有料記事。読者に「一貫性の罠」を仕掛け、絶望を突きつけ、そして救いの手を差し伸べたあのリード文。タイパやコスパなんていう言葉を忘れて、ただひたすらに「俺の文章を必要としている誰か」に向かって、血を吐くような思いで書き殴った時間。


「俺は、ずっと傷つくのが怖かった。だから『エリート』っていう鎧を着込んで、コスパだのタイパだの尤もらしい言い訳をして、本気でバットを振ることから逃げていたんだ。……でも、お前が俺の鎧を容赦なく剥ぎ取って、無理やり打席に立たせてくれたおかげで、ようやく分かったよ」


 俺は麗子に向かって、真っ直ぐに頭を下げた。


「本当に、感謝してる。お前はただのスパルタ事務員なんかじゃない。俺の人生を変えてくれた、最高の師匠だ」


 周囲を行き交う通行人たちが、スーツ姿で道端で急にお辞儀をする俺を奇異の目で見ていたが、そんなものはどうでもよかった。

 今の俺にとって、この世界で一番価値があるのは、目の前に立つ彼女の存在だけだったからだ。


 しばらくの間、沈黙が落ちた。


 顔を上げると、麗子は目を少し丸くして、驚いたように俺を見つめていた。

 彼女がこれほど感情を露わにするのは、俺が会社の給湯室で初めて泣きついた時以来かもしれない。


「……ずるいですね、凡太さんは」


 やがて、麗子はぽつりと呟いた。


「え?」


「そういう、自分の一番弱くて泥臭い部分を、変なプライドを捨てて真っ直ぐにさらけ出せる人間は……私の知る限り、ビジネスの世界で一番強い生き物です。本人は全く無自覚なのが、本当に腹立たしいくらいに」


 麗子はそう言うと、ふいっとそっぽを向いてしまった。


「お、おい! なんで腹を立ててるんだ!? 俺は最高級の感謝の気持ちを――」


「さあ、帰りますよ! 明日明後日は休日です。初収益に浮かれないで、次の記事の企画を最低でも五本は考えておいてください。月曜日の朝九時に、給湯室で厳しくチェックしますからね!」


 麗子はスタスタと、逃げるように足早に歩き出してしまった。


「お、鬼! 休日くらい休ませてくれよ! ……って、待てよ! 駅の改札はこっちじゃないぞ!」


 少しだけ赤くなった耳まで見える彼女の小さな背中を追いかけながら、俺は自分でも驚くくらい、自然な笑顔を浮かべていた。

 手取り1,012円から始まった、地獄のように険しくて、最高にエキサイティングな俺たちの「商売」は、まだたった一つの「イチ」を刻んだばかりなのだ。

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