2-14
その日の夜、芳野家に訪問者があった。
「佐奈ちゃん。」
「遙斗さん…こんばんは。」
「こんばんは。…征志さんは出張だよね。」
「はい…。」
嫌な顔を見たと視線を夏目から外す。
これ以上嫌な思いはウンザリだと、佐奈は後退るように少しずつ距離を置いた。
「ちょっと遅い時間だけどケーキ一緒にどうかな?それと日奈ちゃんを呼んできてくれると有り難いんだけど…、」
そう言ってケーキの箱を渡される。
佐奈はそれを見下ろしながら、息が詰まるのを感じた。
首を締め付けるものは何もないはずなのに息苦しい。
このとき佐奈は、これほどまでに参っていたのかとようやく自覚した。
「自分で、呼びに行けば良いじゃない…。」
「……分かった。」
夏目の分かったと言う返事が佐奈には冷たく聞こえた。
何故自分ばかりがこんな思いをしなくてはならないのか。
佐奈の中で今まで我慢していたものが弾けたように溢れ出す。
それは涙と共に溢れてきて、ケーキの箱を取ろうとした夏目の手は届かなかった。
「もうっ…いつまでも私を使用人扱いしないで…!!私は馬鹿じゃない!私はこんな不味いケーキ大嫌い!」
ボロボロと涙を零しながらヒステリックに叫ぶ。
最後には、受け取ったケーキの箱を床に思い切り投げつけた。
「バカにしないでよっ…!全部分かってるんだから!」
佐奈はそのまま夏目の顔も見ずに立ち去ろうとする。
勢い良く振り向くと、背後には日奈が立っていた。
「佐奈ちゃん、夏目さんに謝って。」
「っ…、」
日奈の冷たい声に佐奈は声を上げて泣きじゃくった。
悪い事をした自覚はある、罪悪感もある。
それでも言葉以上に日奈の所為だと責め立てたい気持ちの方が強かった。
「食べ物を粗末にしたら駄目だよ。夏目さんもせっかく買ってきてくれたのに…。」
「っう、るさい…!うるさい!いらない!二人ともシネ!」
最後には声を裏返しながらヒステリックな声で叫び、佐奈は部屋へ走っていった。
ことの様子を呆然と見ていた夏目はハッと正気に戻る。
自身が買ってきたケーキを冷たい目で見下ろした。
「すみません…食べますか?」
「いらね。捨てろ。」
「分かりました。捨てます。」
淡々と答えた日奈が不愉快で、夏目はケーキの箱をわざと踏みつけた。
踏み潰された箱の隙間からケーキの生地がグチャグチャと出てくる。
嫌がらせに手間を増やしたいと云うことだろう。
その様子を日奈は冷たい目で見届けた。
佐奈は暗い部屋で一人泣き続けた。
いつもでも佐奈に何かがあれば様子を伺ってくる日奈も、今日ばかりは何も言ってこない。
幼い頃に寄り添ってくれた母も、出張で不在の父も、恋人の虎も誰も居ない。
佐奈は泣きながら、もう凛子しか居ないとメールを打った。
『助けて』
たった一言、メッセージを送った。
一分、二分と時が経つ。
凛子からの返信はなく、佐奈の思考はどんどん停止していった。
もう泣く力も尽きた時、部屋の扉がゆっくり開く。
電気が点けられ、眩しさに目を閉じた。
「佐奈…。」
佐奈はその正体を、名前を呼びかける声で確認した。
「なんで…、来たの…?」
部屋へ入ってきたのはここには居ないはずの虎だった。
「佐奈に…会いたかった。」
返答を聞いた佐奈はフフ…と壊れたように笑い出す。
悲しいはずなのに、何故か可笑しい答えを聞いた気分だった。
きっともう、笑わないとやっていられないのかもしれない。
「佐奈…。」
「フフ…私…ホントは分かってるよ…?馬鹿じゃないもん…。」
「……。」
「日奈に言われて来たんでしょ?日奈の言いなりなんでしょ?日奈が仕組んだんでしょ?」
「確かに…アイツに言われてきた。でも決めたのは俺だ。俺の意志でここに来た。」
「ぅっ…、」
佐奈は顔に手を被い、耐えきれず声を上げた。
枯れたはずの涙が最後の力を振り絞るようにジワジワと目に溜まる。
虎のその言葉を信じたいと思う反面、信じられないという気持ちが勝っていた。
「遙斗さんは…、遙斗さんは、いつも…日奈に言われて、私に話しかけてて……、」
「……。」
「私なんて、ホントはどーでもよくて、日奈がいつも干渉してきて、私の幸せは…、いつも、日奈が無理矢理…作ってて、だからっ…」
虎に背中を撫でられながら、つたない声で途切れ途切れで気持ちを吐き出す。
時折しゃくり上げ、話せば話すほど胸が痛くなった。
そんな佐奈の様子に、これほどの感情を一人抱え込んでいたのだと虎は初めて知った。
何故なら佐奈は、いつだって笑っていた。
「だから、虎も日奈の言いなりなんでしょ…?私のためって、嫌々付き合ってるだけ、遙斗さんみたいに、虎も日奈と結託してる…」
「…してないよ。遙斗さんの事はよく分かんねーけど、俺とアイツが結託するなんて有り得ないだろ?」
「だから、嘘なんでしょ?」
「違うって…!俺はアイツじゃなくて佐奈を好きなんだ。」
「だったら…!だったら何で、何でぬいぐるみ持ってたの?」
ぬいぐるみ…と呟いた虎に対して、佐奈は机の上に置かれた白いクマのぬいぐるみを指差した。
あれは佐奈が虎から貰ったものであり、虎が日奈から貰ったものであり、佐奈が日奈へ押し付けたものでもあった。
その経緯を知らない虎は不思議そうに、そして嫌な予感に胸を高鳴らせた。
「虎が捨てようとしたあれは私なの。」
「え…?」
「私が日奈にあげたクマ。なんで虎が持ってたの?なんで捨てようとしたの?」
虎は動揺して、口を手で塞いだ。
佐奈の言っていることがイマイチ理解出来ず、情報を急いで整理した。
「つまり…佐奈がアイツにやったクマを、俺が貰って、佐奈にやった?」
「そう…日奈と繋がってたんでしょ?今までのことも全部嘘なんでしょ?」
「待って…アイツ。ちょっとクマ貸せ。アイツの部屋上だよな。」
「答えてよ!嘘なんでしょ!」
立ち上がった虎に縋るようにして佐奈は泣き叫んだ。
虎が日奈の所へ向かおうとするのが、自分を本当に捨てようとしているように思えた。
「虎っ…!」
「っ…嘘じゃねぇよ!俺は何度も佐奈が好きだって言ってるだろ!?何回言えば分かるんだよ!那智も新太もようやく消えたと思ったのに、今度は日奈日奈って…!いい加減俺の気持ちも考えろよ!お前は俺のことだけ見とけ!誰が捨ててやるか!」
虎は勢い良くまくし立て、佐奈の唇に荒々しくキスをした。
くっついて離れただけのそれに驚いて佐奈の涙が一度とまる。
そして再びグシャッと顔を歪ませ、ボロボロと大粒の涙を落とした。
「ごめん…無理矢理みたいに…嫌だった?言い過ぎたかも…、」
「ううん…ちがう、なんか…、」
虎は両手で佐奈の小さい顔を包み込み、覗き込むように顔と顔を近付けた。
一度目を瞑り、もう一度開ける。
虎は佐奈の目を見つめて、落ち着いた口調で言い聞かせるように話し出した。
「俺、正直上から目線とか嫌いだけど……俺だけ見とけよ。俺が幸せにするから…。アイツからの幸せはオマケだと思えば良い。俺が一番に佐奈を幸せにする。アイツには負けねぇ。」
「っ…、」
「佐奈のこと、小さい頃からずっと、守らないといけない存在だって思ってた。佐奈が本当に欲しいのは母親だって知ってる。けど俺は佐奈の母親にはなれない、それでも…佐奈の側にいたい。」
虎はようやく胸の内がスッキリとした。
佐奈の目を見て、ゆっくりと話して、気持ちが伝わっている実感があった。
今まではお互いの主張ばかりで受け止められなかった感情を、ようやくお互いに受け止められる予感がしていた。
「信じていいの…?」
「良いよ。」
「信じられない…、」
「早いわ。もうちょっと頑張ってくれよ。」
「うん…虎のことだけ見てる…。」
佐奈は呟いてから、先程叫びながら気持ちを吐露した虎の様子を思い返した。
甘いはずの言葉をまるで体当たりのように、半ギレで叫んでいた。
なんだか可笑しいなぁと佐奈は口元を緩めて、涙で濡れた目元もようやく柔らかくなった。
「虎も…私のことだけ見とけ。」
「あのなぁ…散々見てるっつの。ばーか。」
笑い出した佐奈に呆れ、それでも嬉しそうに、赤くなった佐奈の鼻にティッシュを押し付けた。




