第10話:リアルすぎる手数料と、初めての祝杯
金曜日の午後十九時。
退勤ラッシュでごった返す大通りから一本路地に入った、赤提灯が揺れる大衆居酒屋。
煙草の煙と焼き鳥の匂いが充満する店内の喧騒の中で、俺は目の前に座る麗子に向かって、深々と頭を下げていた。
「麗子師匠! 本当に、本当にありがとう! お前のおかげで、ついに俺の目標だった『副業での初収益』を達成することができた!」
俺は熱に浮かされたように早口でまくしたて、ドンッ! と勢いよく自分のジョッキをテーブルに置いた。
対面の席に座る麗子は、周囲の騒がしさなど全く意に介さない様子で、お通しの枝豆を端から几帳面に一つずつ食べている。今日の彼女は会社と同じグレーのカーディガン姿だったが、俺の目にはそれがどんなハイブランドのドレスよりも神々しく見えていた。
「まだ乾杯もしていませんよ、凡太さん。それに、声が大きすぎます」
麗子は静かに淡々と先制パンチを放ったが、今日の俺はそんなことではダメージを受けない。ダッシュボードに燦然と輝く『1,500円』の数字が、俺を無敵のモードにしていたのだ。
「いいじゃないか! 500円の記事が三個も売れたんだぞ! 俺の知識が、見ず知らずの他人に1,500円分の価値があると認められたんだ! さあ、今日は俺の奢りだ! 好きなものを頼んでくれ! 刺身の盛り合わせでも、だし巻き卵でも、なんでもこいだ!」
俺がメニュー表を勢いよく広げると、麗子は枝豆を食べる手をピタッと止め、無表情のまま俺の顔をじっと見つめた。
その底冷えするような視線に、俺の全身を覆っていた無敵のオーラが急速に萎んでいくのを感じる。
「……あの、師匠? 何か俺、間違ったこと言ったか?」
「凡太さん。一つ、重大な事実を勘違いしているようですが……あなたが稼いだのは『1,500円』ではありませんよ」
「は? いやいや、ダッシュボードにはハッキリと1,500円って……ほら!」
俺がスマホの画面を突きつけても、麗子は微かにため息をつき、おもむろに自分のスマホを取り出して電卓アプリを立ち上げた。
「いいですか? 私たちが使っているテキスト販売プラットフォームの手数料の仕組みを、もう一度よく思い出してください。まず、売上金額に対して決済手数料が引かれます。クレジットカード決済ならおおよそ五パーセントですね」
麗子の細い指が、パチパチと無慈悲に画面を叩く。
「1,500円から五パーセントを引いて、1,425円。そして次に、その残った金額に対してプラットフォームのシステム利用料が引かれます。これがおおよそ十パーセント」
「じゅ、十パーセント!? 結構取るな……」
「さらに、です。売上を自分の銀行口座に引き出すためには、振込手数料として一律で約270円が容赦なく引かれます」
「えっ……待ってくれ。嫌な予感がする」
俺は両手で顔を覆った。麗子は全く容赦することなく、計算結果の出たスマホの画面を俺の目の前にスッと突きつけた。
「以上の諸経費をすべて差し引いた結果、凡太さんの手元に確実に入ってくる純利益(手取り)は【1,012円】です」
「せんじゅうにえん……だと!?」
俺は悲鳴のような声を上げた。
1,500円が、一瞬にして千円札一枚と小銭のレベルにまで目減りしてしまったのだ。隣のテーブルのサラリーマンたちがギョッとしてこちらを見たが、俺はそれどころではなかった。
「ふ、ふざけるな! 俺が血と汗と涙を流して、何十時間もかけてひねり出した文章だぞ! なんで何もしないプラットフォーム側が五百円近くも持っていくんだ! これは搾取だ! 悪徳商法だ!」
俺が机をバンッと叩いてわめき散らしていると、麗子は冷え切った目で俺を見下ろした。
「エリートを自称する人間の口から、そんな素人丸出しの愚痴が出るとは思いませんでした。いいですか凡太さん。集客、決済システム、サーバーの維持管理、セキュリティ。それらをすべて個人で一から構築したら、どれだけの時間とコストがかかるか分かっているはずです。その莫大なインフラをたった十数パーセントの手数料で『間借り』させてもらっているからこそ、あなたのような素人でも、今日こうして売上を立てることができたんですよ」
「ぐっ……ま、正論だけど……! でも、実際に数字で見るとショックがデカすぎる……」
俺は力なく項垂れた。
会社から毎月振り込まれる給料は、税金などが引かれているとはいえ、桁が大きいからそこまでリアルな痛みを感じなかった。しかし、『自分が作ったモノを直接売る』という生々しい商売の世界では、数百円の手数料が、自分の肉を直接削ぎ落とされるような強烈な痛みとなって襲いかかってくる。
「これが『商売のリアル』です、凡太さん。売上と利益は違う。手元に残る現金こそがすべて。この感覚を骨の髄まで叩き込むまでは、絶対に会社を辞めて独立するなんて寝言は言わないでくださいね」
麗子の厳しい言葉の刃に、俺は何度も深く頷くしかなかった。
全くその通りだ。月20万なんていう目標は、遥か彼方の霞のように遠い。俺はまたしても、自分の甘さと未熟さを思い知らされた。
「……ごめん。浮かれてた俺が馬鹿だった。手取り千円じゃあ、今日の居酒屋の会計なんて、とてもじゃないけど払えないな。やっぱり俺の奢りはナシで、割り勘に――」
俺が意気消沈して言いかけた、その時だった。
「――すみません、生中を二つお願いします」
麗子が、通りかかった店員を呼び止め、静かに注文を通した。
「え?」
俺が目を丸くして見つめると、麗子はいつもの無表情のまま、少しだけ楽しそうに唇の端を吊り上げた。
「何勘違いしてるんですか。ここは凡太さんの『初収益』の祝賀会ですよ? 弟子が初めて自分の力で稼いだ千円を、こんなチェーン店のぬるいビール代なんかに消えさせるわけにはいきません。今日は、私がご馳走します」
「れ、麗子……!」
「ただし、次からはキッチリ稼いで、私に高級焼肉を奢ってもらいますからね。そのための投資です」
運ばれてきた二つのジョッキ。
水滴のついた冷たいガラスの表面が、店のオレンジ色の照明を反射してキラキラと輝いている。
俺は目の前が少しだけ滲むのを必死に堪えながら、震える手で自分のジョッキを持ち上げた。
「……絶対、奢る。月20万稼いで、お前が腹いっぱいになるまで一番高い肉を食わせてやるからな」
「ええ、楽しみにしていますよ。……それじゃあ、凡太さんの初めての『ゼロイチ』達成に」
麗子もジョッキを持ち上げ、俺のグラスへと軽く打ち合わせた。
カチン、とガラスのぶつかる澄んだ音が、喧騒の中で小気味良く響く。
「乾杯」
俺にとって、これまで生きてきた中で一番美味くて、一番泥臭い、最高の一杯だった。




