2-10
夏休みに入って一週間ほど経った頃、芳野の家の客間には虎がいた。
普段ならば佐奈の部屋へ直行するが、起きたばかりで準備が出来ていないらしい。
客間で暫く待っていて欲しいと言われていた。
「……チッ。」
「……。」
客間をたまたま通りかかった日奈を見て虎は嫌な顔で舌打ちをした。
しかしそのまま素通りしようとした日奈を軽く呼び止める。
そして話し相手に座るよう指示をした。
「あれからピンポン球のこと考えてみたんだけど…やっぱり理解不能だった。でも、お前らが姉妹なんだなってことはよく分かった。似てるよホントに。」
「そう…ありがとう。」
「別に褒めてねぇけど。」
分かりやすく見下したつもりが、良いように捉えられて苦笑いを浮かべる。
相変わらず予測不可能で、虎は朝から疲れたような気分になった。
「あのさ…佐奈が疑心暗鬼なのも、お前がちょっと変なのも、全部母親が原因だろ?」
気を取り直して今日一番聞きたかったことを口にした。
母親に執着している佐奈も、その母親の分を埋めるために佐奈に執着する日奈もどこか偏っている。
つまり全ての原因は、二人の母親だと言うことだった。
「半分は正解、かな。」
「じゃあ…もう半分は?」
具体的に話すつもりのない日奈は曖昧にそう答えた。
そして半分と答えたのは、全ての原因が母だけだとは思えないからだった。
「私自身の存在…私の存在が罪…と言えば良いのかな?」
「は?つまり…?」
「…ママも、佐奈ちゃんも、可哀想な人。私の為に悲しい思いをしてる…。」
虎は日奈の発言をこれっぽっちも理解出来なかった。
日奈の存在が佐奈と母親に大きな影響を与えているとは言い難く、これこそ被害妄想ではないのかと思う。
虎はこれ以上何を聞いても理解出来ないだろうと遂には諦めて何も言わなくなった。
「…何、話してるの?」
声のした方を見れば、佐奈が暗い表情で佇んでいた。
虎は少し焦ってドキドキしたが、日奈が立ち上がりながら冷静な声でわけを話した。
「虎君の話し相手になっていただけだよ。」
「…どんな話?」
「佐奈ちゃんのこととか、ピンポン球とか…。」
「意味不明。」
日奈は客間から出て行き、ようやく虎と佐奈の二人きりになる。
喧嘩してから会うのは初めてで、気まずい空気が流れ出した。
「ピンポン球って何?」
「知らねーよ。アイツが勝手にピンポン球の中には空気しか入ってないとかポエマーなこと言い出して…。」
「意味不明。そんな話して面白いの?」
「さぁな…本人に聞けば。」
二人は俯き気味に話す。
互いに口調は刺々しいもので、それでもどこかで仲直りをするタイミングをはかっていた。
「まだ怒ってるか…?」
「ううん…私、ちょっと冷静じゃなかった。ごめんね…。」
「俺も、紛らわしいことしてごめん。これからは気を付ける。」
喧嘩直後までは正直もう無理だと感じていた虎だったが、理解出来ないなりにも日奈と話したことで、本来の気持ちに気付くことが出来た。
佐奈の側に居たい。
これからも寄り添っていきたい。
そんな幼い頃からの想いを、虎はずっと大切にしたかった。
晴れて仲直りをした二人は、久々に虎の自宅へ行った。
基本的には佐奈の家で会っていることもそうだが、日奈の存在を忘れたいという気持ちも虎の中にはあった。
性格が合わない…というよりも、意味の分からないことへの恐怖心かもしれない。
なるべく関わらない方が良いと、虎は本能的に感じていた。
「ねぇ、虎…?」
「んー?」
「……。」
虎の部屋へ着くなり佐奈はある一点を見つめて立ち止まった。
その視線の先にあるもの…それは佐奈の心を激しく揺さぶるものだった。
心臓が嫌な音を立て、まるで自分の身体ではないような感覚に襲われる。
虎が不思議そうに顔を覗けば、感情の読み取れない顔で固まっていた。
「どうした?」
「あれ…どうしたの?」
「え…。」
依然としてその場から動く気配のない佐奈が指で差したのは、白いクマのぬいぐるみだった。
高校生男子が私物として持つには可愛い過ぎる代物は、幼い頃に日奈からもらったものだ。
実は先日の会話で日奈のことを妙に思ってから、このぬいぐるみを捨ててしまおうかと机の上に出したまま放置していた。
まさかそれに佐奈が反応するとは思っていなかったため、虎は曖昧な返答をすることにした。
「誕生日に貰った。」
「いつ?」
「さぁ…?だいぶ昔。整理してたらたまたま出てきただけ。」
「へぇ…。」
ドキドキしながら佐奈の様子を伺うと、ゆっくり机へ近付いていき、そのぬいぐるみを手にとって隅々まで見始めた。
そして佐奈自身も違う意味でドキドキしながら確認をする。
見れば見るほど、このぬいぐるみに見覚えがあった。
「これ、衣装は綺麗だけどぬいぐるみ自体は汚いね。」
「だな。」
「……虎の趣味じゃないでしょ?」
「まぁな…。近々捨てようかと思って。持ってても仕方がないし。」
せっかく仲直りしたばかりだと言うのに、再び喧嘩する訳にはいかない。
何かしら敏感な佐奈を刺激しないような答えを虎は口にした。
「何で捨てるの?」
「いや…持ってても意味ないかなぁって…。」
「そうやって簡単に捨てるんだ?人から貰ったものでしょ?」
「…どした急に。」
佐奈を思って出した答えは不正解だったようで、泣きそうな声で虎を責め立てた。
「ねぇ…虎。」
「どうした…?」
「これ……。」
「うん。なに?」
思いつめた様子の佐奈に、また勘違いをしているのだと虎は思った。
ついには黙り込んでぬいぐるみを見つめる姿はどこか痛々しく、守るどころか自分が傷つけているのだと、虎は自身を不甲斐なく思った。
「勘違いして泣くなよ?別に深い意味のある代物じゃねぇから。人形とかって気軽に捨てんの怖くて対応に困ってんだ。」
「そっか…だよね。捨てるの怖いなら、私が貰っても良い?よく見たら割と可愛いし。」
「別に良いけど…嫉妬して夜中に針刺してやんなよ?」
「えーそんなことしないよ~!私、どれだけ嫉妬深いのよー?」
ようやく笑った佐奈に虎はホッとした。
そして、ちゃんと丁寧に言えば伝わるのだと気分が良くなった。
このまま上手いこと関係を築いていければ良いとそう思う。
佐奈の笑顔が虎にとっては何よりも幸せなものだった。
「なんか飲む?」
「うん。何でも良いよ。」
「了解。」
虎が部屋を出て行った瞬間、佐奈は張り付けていた笑みを意図的に消した。
ぬいぐるみを見ただけで溢れそうになる涙を堪える。
我慢、我慢。
佐奈は思う。
「可哀想な子。虎にも捨てられたんだ。」
小さな声はそう呟いた。




