2-11
『日奈は本当に賢いな。』
そう言って芳野征志は日奈の頭を優しい手つきで撫でた。
嬉しそうに父からの褒め言葉を受けとめる日奈。
その姿を離れた場所から見ていた佐奈は、白いクマのぬいぐるみを無表情で抱き締めていた。
『ひなちゃん、またパパにほめられたね。』
『‥うん、』
『…さなが、ワルイコだから…パパはさなによしよししないのかな…?さなもおべんきょうがんばってるのに…』
佐奈は目に涙を浮かべてしゃがみ込んだ。
『さなちゃんはいいこだよ。よしよし。』
『っ…!パパじゃなきゃイヤだもん!パパによしよししてもらいたいもん!』
佐奈は大声で泣き出した。
そんな佐奈を見て、日奈はオロオロとする。
『ひなちゃんばっかり!パパはさながキライなんだ!』
『そんなことないよ、さなちゃんはかわいくていいこだよ。』
『うそつき!パパもひなちゃんもだいきらい!』
佐奈は抱き締めていたクマのぬいぐるみを日奈に向かって投げつけた。
顔で直に受けた日奈はイタッと声を上げたが、佐奈は自分の事で頭がいっぱいで、謝りもせずベッドへ駆け込み布団を被った。
◇
「ヤな夢。」
佐奈は起きて早々に呟いた。
過去の…一番辛かった記憶を夢で見て気分が悪い。
幼い頃、父の征志はひいきするように日奈を可愛がっていた。
いつも褒められ可愛がられるのは日奈ばかりで、佐奈は征志に構ってもらえた記憶がない。
それでも母だけは佐奈の味方で、いつも佐奈を愛してくれた。
日奈にしか興味のない征志の分を埋めるように母は佐奈を愛してくれて、それだけが救いだった。
しかし、その最愛の母はもうここには居ない。
「ママ…。」
枕元に飾ってある母の写真を手に取り抱き締める。
あの頃とは全てが変わった。
征志は佐奈を愛してくれる。
日奈も相変わらず優しく気にかけてくれている。
たった一人、側に居てくれる虎がいる。
その平穏が心地良くて、憎かった。
形だけの平穏など、本当の幸せではないと佐奈は感じていた。
本当の日奈は頭が良い。
物覚えが良く、いつも平均を上回る頭脳をしていた。
それなのに母を失って唯一の生きる希望を失った佐奈の為に、日奈は頭の悪いフリをし始めた。
佐奈の幸せ、それは日奈の自己犠牲により成り立っている。
家族と距離を置き、佐奈の居場所を作る日奈。
この事を理解している分、佐奈は余計に苦しかった。
だからと言って愛してくれる存在を再び失いたくはない。
好きな人を失う恐怖をもう二度と味わいたくない。
佐奈が人を愛する事を怖がるのは、日奈が頭の悪いフリをしただけで態度を変えた征志の影響も大きかった。
「もう…虎しか居ないの…だからお願い、虎を私から奪わないでっ…、」
日奈は全てを奪っていく、そう佐奈は思った。
要領の良さ、肌の白さ、無条件に愛される体質。
佐奈の求める全てを手にしていながら、それらを平気で捨てられる執着心の無さ。
全てが劣っていて、全てに劣等感を抱いていた。
白いクマのぬいぐるみがどういう経緯で虎の元へ行ったのかは分からない。
ただ、あのクマの存在が恐ろしかった。
いつの日か自分が手放したぬいぐるみを中心に、知らない所で日奈と虎が繋がっている事実が怖かった。
◇
「おう。」
「うん。」
夏休みも終盤に差し掛かり、那智と日奈は約1ヶ月振りに会っていた。
塾や予備校での勉強生活に疲れていた那智が気紛れに日奈を呼び出したのだ。
場所は近所のパスタ屋。
予備校の帰りに待ち合わせをしたため、晩御飯を食べることとなった。
「髪伸びたな。切れ。」
「うん…。」
「…また自分で切るなよ?」
「……。」
小さく頷いた日奈を見て、那智は微かな不安を覚えた。
そして念には念を入れ再び忠告し、目の前に運ばれてきたパスタを食べ始めた。
「何してた?」
「本読んだり…勉強したり。」
「遊びは?」
「特に…。」
「不健康極まりないな。まぁ俺も、一昨日まで勉強合宿行ってたけど。」
連日の疲れをとるようにふぅと溜め息を吐く。
旅行だ何だのと騒げたのは夏休みのほんの一部で、それ以外は勉強詰めだった。
大学生になったら絶対に死ぬほど遊びまくろう、と言う思いだけが唯一のモチベーションなのだが、それだけで毎日勉強を続けるというのも限界があった。
「あーあ……映像記憶は良いよなぁ…。」
「……。」
「まぁ良いわ。受け取れ。」
那智はぶっきらぼうに言い、小さな袋を机の上へ投げた。
透明な袋の中身はネックレスで、小さいハイビスカスをモチーフにしたチャームがついていた。
「ハワイ土産。」
「良いの…?」
「二百円だったし。」
「…ありがとう。」
小さく笑った日奈が癪で、二百円を損したと理不尽な文句を那智は言い出した。
照れ隠しであることが見え見えな言い分に日奈はもっと可笑しくなる。
素直に那智が可愛いと思った。
「アクセサリーとか、それが最初で最後じゃね?」
「どうだろう…?」
日奈が誰かと恋愛をする様子が、那智は想像出来なかった。
本来ならば普通に恋愛をして結婚をして家庭を持つことを一度は夢見るはすが、日奈と恋愛が結び付かない。
そんな日奈にアクセサリーをプレゼントするのもどうかと思ったが、一度は頭に過ぎった案を実行しないのも気持ち悪かった。
「付き合いたい願望とかあんの?」
「ないかな…。」
「じゃあ結婚願望は?」
「うーん…それもないかなぁ…。」
「いや、つーか今じゃねぇぞ。将来的に…。」
「あんまりそう言うのは…。」
日奈らしい返答に那智は呆れて溜め息を吐いた。
本人がこれでは想像がつかないのも仕方がない。
本当にこの二百円のアクセサリーが、男性から貰った最初で最後のの贈り物になりそうだと思った。
「一生独身宣言とかすげぇな。」
「だって、したいと思わないもの。」
「うわぁ…孤独死とかヤダわー。」
「そっか。じゃあ、今から孤独に慣れる練習しないといけないね。」
「お前なぁ…。」
そういう問題ではないと呆れて言葉も出なくなる。
しかし日奈の意外な発言にも慣れてきた那智は、適当に冗談を並べることにした。
「お前が先に死んだら俺がお前の骨埋めてやるよ。」
「本当…?なら、一人で死んでも安心だね。宜しくお願いします。」
律儀にお願いをした日奈を見て、那智は可笑しそうに笑い出した。
恋愛の話から死後の話になったのが変で可笑しい。
「その代わり俺より先に死ねよ?あと墓の場所どうする。」
「そうだね…今は墓友っていうのもあるみたいだし…。もうそれで良いかな?」
「オイ、投げやりになんなよ!しかも死んでから友達作るって…。」
話せば話すほど可笑しな展開をする流れに、日奈もたまらず小さな笑い声を上げた。
那智もツボに入って笑いが止まらない。
遂には込み上げてくる笑いで話しが出来なくなった。
「ヤッベー。」
「とにかく、お墓は那智君に任せます。」
「お前ほんっとヤダわ…あーヤッベ…クソだな…、」
どこまでも真剣な日奈の様子が那智のツボを更に押す。
こうして二人の間で老後をどうするかという話題がブームとなった。




